第一話 麻薬商人は死ぬはずがない。
〈1〉
榊楽は凄腕の麻薬商人であると自称する。
麻薬の売買を生業として十数年。業界で取り立てて話題になることもなかったが、かといって生活に困窮するようなこともなく着実に堅実に業績を重ねてきた。長年の実績は榊の信頼につながったのは確かだし、下手に名前が売れてもろくなことがないのもまた確かだ。どこの組織にも属さずに、うっかり巨大な組織の縄張りを犯すこともなく、それでも自らの生活はそれなりに成り立たせる。そういう意味では榊の商人としての才能は凄腕とまではいわずとも、ちょっとしたものではあったのだ。とはいえ、それも今となってはちょっとしたものでしかなかったと過去形で言わざるをえなかった。
浮かれていたと、榊は反省する。今更ながらに猛省する。もう榊の年齢も三十幾何。そろそろ危ない家業からも足を洗って、腰を落ち着けようかと考えていた。そんな折に人生初の彼女というものができた。彼女のほうも乗り気な様子だったし、双方の両親からも多いに祝福されていた。このうえしかも彼女の妊娠が発覚したとなれば、それはもう幸せの絶頂というやつだ。妊娠の発覚したその日の晩なんかは柄にもなく舞い上がって、彼女と二人暮らしだというのに勢いでホールケーキなんか買ってしまった。これで俺もいい父親になるのだと、次の仕事を最後にしようと、ついつい大口の仕事を引き受けてしまった。
その結果、榊は特大の失態を演じることになった。彼女ができたあたりから緩みが出ていたのだろう。榊はこれまでの十数年間ならけっして引っかかることのなかったような、杜撰な尾行捜査に引っかかった。約束の場所に商談相手を待つこと一時間弱、すっぽかされたかとその場を離れようとしたところで声をかけられた。ついでにお縄もかけられた。榊をつけていたのは二十代後半の、まだまだ若い男だった。
婚約者だった女とは婚約を破棄した。裁判が終わったあとになってその女が流産したこと、そしてその悲しみからか駅のホームから身を投げたことを知った。
両親だった男女からは勘当された。元より月々の仕送りを送る以外には繋がりのなくなっていた相手だ。悲しくはなかった。感動を言い渡された日の留置所の飯は味付けが濃かった。
二三××年の今現在、この国で捕まった犯罪者というもののその先は決まっている。形だけの裁判を受け、家財の一切を没収されたうえ、とある島に強制連行される。死刑も懲役刑も罰金刑もないが、情状酌量も執行猶予などの例外もない。凶悪連続殺人鬼も、義賊的怪盗も、罪状不明の不審者も、決まってその島に連行される。
噂によるとその島というのはひどいところで、法も秩序もないろくでもない場所らしい。昼夜を問わず一人で出歩けば五分もしないうちに身ぐるみを剥がされる。連行されたその日に歴史的な凶悪犯に狙われて命を落とすなんてこともざら。運が悪ければ島にもたどり着けず、船の中で同乗者に殺される。そしてそういった行為がすべて容認されているという。
ついたあだ名は『無法島』。なんのひねりもないネーミングの犯罪者のパラダイスだ。
〈2〉
しかし榊が乗せられた船は凶悪犯がいきなり暴れだすでも、島の住人から襲撃を受けるでもなく、なにごともなく『無法島』へと向かっていた。表面的な空気だけは安穏としていた。すでに島の影も小さく見え隠れしている。
同乗者は六名。チンピラ風の青年二人に風俗嬢じみた女一人。そして年端もいかない子どもが三人。女はどこか現実から離れたところを見ている目をして、ぼんやりとした表情を浮かべていた。たしか楽が大ポカをやらかす数日前に、旦那殺しで捕まった女だった。動機はあったが、アリバイもあった。物証はなかったが、弁護もなかった。この国の裁判ではよくあることだった。逮捕率九十九パーセントは伊達ではなかった。
殺人を犯したと国から太鼓判を押された人間ですら、無法島に連行されると決まれば、反応はそんなものだった。何をやらかしたかは知らないが、突っ張ってみせたい年頃であろうチンピラ風の青年も、無法島の影が大きくなるにつれて顔が青くなっている。
それに対して、子どもたちのほうは平静を保っているように見えた。私物は搭乗の際にすべて没収されたというのに、どこから手に入れたのか両手いっぱいの蜜柑にからかじりついている。鉄板で覆われた船内の壁に首だけもたれかかってだらけている様子は、さながら小学校の遠足の一風景のようだ。
そこにはある種の平穏があった。皆の絶望と諦観によって成り立つ、見せかけだけの平穏が船内にあった。
だが結局は見せかけだけ。張りぼてのような平穏。上面が剥がれるまでにはそう時間を要しなかった。さすがはええかっこしいのチンピラ青年、『無法島』がいよいよ近いとなって船を降ろせと暴れだしたのだ。
暴れる青年Aにそれを警棒で殴る警備員。しかし青年は根性を見せる。緊張で紫に変色した唇からげろげろと吐瀉物を噴き出しながら警備員を殴りかえした。青年はなにか格闘技をやっていたと見えて、とても綺麗な一撃が警備員の顔面に叩き込まれた。
