表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/16

一人の城と市場の朝



小高い丘からその戦場を見下ろし、ウィリアムは小さな溜息を吐いた。



敗戦の気配が濃厚な国の兵士達の士気が、いつまでたっても下がらないのだ。

この様子では殲滅戦になるかもしれない。

そう考えると憂鬱になり、後方に控える終焉の系譜の者達を振り返る。



「戻れない事情でもあるのかしらね」



そう呟くのは、砲台のシーだ。


彼女が戦場に出てくるのはもっぱら戦争の時が多く、一線を引いて接してくれる上に良き同僚でもあるので、ウィリアムにとっては話し易い相手だった。


ただし、一定以上の距離を近付くと、伴侶である地竜を大事にする彼女は近付いただけ下がってしまう。

それどころか、名前を呼ぶことすら暫く前から禁じられており、その点についてはかなり仕事に支障をきたしていた。

このような、鳥籠に覆われ死者の行列が歩く土地には入れない彼女の伴侶は、とても嫉妬深い伴侶であるらしい。



「あの様子を見る限り、そうかもしれないな」

「あの国の王は、病で余命いくばくもないのだとか。その所為かもしれませんね」



そう呟いたのは、疫病を司る魔物であるローンだ。


猫のような耳と尻尾を持つ魔物だが、片方の耳は以前アルテアに捥がれてしまっている。

黒いフード姿でいることが多く、そのせいか、ウィリアムと並んで終焉の系譜の魔物として畏れられることも多い。


そして、狭量な砲台のシーの竜の伴侶が、自分の伴侶が名前を呼ばれてはいけないと考えるリストに載る仲間でもある。

よってローンも、彼女の名前を呼べない一人であった。



(ローンが来るということは、近くこの辺りで疫病が現れるということだな…………)



でなければ病の呪いが使われる筈だが、微かに感じられる魔術の気配からして、もし呪いに近しいものが振るわれるとしても、水の系譜の呪いではないだろうか。



「殲滅戦は嫌いよ。今は戦争だからと歯を食い縛ってかつての友好国を討つ兵士達も、あまりにも相手が引かないと、そこに落ちる憎しみは色を濃くしてしまう。最後に憎しみと絶望しか残らない戦場は、それはそれは惨めなものだもの」

「……………王が死ぬのであれば、尚更もういいだろうという気もしますが、小国同士の統一となれば、やはり敗戦国の王族達は処刑せざるを得ないでしょうね。死にゆく王の為に、その子供達を守ろうとする兵士達の意地なのかもしれません」

「ああ、困ったわ。明日は、夫との結婚記念日なのに。それまでに終わるかしら…………」



頭を抱えてそう呟いた砲台のシーに、ウィリアムとローンは顔を見合わせる。

仕事の場にそのような事情を持ち込まないで欲しいと思いかけ、その程度の事情でも混ざり込まない限り、これから転がり落ちるように劣悪な環境となってゆくこの戦場では、息も出来ないような閉塞感しか残らないかもしれない。



