幻想なのかもしれない優しさについて
生まれてくる命に罪はない。
そんな言葉をきく。
たしかにそうなのだろう。
じゃあ、その命を作った、宿した存在の罪は?
妹に宿った命。
宿したのはどちらの罪なのか?
やがて生まれ来る命。
父親の不在を、その子は受け入れるだろうか?
母親の愛を素直に、その子は受け入れるだろうか?
宿った命にたしかに罪はないのだろう。
生まれてくる命に、罪はないのだろう。
その子に罪は無くとも恨まないとは限らない。
どれほど命懸けで、愛情を注いでも。
生まれてきたこと、それをいつか恨む日が来ないとは誰にも言えない。
生まなければよかった。
そう言われた時、妹は後悔しないだろうか?
生まれてきたくなんてなかった。
そう言われた時、妹は後悔しないだろうか?
どれだけ愛情を注いでも、それが返ることなどない。
俺は、親を憎んで恨んだ事があるからわかる。
生んだことを、生まれてきたことを、憎んで恨んだ事があるからわかる。
親がそれを望んで生まれてきた。
それなのに、時間の経過と共にそれすら拒否された子供の心の痛みがわかる。
子供は親を憎んで恨む。
親も子供を憎んで恨む。
俺はそれを識っている。
識っているからこそ、生まれてくる命が妹に恨みも憎しみも抱いてほしくなかった。
識っているからこそ、妹が生まれてきた命に恨みと憎しみを抱いてほしくなかった。
それは誰にもわからない。
そんな日は来るかもしれないし、来ないかもしれない。
絶対は誰にも言えない。
でも、もしも、もしも。
いつかそんな日が来たとき、もしも妹が恨みも憎しみも受け入れて、それでも宿した命を愛しているのだと自信をもって言えるのだとしたら、きっとその命は幸福なのだろうと思う。
きっと、俺のようにはならないだろうから。
誰かを憎み続ける人生は、とても疲れるものだから。