警備員の殴り飛ばされた先は子どもたちの蜜柑の山。両名の顔から血が滴る。ついでに果汁も滴る。青年Aはわけのわからないことを喚き散らし、警備員もつられて何事かがなり立てる。このあたりから場の収拾がつかなくなってきた。
女は騒ぎをやり過ごそうと身をかがめる。青年Bは加勢に来た警備員たちに殴り倒された。少年たちだけが騒ぎとは無関心のところにいて、床に転がって無事な蜜柑を拾い集めていた。
そして榊はと言えば、何もしていなかった。子どもたちがしていたように座席にもたれかかって、事の成り行きを見守っていた。いや、それすらもしていなかったかもしれない。榊の席は窓際、むさくるしい男たちのてんやわんやなどに興味はなかった。
だからこそかもしれない。この場にいる無関係の男女の中で唯一、榊がこの一騒動の終着点に気が付くことができたのは。
「悲しいな」
男がいた。
長身の男。
白髪の男。
全裸の男。
船の窓からかすかに見える遠方の崖に男が立っていた。そこに立っているだけで異様な、幽鬼のような男であった。
「悲しいな」
男は立派な得物を持っていた。男性器の話ではない。まあそちらも確かに立派に屹立していたのではあるが。楽の注意を引き付けたのは男の手にした刀であった。
持ち主が異様であれば、刀も異様であった。長い。長い。長い。ひたすらに長い刀だ。およそまともな刀ではあるまい。遠目に見ても、十や二十尺は下らない。刀身でぎらぎらと太陽の光を反射して、一本の光の帯のようであった。
「とても、悲しい」
男が刀をゆったりとした動作で構える。その腕使い、その足運びはとてもしなやかだ。雑念の混ざりこむ余地のない、おそらくは音ひとつ響かせることのない、無駄を極限までそぎ落とした構えの完成形。その構えの向かう先は、楽たちのいるこの船だ。
異様である。男も異様。刀も異様。であれば今現在楽が感じているこの異様な空気の所在は自明であった。はるか遠方でこちらを見据える全裸の男。この騒がしい船内にあって、その男のごく小さな呟きがありありと聞こえるように錯覚するほど―いや、この時の楽の耳には実際に聞こえていたのかもしれない―楽はひとりどっぷりと異様な空気に呑まれていた。
「愉悦を感じる己が―ただ、悲しい」
男は動いた。一撃はその文字通り空を斬るはずだった。いくら長いとはいえ、せいぜいが十か二十尺。数キロは離れた舟艇に届くはずもない。だがその刀はその距離を悠々とはねのけて、榊達の船の二階部分を斬り飛ばした。
なんの不思議があったわけでもない。超常現象が起きたわけでもない。ただ、刀が伸びた。この二者の距離数キロをゼロにするように。刀身がたったの数キロ伸びただけであった。
先ほどまで船を閉鎖的な空間たらしめていた屋根が、榊の頭上数ミリのところからするりと海へと沈んでいく。船内に太陽の光が差し込んでくる。榊の全身が温かいものに包まれていく。ただしそれは日の光などではなく、屋根とともに切り落とされた男たちの頸から噴き出る、生暖かい血液であった。
怯えるばかりであった女の口から悲鳴が上がる。搭乗員の大半がわけのわからぬうちに一撃で首を落とされたのだ。とてもショッキングな光景だったことだろう。だが榊はそちらに目を向けることはなかった。榊の視線はなおも異様の男のほうにあったし、男の視線もまた榊達のほうにあった。
男が再度構える。今度はあの長い長い刀を、頭上に大きく持ち上げて。船を沈める気がありありと伝わってくる。
この巨大な鉄の塊をいかな原理でさもあっさりと切断したのか、今しがた目にしたばかりの榊に理解が追い付かない。だが男がこの船を沈めるつもりなのが明らかなように、次の一撃で船が沈むのもまた明らかだった。行動を迷っている余裕はない。
しかし悲しいかな、榊の選べる選択肢は、そう多くない。というよりも、ひとつきりしか残っていない。もとよりどうなろうと知ったことではない犯罪者たちの乗る船に、救命胴衣など用意されていない。まして救命ボートなど、あるはずもなかった。つまりこの時点で榊に残されている選択肢とは船が沈んだのちに天に、というよりは海に身を任せることだけだった。
「さようなら、罪人達」
そうして男は無情にも、無慈悲に刀を振り下ろす。刀身はあっという間もなく榊達との距離を詰め、船体を真っ二つに両断した。
沈みゆく船内に海水が猛烈な勢いで流れ込んでくる。いや、船の方がすさまじい勢いで沈んでいっているというべきか。榊が覚悟を決めるころにはごろごろと転がっていた死体も、女子供の姿も消えていた。榊よりも先に海に飲み込まれたのか。だとしてもそれはほんの数秒の差でしかないのだが。
きっと自分のほかには助かるものはいないだろう。榊にはそんな妙な自信と確信があった。だから、榊は身体が渦に呑まれるその瞬間も、不思議なほどに平静なまま、その流れに身をゆだねることができたのだった。