2
自分だけの、面……?
私は頭の中で言葉を繰り返した。
少年は続けた。
「この場所のどこかに、必ずお前の面がある。それはお前の目の色をしていて、鼻の形をしていて、口の形をしている。お前だけにしか見つけられない面だ。面を手に入れれば、おのずと帰り道は分かる」
私は気持ちが明るくなった。
「じゃあ、それを見つけさえすれば帰れるのね!」
「ああ。だが、気をつけろ」
少年は声を低くした。
「この空間は、常にお前の心を惑わそうとする。もし完全に自分を見失ってしまったら、永遠に戻ることはできない。特に食べ物には手を出すな。口にしたら一巻の終わりだ」
背筋がゾッと小さく泡立った。私はこくり、とうなずいた。
「ええ、わかったわ」
「よし。じゃあ手始めに、ここの面だ。ここには、この場所一体で一番多くの面が集まっている。見逃さないようにしろよ。後で戻るのはごめんだからな」
腰に手を当て、面の壁に向かい合いながら少年は言った。
私はぽかん、と少年を見た。
「え、……あなたも手伝ってくれるの?」
そもそも、私にしか見つけられないのではなかったか。それなら、戻るそぶりを一切見せず、今、隣に立っているこの少年は何のつもりだろう。
「当然だ。お前一人じゃ、いつ自分を忘れてしまうか分かったもんじゃない。ただし、俺はあくまでも見張り役、探すのはお前だからな」
偉そうな口調のわりに、言っていることはとても親切だ。
私は不思議そうに少年を見た。
「あなたって、思ったより優しいのね」
「勘違いすんなよ。暇だから付き合ってやってるだけだ」
少年は面倒くさそうに言った。怒っているのか照れているのか、仮面の奥の表情は分からない。
私は面の壁を見上げた。
面は一つずつ均等な間隔で並んでいる。縦に五列、平行に続いている面は全部でいくつあるのか見当もつかない。種類も様々で、戦隊ものやヒーローもの、動物をモチーフにしたキャラクターや、ひょっとこやおかめの面もある。
私は、とりあえず端から順に見ていくことにした。
ネコ、おかめ、ヒーロー、クマ……
紛らわしいのが人の顔だ。時々、キャラクターに混じるようにして、女性の顔や老人の顔、子どもの顔をした面がある。特に子どもの面は、気をつけていないと自分のものがあっても見逃してしまいそうだった。
「おい、あんまりゆっくりし過ぎんなよ。時間が経つほど危険なんだから」
後ろで少年がしびれを切らしたように言った。
「見逃すなって言ったのはそっちでしょ」
私は面から目を離さないまま、ムッとして言い返した。
その後、全ての面を見終わったが自分の面を見つけることはできなかった。
そのことを少年に告げると、少年は落胆したように少し肩を落とした。
「そうか。ここで見つかるのが一番良かったんだが」
いつの間に取って来たのか、近くの長椅子に腰かけた少年の手にはいか焼きが握られている。
面を少し上にずらし、パクパクと口にするその様子を戸惑ったように見ていると、少年は私の視線に気づいて言った。
「ああ、俺は食べても平気なんだ。今更だしな」
少年は残りのイカにかぶりつくと串を引き抜き、ポイっとそのまま地面に放った。串は背景に同化するように、スッとその場から消える。私は自分の目を疑った。
「仕方ない。下りるぞ」
口をもぐもぐさせながら少年は言い、面を被り直して立ち上がった。
立ち並ぶ屋台や小さく映る人々を眼下に、長い石段を下りていく。徐々に音が戻り、周囲は再び賑やかな雰囲気に包まれた。
改めてあたりを見回しながら歩くと、面は思った以上にあちこちに存在することが分かった。一つ目に、お面そのものを売っている店。それも、店は一つではなく、パッと見ただけでも三つか四つはある。二つ目に、くじ引きや射的などの景品。三つ目に……
「――まさかとは思うけど、これって他の人が身につけているお面も入るの?」
恐る恐る聞くと、隣をついて歩く少年は、私の淡い希望をばっさりと切って捨てた。
「当然だ。それに、いつも面が同じ場所にあるとは限らない。自分の面に飽きた者は好きに店にある面と交換するし、景品だっていつどこに移動するか分からない。一度の往復じゃ済まないだろうな」
私はその場で頭を抱え込みたくなった。
――とその時、道の脇から声がした。
「あれ、クロじゃないか」