ひたひたと、戦場に殺戮と狂乱の匂いが忍び寄る。

どこまでもどこまでも、今はまだ、普通の戦争でしかない、健やかな終焉の地だが、どこかでその歯車が狂い出すのは、もはや止められないことなのだろうか。



「………………譲ってしまえば、早く終わるだろうに」



思わずそう呟くと、砲台のシーから呆れたような目で見られた。


けれども彼等にとっての王やその矜持は、彼等の家族や愛する者にとっては、救いとなるのだろうか。

踏み止まり捕虜となっても、生きてさえいればやがては家に帰れた筈の男達が、一人、また一人と命を落としてゆく。

その一方で、降伏を呼びかけていた側の兵士達も、困惑したような瞳に苛立ちを刻み、鞘に収める筈だった剣を再び振り下ろす。



どこまでも、どこまでも。



戦場はただ赤く染まり、その中をケープを翻してゆっくりと歩いた。

やがて動く者が少なくなり、陽が翳り、夕闇が全てを覆い隠してゆく。

夜闇は死者には優しいものだったが、とは言え終焉の凄惨さを消し去ってしまう訳ではない。


ただその時間の間だけ、カーテンを下すようにして隠してくれるだけのものだ。

またこの土地に朝が来た時、散らばり壊れた亡骸はいっそうに無残さを増しているだろう。



遠くで悲鳴が上がった。

死の精霊達に囲まれ、足元の暗闇から這い上がってきた死の妖精達に捕まった亡者達が、狼狽し、怯えて上げる悲鳴だ。

中には逃げ惑い、必死に抵抗している者達もいる。

愚かにも、その手を逃れさえすれば生きて家に帰れると思うのだろうか。



生き残った者達の中には、仲間達を守ろうとしてウィリアムに斬りかかってくる兵士もいる。

折れた剣を持ち、或いは血だらけの体でよろめきながら、そうして終焉を損なおうとした者達は一瞬で骨になり、終焉の魔術に触れた場合は灰になり亡骸すら残らない。


勿論その魂は死者の国には行けるが、終焉への反逆を企てた者達は、死者の日にも地上に戻れないくらいに魂が脆くなってしまっていることも多々あった。

こればかりは、ウィリアム自身でも手加減出来ないことであるので、こちらに向かって来る者達がいるといつも憂鬱になる。



からりと音を立てて地面に落ちたのは、涙を流しながらこちらに斬りかかってきた若い兵士の剣だった。

その背後には上官とおぼしき騎士が倒れて絶命しており、傍らにはぼうっと青白く光る死者がいる。

ウィリアムに剣を返され、ざあっと灰になって崩れた部下によろよろと歩み寄り、さめざめと泣いていた。



どうして。

どうしてと問いかけられ、それに答えることはなく通り過ぎる。

どうしてまだ生きていたのに、どうして殺してしまったのだと言われても、であれば死者の行進の邪魔をしてはいけなかったのだと言う以外にない。


血臭を洗い吹き飛ばす風が吹き抜けるのは、その土地に残った浄化作用によるものだ。

人々の目に視認出来ない終焉の系譜の精霊達が飛び交っていることもあるが、寧ろ、澱み彷徨うものだけが閉ざされた風のない戦場程、悍ましいものはなかった。




結局夜半過ぎまでその戦場に留まりはしたが、思っていたよりは早く鳥籠を開けられたようだ。

それは、戦勝国側で使わないつもりだったであろう殲滅魔術を使ったからで、被害はより大きくなったものの、見積もりより一日早くその戦は終わった。



(ざっと見ても、戦死者は千人は超えるだろう。壕を掘ってあったということは、相手が引かなければ沼地の呪いを使う算段はあったらしい。……………相手側の国の事情を探り、殲滅戦になるかもしれないと覚悟をしていたのだろうか……………)



戦に勝った国が最後に使ったのは、沼地の呪いという決して珍しくはない魔術だ。

術式を敷いた窪地に魔術の沼を出現させ、そこに落ちた者を沼の底に引き摺りこむだけの、中階位の魔術師でも組み上げることの出来る簡単なものである。


獲物が命を落とすとその沼地は自然に消えてしまい、戦場になった平地に後々整地に困るぬかるみを残すこともないので、ありふれた呪いの一つでありながら、なかなか使い勝手は良いと聞く。



すっかり静かになった戦場の向こうでは、戦に勝った国の兵士達が祝杯を上げながら、陣営を畳み王都に戻る為の準備をしている。

その遠い火の色が微かに夜の縁を明るく染め上げ、ここに残された戦場がいっそうに暗く見えた。



最後にその生き残った者達の囲む火の明るさを視界に留め、踵を返すと最後の鳥籠の魔術を畳んだ。



死者達もいなくなった戦場を後にする転移の一歩に、ばさりとケープが風に揺れる。





「………………久し振りにこっちに戻ったな……………」




淡い転移を踏んで移動したのは、久しく訪れていなかった自身の城である。

人間の領域とは違い、長く不在にしていたからといって城内の手入れが滞るということもないのだが、やはり久し振りに訪れると、どこか馴染まない気がした。



こんな夜は、本当なら砂漠にあるテントに帰りたかったのだが、あの界隈は今夜は砂回廊の祭りの日なのだ。


そんな祭の夜に、例え人々が近付けないようにしてはあっても、一人でテントに籠るのは避けたい。

渋々、今夜は城に帰ることにしたのだが、がらんとした青白い光に包まれた城の中を歩くと、どこかの人間の町や国の酒場にでも行けば良かったかなと思わないでもなかった。



だが、今日はゆっくり眠りたかったのだ。

生きて幸福そうに、或いは何の憂いもなく笑う人間達に囲まれてしまうと、灰になったあの青年が生きていた頃のことを考えてしまいそうではないか。



らしくはない感傷だったが、そんな思いに囚われる夜もある。



決して珍しくはない心の動きではあったが、それを紛らわす術もない夜というのも久し振りだ。

夏の終わりから暫くは忙しくしていたし、その中の数少ない休日はリーエンベルクにいたり、ギードと過ごしていることが多かった。



ふと立ち止まってネアからのカードを開こうとしたが、苦笑してその手を止める。

今日はもうやり取りをしたばかりであるし、これ以上あちらの空気に依存しても困ったことになる。




(俺はこれまで、こんな夜はどう過ごしていただろう…………)




