序 : とある会員による聞き取り調査
その日の午後、ヴェルクレア国ウィーム領にある領主館のリーエンベルクでは、国の顔となる一人の歌乞いの少女の失踪が取り沙汰されていた。
街の見回りに出ていた騎士達の会話からその事件を知った会員の一報を受け、最も近くにいたのでと現地に向かうことになる。
名乗る程の名前ではない。
会員番号が九十二番なので、それをこれからの自分の呼称とさせていただこう。
歌乞いとは、その歌声に惹かれて現れた魔物と、自身の命を削って契約を結ぶ人間のことだ。
主に高位の職業魔術師や、魔術可動域が高く魔術師としての潜在能力の高い者達が歌乞いとなることが多く、国内で確認されている契約の魔物の最高位は伯爵位。
現在は、五人の歌乞いが伯爵位の魔物の歌乞いとして、王都にある魔術師の塔、ガレンエーベルハントにその名前を登録されている。
しかしながら、どれだけ高位の魔物を使役しても、いや契約相手が高位であればある程、その歌乞い達は短命となる。
一般的には、魔物への依頼一つにつき、その願いに応じただけの寿命を削るのだ。
磨耗する寿命は依頼の持つ魔術階位により決められており、高位の者への願い事はそれなりの対価を必要とした。
逆に、街中で見かけるような、パン型の魔物や遊戯用の回転木馬の魔物などの、爵位を持たない下位の魔物であれば、歌乞いの寿命は十年から十五年程になる。
そして、国家やガレンに所属する爵位持ちの魔物と契約した歌乞い達の寿命は、最短では二年ということすらあり得るのだった。
しかし、この国の顔となる歌乞いだけは違う。
彼女が契約している魔物には爵位の記述がなく、それどころかかなりの下位である薬の魔物という登録であったらしい。
ところが実は、この世界において最高位の魔物の王である、万象の魔物がその契約相手であるのに、その寿命は削られることがないのだった。
(いや、これは秘密なのだった…………)
慌てて夜露の結晶石のペンでその表記を消しつつ、そんな特別な秘密を共有出来ている喜びに口元をもぞもぞさせた。
そんな国の筆頭歌乞いであるネア様を見守る会の会員には、彼女が、偉大な魔物と寿命すら取らせない契約をしていることがこの上ない誇りである。
しかしながら、その事実は固く伏せられており、会員達でもそこまでを知る者は一部である。
九十二番は、在籍している学院の研究室にその真実を知る魔物がおり、決して王の不興を買わぬようにと忠告されて知ったのだ。
そんな魔物の王は、ネア様に三つ編みをリードのように引っ張られ嬉しそうに瞳を輝かせて目元を染めているのだが、魔物達はその現場を見て愕然としても尚、自分達の王には畏怖するようだ。
とは言えそれも当然のこと。
万象の魔物が心を許し三つ編みを預けるのは、ご主人様と呼ぶに相応しいネア様に限られている。
(だからこそ、私の仕事は尊いお役目なのだ。………誇りを持って、ご主人様にお仕えしよう………)
あらためてそう自分を戒め、手にした記録用の封印魔術で製紙した紙を綴じて作った手帳を持ち直した。
こうして、様々なことを分かりやすく記すのは、自分がネア様を見守る会に所属する会員として、記録係の統括職を目指しているからである。
統括職ともなれば、客観的な目線が問われることもあるだろう。
会の発足理由とも言える、ネア様の観察と密やかなる守護を両立させる為には、常に多面的な見地から物事を記録することが望まれており、その冷徹さを目指している。
現在の記録係は、九十二番を含め八人いた。
(何も知らず、八人もと、そう言う愚かな者達もいるだろう)
ところが、実際には、それでも足りないくらいに書き記すべきことは多い。
八人の記録係程度では、その偉大な功績を記し切れないのだ。
ネア様はこの世界でただ一人の、魔物の王を契約の魔物にし、尚且つ晴れてご成婚とあいなり、魔物の王を伴侶にまでしてしまった高貴なる歌乞いなのだ。
脳裏に思い浮かべたその御姿はどれも物陰から観察したものだが、歩くたびに風に揺れる胸下までの青みがかった灰色の髪は、毛質は細く見えるものの強靭で艶のある美しいものだ。
光をよく集める菫色の虹彩模様のある灰色の瞳の上に、前髪を少しだけ斜めに下ろし、毛先は緩やかな巻き毛になっている。
あの方の髪は、ウィームの冬の夕暮れの色だと、九十二番は密かに思っていた。
あの髪が風に揺れる姿を見るだけで、胸がざわつく。