そう言ったのはひょっとこの面の少年だ。他にも二人の仲間を連れ立っており、三人は石造りの椅子を中心にたむろしている。皆、手には様々な絵柄が描かれたカードを持っていた。
他の二人もつられたように顔を上げて振り向いた。
「ほんとだ。今までどこ行ってたんだよ」
「早くこっち来て遊ぼうぜ」
少年たちが口々に言う。
「悪いな。まだ少し用事があるんだ」
私の隣に立つ少年は軽い口調で言った。どうやら親しい間柄らしい。
「用事? そんなもん、何があるって――」
ひょっとこの面の少年は、私の姿を目に留めて口をつぐんだ。やや沈黙した後、少年は呆れたように言った。
「お前、またそんなことやってんのかよ。つくづくお人好しだな」
「ほっとけ」
少年が素っ気なく言う。
青いヒーローの面の少年は心配そうに私を見た。
「君、こいつに無理やり付き合わされてるんじゃないか? 我慢して言うこと聞く必要ないんだぞ」
「そうそう。別にここにいたって不便はないしな」
「お菓子や遊び道具ならいくらでもあるし、結構楽しいぜ」
今度は私に向かって三人がまくし立て始めた。
「おい!」
少年が怒声を上げた。
「こいつはまだ間に合うかもしれないんだ。余計なこと吹き込むな」
「へいへい」
虎猫の面は大して反省してないように言った。それからふと真面目な声音になる。
「そう言えばクロ、気づいてたか? 屋台がまた一つ減ってる」
「本当か」
少年も声を落として言った。虎猫の面は「ああ」と頷いた。
「鳥居から二番目のところにあったわたがし屋だ。間違いない。それに、なんだか人も減ってる気がする」
「あ、それ俺も思ってた」
青いヒーローの面の少年が言った。
「俺の気のせいじゃなかったんだな」
少年は考え込むように黙った。
「……分かった。後で見に行ってみよう。これからも変わったことがないか気をつけていてくれ」
少年たちと別れ、私たちは通りに戻った。
再び屋台の間を歩きながら、私は隣の少年に聞いた。
「屋台も消えるものなの? さっきの串みたいに」
「いや」
少年は否定した。
「こんなことは初めてだ。だが、案外気にする程のことでもないのかもしれない。昔は、人も屋台ももっと少なかったと言うし」
「ふーん…」
明かりの下に並ぶたこ焼きが、ほかほかと湯気を立てている。その隣のテントでは、子どもたちが台の上からチョコバナナを抜き取って行った。なくなったチョコバナナは瞬きの合間に増える。
そう言えば、と私は思い出したように言った。
「あなたの名前って、クロって言うのね」
「まあ、あくまでもここでの名だけどな。本当の名前はとっくに忘れちまったが……。……って、お喋りしてる場合かよ! 真面目に探せ」
私は膨れっ面になった。
「ちゃんと探してるもん。――あっ、見て! 射的がある!」
パタパタと走り出した私の背中越しに、クロの怒った声が鳴り響く。「おい! 話聞いてんのか!」
赤い板の棚にはぬいぐるみ、ラジコン、お菓子、面など様々なものが並んであった。面はショートカットの女の子の形をしており、残念ながら自分のものではない。
「ねえ、ここで取ったものって向こうに戻っても残るのかな」
あのクマのキーホルダーかわいい、と私はわくわくしながら言った。
「そんなこと、ここを出たことがない俺が知るかよ。――って、まさかやる気じゃないだろうな」
クロはぞっとしたように言った。
私は機嫌よく答えた。
「せっかく来たんだもの。少しくらい楽しんだっていいじゃない」
クロは「はあ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「ふざけんなよ。俺が言ったことを忘れたのか? 時間が経つほど危険なんだ。そんなことをしている暇はない」
「いいじゃない。ちょっとだけよ」
私は腕まくりをすると、台の上の銃を手に取った。小鉢の中からコルクの弾を一つ手に取る。
私はクロを振り返った。
「……で、弾ってどこに入れるの?」
クロは地の底まで届きそうな深いため息をついた。じれたように頭をくしゃくしゃとかく。
「ああもう、分かったよ。さっさと終わらせろよ」
「やった!」
クロに教えてもらいながら、私は銃に弾を込めた。そして、小さなキーホルダーの箱に向けて銃を構える。