考えれば、かつての自分はこんな夜には椅子に座ってただ目を閉じているか、何も考えないように瞼を閉じて寝ていた気がする。

ではそれをするかと考えれば、果たしてその頃は、それだけでやり過ごせていたのだろうかと眉を寄せた。




誰かといることに慣れると、こんな夜には憂鬱になる。




(やれやれ………………)




身に纏うケープや帽子を消し去り、上着を脱ぐとまたそれも消した。



リーエンベルクの大浴場のことを思い出し、入浴でもしようかと考えたのだ。


浴場はどこだっただろうかと考えながら城内を歩き、思い出し訪れた区画の扉を開けるとそこで良かったようだ。

残りの衣服も全て脱いでしまい、扉を開けると魔術で湯を溜めた。




がらんとしていた浴槽に、なみなみと張られた湯が湯気で浴室を白く染める。

簡単に体を洗い、広い小さな湖のような浴槽に顎先まで沈むと、深い息を吐いて目を閉じた。



当たり前だが、リーエンベルクの大浴場とは違う。



壮麗さという意味ではここも城であるが、その装飾の美しさには温度が宿らない。

体を温める湯には香気はなく、色もない真っさらなただのお湯だ。

薬湯にすれば良かったのかもしれないが、その準備をするよりも早く、湯に浸かり目を閉じていたかった。



どれだけそこにいただろう。

濡れた両手で髪を掻き上げ、ゆっくりと目を開く。



ざぶりと浴槽を出てまた簡単に湯を流すと、浴室を出る前に振り返った。

無言で組み上げた魔術で敷かれた魔術を剥ぎ取られ、浴室はまたがらんどうになり、部屋を温めていた湯気がたちどころに消え失せる。



こういうものばかりは揃えてあるタオルを取り出し、体を拭きながらそのまま浴室を出た。


寝るだけであれば特に服を着る必要はないし、水気は魔術で飛ばしてしまうので足元や寝室に水滴を落とすこともない。



それでもタオルを揃えてあるのは、かつてのウィリアムが、生活の中のどこかに人間のような温度のある営みを設けたいと願ったからだ。


そうすれば心が整い、失われたりひび割れる心が守られるような気がしたのだが、果たしてどれだけの効果があったものか。




軽く転移を踏んで数歩で寝室に入ると、一度だけ窓の外を眺めた。



魔物の城というものは、その系譜の持つ魔術の隔離地のような空間ごとの形成で作られることが多い。

かつて、仲間達と通ったシルハーンの城は雪原のようなところにあり、アルテアの城は森と湖に囲まれ、ヨシュアの王宮は雲の上にある。



ではウィリアムはどうかと言えば、そこは常に真っ暗な夜の森であった。

最初に城を作った時には夜の砂漠だったが、やがて空っぽの砂漠を見ていることに耐えられなくなり、森を作った。

とは言えこの森には生き物などはおらず、ただ静謐な夜が横たわるそこには、どこか明確な死というものにも似た終焉の色が溢れるばかり。



その暗い景色を一瞥し、寝台に向かう。

夜明けまではあと数時間なので、目を閉じてすぐにでも寝てしまおう。


寝台に入りそう考えておきながら、気付けばネアと分け合った魔術仕掛けのカードを虚空から取り出していた。

どこか祈るような気持ちでそれを開きながら、そんな自分の愚かしさに吐き気がする。



ただ眠ればいいのだ。

何も考えず、それこそ死のように。



けれども未練がましくネアからのカードを開いており、やはりそこには先程のやり取り以上のものは何も残っていなかった。



ふっと息を吐くように苦笑し、それを閉じようとした時のことだった。



ざあっとカードに残された文字が光って揺らぎ、新しい言葉が淡い金色の文字で浮かび上がる。



はっとしかけて気付いたのは、浮かび上がったのが、いつものネアの文字ではないということだった。




“ウィリアム、ネアからカードを借りているよ”