ああ、咎竜の王ですら踏み滅ぼしてしまうあのブーツで、いつかこの身を踏みつけていただけたなら。
(い、いや、それは過ぎたる願いだ。私ごときがあの方に踏まれたいなど、烏滸がましい…………)
身勝手にあの方を煩わせる、愚かな野良下僕になどなるつもりはない。
九十二番は、清く正しい見守る会の、清廉なる下僕である。
慌ててその不埒で身の程知らずな願いを振り払い、目的地に向けて歩きながら、ネア様を讃える回想に戻る。
「……………ん?……さては日陰にいたな…………」
歩いていた歩道にすっかり凍り付いたパンの魔物を発見し、呆れながら歩道の花壇の横に移してやる。
ウィームの街を歩いていて、長方形の一斤食パンが路地裏に落ちていたら、まず間違いなくパンの魔物である。
普通の食パンとの見分けはとても難しいので、動くかどうかを見極めた方がいい。
(おお、ここにもご成婚を祝う隠れた印が…………)
通りに面した老舗文具店には、鳩を模した飾りに紺色のリボンを結んだ美しい楕円形のオーナメントが飾られていた。
雪結晶のプレートにネア様を表す鳩の絵を精緻に彫りつけ、万象の魔物の瞳を思わせる紺色リボンで店の戸口に吊るしてあった。
勿論、万象の魔物の本来の瞳の色である、光に透かしたような鮮やかで澄明な紺色を使うとなると、それは不敬にあたる。
なので、使われているリボンは、美しくはあるものの一般的な紺色だ。
それを眺め、九十二番は良い心掛けだと微笑みを深めた。
魔物の王との婚姻を経て、ネア様は同じリーエンベルクに住む友人である塩の魔物と義理の兄妹となり、尚且つ、それ以前から悪名高い選択の魔物を使い魔とさえしていた。
だからこそ彼女は、記録係の誰かが見逃した隙に竜王を狩ってしまっていたり、高位の魔物や精霊達を、死のブーツで呆気なく踏み滅ぼしていたりもする。
滅ぼし損ねた者が野良下僕になってしまうのは見守る会の会員としては頭の痛い問題だが、そんな問題を影ながら排除するのが見守る会の実行部隊の誉れであった。
勿論、その輝かしい功績の数々は、彼女を守護する魔物達の手によるものではない。
魔術可動域が、蟻並。
この世界では、特にこの魔術の潤沢なウィームでは、本来は一日であれ生き延びるのが難しいと思われる数値でありながら、全てはネア様がその手で成し遂げた偉業なのだ。
その事について考えるだけで幸福な誇らしさでいっぱいになり、陰ながらネア様を見守り、その健やかなる暮らしを支える役目にいっそうの喜びを覚えた。
(これ程にも充実した生活を送ったことが、今迄あっただろうか…………!)
敬うものがあり、愛すべき仲間達がいる。
心が動き、やるべき愉快な事が沢山ある日々は例えようもなく美しい。
そんな喜びを日々得られる生活を送れる者が、世界にどれだけいるだろう。
自然と口角を持ち上げつつ、より詳しい情報を得る為にと落ち合う約束をしていた他の会員を訪ねて、リーエンベルクの裏門を訪れる。
そこには、限られた者にしか許されないリーエンベルクの騎士服に身を包んだ仲間の一人がいた。
こちらを見て微笑んだ、水墨色に真紅が滲むような瞳が印象的な青年は、ウィーム史に名を残す勇猛聡明な灯台の妖精の血を継いでおり、己が住まう場所の平定を願う資質から、このリーエンベルクにとってなくてはならない存在として、ネア様を見守る会の会員になった。
会の中では少数派の、下僕にはなりたくない系の会員だ。
「やあ、エドモン。進捗はどうだ?」
「いい情報だ。どうやら、ディノ様と銀狐…………ネア様の兄君もいらっしゃらないようだからな。一緒に………どこかに落ちたのだろうという事だ」
「外出ではなく、事故なのは確定なのか?」
「ヒルド様がおやつを届ける約束をされていて、その直後に姿が見えなくなったようだからな…………その、」
「ああ。ネア様が、おやつの時間に外出されることはないな…………」
会員達は皆、ネア様の嗜好をある程度認識している。
あのネア様が、リーエンベルクでのおやつの時間に、自分の意思でその場を離れることなどあるまい。
であればやはり、事件なのか。
はらはらと降り始めた雪に、木々の枝葉の内側がぼうっと青白く光った。
その中で休んでいた妖精達が、雪が降り始めたことに気付いて飛び立つ準備をしているのだ。
(……………美しいところだ)
清廉な景色に思わずそう思い、見上げた空は雪を積もらせた木々が縁取っている。