カシャ、と音を立てて弾が放たれた。一直線に飛び出した弾は、箱にかすりさえしなかった。
私はぽかん、と弾の飛んで行った先を見つめた。
「下手だな」
クロは何の感慨もなく言った。
私はイラっとした。
「うるさいな。まだ一発目だもん。次は絶対当てるから」
「はいはい」
クロは期待していないような口ぶりで言った。
しかしその後、まれに弾がかすめることはあるものの、箱が落ちる気配は一向になかった。五つのコルクの弾が入っていた小鉢は、あっという間に空っぽになった。
私は首をひねった。
「うーん、あと少しで行けそうな気がするんだけどなぁ……。ねっ、もう一回やっていい?」
「ばか言え、何があと少しだ。そんなんじゃ一生撃ち続けたって当たるもんか」
クロは悪態をついた。
「貸せ。俺がやってやる」
横から銃を奪い取られ、私は驚いたようにクロを見やった。
「え、あなたが?」
「お前がやるよりずっと早いだろ」
クロは手際よく銃の先端に弾を込める。いつの間にか、小鉢の中の弾は五つに戻っていた。
クロはキーホルダーの箱を狙って構えた。
「それに、射的は得意なんだ」
『見くびんなよ。射的はけっこう得意なんだ』
夜空に浮かぶ赤い提灯。小刻みに打ち鳴らされる太鼓の音と、笛の音色。
隣で、自分より背の高い誰かが銃を構える。
カッ、と響いた太鼓とともに放たれた弾は、その後一つも外れることはなかった。
カシャン、と弾が空を切った。
弾は見事に的に命中し、とん、箱が抵抗なく後ろへ倒れる。
クロは余裕な態度で片手を腰に当てた。
「ほら。簡単なもんさ」
ぼーっと立ちすくんでいた私は、クロの言葉でハッと我に返った。
「ああ、うん。ほんとだ。……すごいね」
「得意だって言ったろ」
鼻にかける様子もなく、クロはあっさりと言った。
「しかしまだ四発も残ってんな。適当に取っとくか……」
そう言うと、クロは次の弾を込め始めた。私はクロの話をほとんど聞いていなかった。
今のは、一体何だったのだろう。
ふっ、と湧き上がるように映像が頭をよぎった。あれは、私の記憶……? 一緒にいたのは、誰だろう。
じっと固まって思考をめぐらせていると、近くで声が聞こえた。
「あたし、そっちのがいい!」
見ると、隣の店の前に小さな女の子がいた。
女の子は片手にりんごあめを持っており、もう片方の手は歳上の少女の手と繋がれている。
ちょうど台の上からりんごあめを引き抜いた少女は、怪訝そうに斜め下の女の子を見た。
「ええ? なんでよ」
「だって、そっちの方が大きいもん」
女の子はきっぱりと言った。
「そんなに変わらないと思うけどなぁ……」
首をかしげ、少女は二つのりんごあめを見比べた。
「仕方ないな。じゃあ、私のと交換ね」
「やったぁ!」
女の子が跳ねて喜んだ。
二人はりんごあめを取り替えっこした。面をずらして、女の子はぺろぺろとあめを舐める。もっとも、あごの上に見えるのはぼんやりとした影でしかなく、そこに口があるのかどうかは定かではない。
すると、女の子がこちらに気づいて顔を上げた。
「おねえちゃんもいる?」
女の子は仔犬の面をしていた。無垢でつぶらな瞳が私に向けられる。
しかし、私は女の子を見てはいなかった。
真っ赤なりんごあめ。それはつやつやとした滑らかな光沢をたたえており、色鮮やかに目に映る。
食べるとどんな味がするだろう? やっぱり、甘いのかな。
――ら。
「うん」
気づけば、私はこくりと頷いていた。
女の子はもう一つりんごあめを取ってもらった。そしてそれを私に差し出す。
私は手を伸ばした。
――ら、くら。
「『さくら!』」
花吹雪が舞い踊った。
晴れ渡った空の下。見上げた大きな桃色の木の陰から、誰かが手を振って――――
腕に痛みが走り、私は短く声を上げた。
隣を見ると、顔のすぐ近くに黒い狐の面があった。クロは、前に伸ばされた私の腕を強くつかんでいた。
沈黙したのも束の間、耳元で雷鳴のような怒声が鳴り響いた。
「何考えてんだ! 食べ物だけは駄目だとあれほど言っただろう!」
私はきょとん、とクロを見返した。夢から覚めたように、ひとつ瞬きをする。
やがて自分のやろうとしていたことに気づくと、私は恐ろしさから一気に青ざめた。
「ごめん……!」
私は心の底から謝った。