そう記された文字に、目を丸くする。




「……………シルハーン」




彼であれば、魔術を介して呼びかければいいのだが、なぜ、あえてカードを使ったのだろう。

不思議に思いながらも、その文字をそっと撫で、こんな薄っぺらなものの向こう側に誰かがいることの奇妙さを考える。



“今の仕事が終わったら、一度リーエンベルクに寄れるかい?ネアがね、君の金庫の中のものを足したいのだそうだ。あまり自分ばかりが誘うとしつこいかもしれないので、たまには、私からも君に連絡をするようにと言うんだよ”



浮かび上がってゆくその文字を読み、ウィリアムはふと、自分の口元に触れた。

先程までは強張って面のようになっていた顔が、微かに緩んだ気がしたのだ。


なんの表情も作れないということがある。

それは特定の感情が剥がせないということではなく、表情そのものを何も動かせなくなるくらいに心が力を失くすという時だ。


こんな夜にはそうであることが多く、もし誰かがそんなウィリアムを見れば、どこまでも冷酷で無表情に見えるのだろう。



けれど、カードに浮かんだシルハーンの文字を読んでいたら、動かすことも出来なかった表情が普通に動かせるようになった。




“喜んで伺います。もう鳥籠を開けたので、明日にでも”



まずは行くと返事をしてしまい、その後に何と伝えるべきかで少し悩んだ。


こうしてメッセージを送ってくれたことの礼をしたかったのだが、いい言葉が思いつかずに暫く悩む。

けれど、そうこうしている内にシルハーンからの返事が来てしまい、やり取りが終わりになりそうだったので、慌てて短い一言を付け加えた。




“シルハーン、お気遣い有難うございます。ネアにも礼を伝えておいて下さい”

“君は、私の友人だからね”




浮かび上がったその文字に、小さく息を飲んだ。



言葉では言われたこともあるのだが、こうして文字で視界に収めると、胸が痛くなるような不思議な感慨がある。

ただただその文字を見つめていると、あっという間に時間が経ってしまい、カードを閉じて眠ることにした。



その夜、いつものこんな夜に見るような夢は見なかった。



代わりに見たのは、リーエンベルクの屋根の上で見たバベルクレアの花火だ。

大きく打ち上がる花火は、最初の年のもののような気がしたが、それをシルハーンやネア達と見上げて温かな飲み物を飲み、なんでもないようなことを話して皆で笑っている。



ふと視線を感じて足元を見ると、ノアベルトの擬態した銀狐がこちらを見上げて涙目になっており、ウィリアムがあの竜の姿ではないと知ると、尻尾を落してとぼとぼと歩き去ってゆく。


夢の中のウィリアム達は屋根の上にいるので、危ないから足下に注意させようと考えていたところで目が覚めた。




(……………朝か、)



気付かない内に夜が明けていたようだ。

あの後、いとも容易く眠ってしまったけれど問題はなかっただろうかとカードを開けば、いつ送られてきたものか、今度はネアの文字が浮かび上がっていた。




“ウィリアムさん、アルテアさんが失踪してしまいました……………。もし、ウィリアムさんに会いに来たら、もう誰も苛めないので帰って来て下さいと伝言していただけると嬉しいです”



意味が飲み込めるまでに時間がかかったのでその文章を三回読み、なぜそんなことになってしまったのだろうかと首を傾げる。


そもそも、ネア達が滞在しているのはアルテアの屋敷の筈なので、そこから失踪してしまったというのも、なかなかの事ではないのだろうか。



アルテアの屋敷への転移の道は閉ざされているが、いつでも駆けつけられるように着替えておこうと思い、寝具をどかして立ち上がった。



(相変わらず真夜中のままだな。………俺の資質は、黎明や陽光とは相性が悪い…………)



ウィリアムの城のある空間には、滅多に朝は来ない。



大抵の場合は、どこまでも続く明けない夜の森に囲まれ続け、今もまだ周囲の風景は夜のままだ。

けれども不思議なことに、思ったよりもずっと体は軽く、すっきりとした目覚めに思えた。



魔術で服を纏い、寝室を出て階下に下りると、久し振りに帰った城を後にする。

転移をする前に一度擬態に切り替えると、まずはウィームの市場に出た。




雪の日の朝だ。




賑やかな朝の市場は人々の活気で溢れていたが、昨日のことを思い出して気が滅入ることはなかった。

このあたりでよく見かけるアルテアの姿を探しつつ、馴染みの店で、食事用のワッフルに焼きハムの塊と濃厚なミルクティーで朝食にする。



簡素な木のベンチに腰かけて、忙しく行き交う人々を眺めた。


湯気を立てているミルクティーが注がれた紙造りのカップは、アルビクロムの文化にも似ているが、ウィームのものは魔術で出来ているので、使い終わってから畳めば消えてなくなる仕組みになっている。