大きな木になる冬紫陽花の薄紫や瑠璃色の花がはっとする程に鮮やかで、その根本に咲き乱れた雪花鈴蘭は、花蜜を黄緑色の宝石にして育てていた。
人ならざる者達も多く、禁足地となっている古の深い森に囲まれるように佇む真っ白な元王宮は、翼を広げた白鳥のようだ。
リーエンベルクは元々、ここがウィーム国であった頃に冬狩りの為に作られた離宮だったが、あまりの美しさにここが本宮となってしまったくらい、ウィームの人々に愛された建物である。
そこは今、ウィーム王家の血を引く最後の一人であるエーダリア元王子を領主に迎え、しんしんと降り積もる雪の中に、かつての美貌と繁栄を取り戻しつつあった。
九十二番は、この、かつての統一戦争によりヴェルクレアに統合された、魔術と人ならざる者達に愛された雪深い美しい土地に、自分が永住を決めるとは思っていなかった。
(私は、このウィームを出て、王都でガレンの魔術師になるつもりだったんだ……)
ウィームで生まれはしたが、妹の病気の療養の為にガーウィンで育ったからか、自分の夢は、王都で国王に認められる魔術師になることだとばかり思っていた。
魔術学院はウィームが国内最高峰だからと、かつて家族で暮らした屋敷に戻る形でウィームに帰ってきたのだが、住み始めた途端、水を得た魚のようにウィームの澄んだ空気に呼吸が馴染んだ。
とは言え、やはり夢は王都の魔術師のままだったのだが、学院を卒業するその年に、ネア様との息が止まるような衝撃の出会いがあり、その翌週にはウィーム永住を決意していた。
永住の決意を知り、根っからのウィームの民である両親は喜び、今年の夏に妹が結婚した後は、こちらに戻ってくるそうだ。
「…………使い魔のあの方に連絡を取った方がいいのではないか?」
「伴侶であるディノ様と銀狐………兄上がご一緒なら、盤石だとは思うのだけれどな。とは言え、念の為にエーダリア様から連絡をするそうだ。安心してくれ」
「それなら一安心だ。あの方は、…………会員ではないが、ネア様をお預けするに相応しいお方だ」
ネア様の使い魔は、擬態で姿を変えても隠しようもない仄暗い凄艶な美貌の魔物だ。
こちらも研究室の魔物からその正体を教えられており、魔物の第三席、選択の魔物だと知っている。
一度だけ年初めの祝いの席でその本来の姿を見たことがあるが、ウェーブのかかった白い髪と漆黒のスリーピース姿に、視線を向けられたこの身を穿つような鮮やかな赤紫色の瞳を持つ残忍で享楽的な魔物が、蟻程度の可動域しか持たない人間の使い魔になるなど、一体誰が想像しただろう。
あの魔物が使い魔としてネア様に付き従う姿には羨望を禁じ得ないが、それだけの魔物がネア様に膝を折る姿には胸が踊る。
ご主人様の偉大さに弾む思いは、また格別であった。
「…………いや、あの方は会の有力支援者の一人だぞ?」
「…………ん?そうなのか…………?」
「知らなかったのか?会計の紹介らしい。ネア様の使い魔として、いざという時にこちらへのパイプも作っておかれるつもりなのだろう」
「…………さすがネア様だ」
「はは、みんなそう言っているよ。やはりあの方は頼もしいなぁ…………」
そう呟くエドモンは、かつてこのリーエンベルクを命懸けで守った灯台の妖精の子孫として、どんな安堵と誇りを胸に抱いて、今の自分の住まいとウィームを見つめているのだろう。
(……………ここが、私の終の住処となるウィームの、その冠たるリーエンベルク………)
見上げたリーエンベルクの美しさに、唇の端を持ち上げる。
その美しさは堂々たるもので、けれども、白と淡い水色、艶消しの黄金などがどこまでも淡く重なり合い、絢爛豪華というよりはその澄明で硬質な美貌で心を震わせるのが、ウィームの領主館リーエンベルクだ。
今日もこれからもずっと、この土地でウィームを支え、ネア様を見守り続けて生きて行く。
(とは言えまずは、封印庫の採用試験に受からねばならないな………)
その覚悟と誇りを胸にリーエンベルクに深々と一礼すると、エドモンは嬉しそうに微笑んだ。
なお、ネア様達は、使い魔宅に一泊してから翌朝、無事にリーエンベルクに戻ってきたようだ。
お宅訪問の呪いというものにかかったらしく、夜が明けるまでは帰れなかったのだと知り、珍しい呪いを引き当ててしまうご主人様の偉大さに感服した。
投票一位となった、アルテアの一日密着のお話の導入部となります。
「薬の魔物の解雇理由」を完結済みにしておりますので、新規に投稿するにあたり、読みやすい構成とさせていただきました。