なぜ、あんなことをしようと思ったのだろう。
いけないと分かっていたはずなのに、ぼんやりとして上手く思考が働いていなかった。今まで何をしていたのかすら、忘れていたかもしれない。
私はさらなる説教を予想して身構えたが、意外にも返ってきたのは沈んだ声だった。
「……いや、俺がもっと早く気づくべきだった。射的をやりたいと言った時、お前はもうこの空間に呑まれかけていたんだな」
クロは悔やむように言った。
私は少し驚いた。
その考えはなかった。全て自分の意志で行動していたつもりだったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
クロは小さな箱を手に取った。
「ほら、これ。お前が欲しがってたやつ」
箱は、私の手にすっぽりと収まった。透明の箱の中には、首に赤いリボンをつけたテディベアが入っている。
「ありがとう」
本当に取ってくれるなんて――
私は感動して言った。
「他にも色々あるから、好きなのあったら持ってけよ」
赤い台の上には、チョコレート菓子、トランプの箱、パズルなど様々なものが積み重なっている。残りの弾も、一つも外さなかったらしい。
私は手の中のキーホルダーを見つめた。
前にも、こうして誰かに物をもらったことがなかっただろうか。
確か、こんな祭りの夜だった。私はずっと誰かと手を繋いでいた。その時は、手のひらよりも大きなぬいぐるみをもらって――。
「……」
桃色の花びら。そうだ、あれは桜の木だ。
桜、さくら――私の、名前。
「ねえ、さっき名前を呼んだのってあなた?」
私は尋ねた。
クロは不思議そうに私を見つめた。
「他に誰がいるってんだよ」
その時、私の前を一人の女の子が横切った。
黄色い浴衣に、手には金魚の袋をぶら下げている。その横顔を見た瞬間、私はひゅっと息を呑んだ。
「どうした?」
返事をする間も惜しく、私は女の子に向かって駆け出した。
「ねえ、ちょっと!」
私は女の子の前に回り込んだ。女の子はびっくりしたように立ち止まる。
私は、真正面からもう一度女の子の面をよく見た。
二つくくりの髪に、丸い目。薄い唇。
間違いない。
これは、私の面だ。
「見つけたのか」
隣に並んだクロが、固い声で言った。
「うん」
うなずくと、私はしゃがんで女の子に話しかけた。
「ねえ、そのお面、私がずっと探していたものなの。良かったら、お姉ちゃんのお面と交換しない?」
女の子は戸惑ったように私の面を見つめた。少し黙って考え込んだあと、女の子は言った。
「やだっ。これ、めいちゃんのだもん」
私とクロは思わず顔を見合わせた。
これは困った。
この子の面がないと、私は永遠に帰ることができない。今後、女の子の気が変わって面が他のところに渡る可能性もあるが、それを待つ余裕はなかった。さっきのりんごあめで、ここに留まる危険性は十分身に染みていた。
女の子は困り果てた様子の私たちを見比べた。そして、考え直したように言った。
「そっちのお兄ちゃんのお面となら交換してもいいよ。かっこいいし」
私は驚いてクロを見た。
どうする、と聞こうとしたが、その前にクロはためらうことなく答えていた。
「ああ。いいよ」
「えっ、いいの?」
私は思わず聞き返した。
「また新しいのを探せば済むことさ」
クロは面を外した。その顔は、私が水瓶で見た時のように、いやそれ以上に輪郭がぼやけている。
クロは、はい、と女の子に自分の面を渡した。
「やったあ!」
女の子は喜び、自分の面を外して代わりに黒い狐の面をつけた。
お兄ちゃん、ありがとね!
大きく手を振り、女の子が走り去って行く。
クロの手元には、私の面だけが残った。
「ごめんね。クロのお面、なくなちゃった」
「別にいいって。代わりの面ならそこらじゅうに溢れてる」
クロは面を私に差し出した。
「ほら、お前の面だ。受け取れ」
とく、とく、と心臓が脈を打つ。
「うん」
どこか緊張しながら、私はそっと触れるように面を受け取った。
その瞬間、面にやわらかい光が生まれた。
無数に集まった星が広がるように、面はきらきらとした光を発しながら空中に溶けていく。
同時に、消えていた記憶が底からゆっくりと浮かび上がってきた。
私は大きく目を見開いた。
そうだ、私――……