ウィリアムは使ったことがないが、綺麗な飲み残しの飲みものは、市場の端にある小さな硝子管に種類別に流し込むと、その硝子管に仕込まれた術式が繋ぎの魔術を切ってくれて、下で待っている小さな生き物達が紅茶や葡萄酒などを無料で貰えるようになっているらしい。


本当にそんなものを欲しがるだろうかと不思議に思ったのだが、確かにその辺りを通れば、毛玉のような小さな妖精が木のカップを持ってじっと上を見上げていたので、誰かが残した飲み物を待っている生き物がいるのは確かなようだ。



一日に二度洗浄があり、洗浄中に飲み物を貰いに来た妖精が絶望しているのを、ギードも見たことがあるそうだ。


あまりにも深い絶望に呼ばれてひやりとしながらウィームの市場に向かえば、暗い目で項垂れる狸のような姿の妖精がそこにいて、驚くと同時にほっとしたという話を聞いたことがある。


その狸については、ギードが飲み物を買って、半分を分けてやったのだとか。



そんなことを思い出しながら、目の前で串焼きにしている焼き目のついたハムを食べ、知らずに体に刻まれた疲労を埋め、胸の底にまで染み込むようなあたたかな紅茶を飲んだ。



今迄は雪景色よりも、からりとした砂漠の国の市場や食事処を好んでいたのだが、ネアと出会ってからは、ウィームの市場に来ることも多くなった。


そうして、この市場に来ると、時折買い物をしているアルテアの姿を見かけることがある。



(いるかなと思ったんだが……………)



さすがに失踪しているという今日は来ないだろうかと思いながら、朝食を終えてしまい、最後に市場をぐるりと見回してみれば、ふっと目を引く一人の男の姿があった。



食べ終わった皿を片付け、空になった紙コップを手順通りに畳んで魔術に戻すと、ゆっくりとそちらに歩いて行った。




「アルテア、ネアが心配していましたよ」



どこか凄惨な眼差しでオレンジを見比べていた男に並び、そう声をかけると、何があったものか、こちらをゆっくりと振り返った選択の魔物の瞳には全く光が入っていなかった。



「…………………足りない食材を買い足しに出ただけだ。放っておけ」

「その割にはネアが心配していたような気がしますね。何かあったんですか?」

「……………今度ノアベルトに会ったら、勝手に俺の屋敷への道筋をつけるなと言っておけ」

「俺がノアベルトと二人で会うことはあまりないんですが…………。ええと…………」



後にはもう会話が成り立たず、選別したオレンジを買い、その袋を受け取って力なく市場を出てゆくアルテアを見送る。


もしかして、あの狐の正体について知らされたのだろうかと思ったが、それにしては落ち込み方が軽いような気がするので、また別の問題で何かあったのかもしれない。




ともあれ、失踪者は見付けたので、買い物客が荷物を整理する為のカウンターを使いネアへのカードにメッセージを書いた。



“アルテアなら、市場でオレンジを買っていたようだ。すぐに帰ると思うぞ”



そう書けば安堵した様子の返事が届き、見付けてくれて助かったとお礼を言われる。



やり取りを終えて閉じたのは、なんでもないことを是非に沢山書いて欲しいと言われた、魔術仕掛けのカードだ。



もしかするとこれも、何でもない日常の一幕ではあるのかもしれない。

そんな日々の中でこうして繋がり、時として、暗闇を照らすような言葉を浮かび上がらせ、光の欠片になるそのカードを胸ポケットにしまう。



(さて、今日も幾つか行かなければならない国があるな………………)




まずは、隣国の山間の領地に視察にゆき、鳥籠が必要になるかどうかを調べておかなければならない。


今回は疫病での鳥籠のようだが、それまでに、ローンが昨日訪れた土地での仕事を終えているといいのだが。

ネア達の方が落ち着けば、何時くらいにリーエンベルクに行けばいいのかを聞いておこう。



そして夜にはまた、遠い国の片隅で戦乱が起こる。



もしそこで何か憂鬱になるようなことがあったとしても、その時にはもう、ネアが持たせてくれた夜食が金庫の中に入っている筈だ。


そう考えかけ、“君は、私の友人だからね”と書かれた、シルハーンの文字を思い出す。

ふつりと唇の端が緩み、口角を持ち上げた。




踵を鳴らし、ウィームの市場を後にする。

今日も世界のあちこちで、終焉に繋がる囁きや慟哭が聞こえた。




きっと忙しい一日になるだろう。











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