幕間
その日はいつもと同じ日常の中にあった。
朝、目覚ましの音で起床し、母親が用意した朝食をとる。身支度を整え、家を出る。
学校までは徒歩で十分ほどの道のりだ。
やはり学校が近いと何かと都合がいい。クラスメイトの中には片道三十分以上かけて自転車通学している人や、中には一時間以上かけて電車とスクールバスを使ってまで登校している人もいる。
確かに都心部に行けばそれも当たり前の光景なのかもしれないが、朝急がなくてもいいのは良いことだ。
私が教室に入った時、ホームルームまではあと三十分ほどある。当然教室の中、いや、他のクラスの中にもまだあまり人はいない。いつもは雑多な喧騒に包まれている学校が、この時間はまだ静寂を失ってはいない。
……静かだ。
私の一番好きな時間。私が、私でいられる貴重な時間。
私は鞄の中から教科書類を取り出す。それを机の中に入れ、鞄をロッカーに仕舞う。
ホームルームまで、まだ時間はある。いつも通り予習をしよう。
教科書を開き、ノートにペンを走らせる。科目は数学。ちょっと勉強を疎かにすると、すぐに分からなくなる。私が何とか問題を解き終えた頃には、徐々に人が増えつつあった。
「毎日毎日教室に一番乗りして勉強とは、頑張ってますな、委員長は」
後ろの席の女の子が私に話しかける。短く返事を返すと彼女は友人のところへ去った。
ここでの私の役目は、優等生の学級委員長。私はその役割を演じなければいけない。
別に強制されている訳ではないはずだ。断る意思があれば、きっとこの仕事を押し付けられることはないだろう。
でも、私は怖いのだ。私が演じるものがなくなった時、私はどうなるのか。
私はこの世界に必要とされるのだろうか。
考えても答えは出なかった。
いや、あるいは出なかったのではない。出したくなかったのだ。
私は誰かから求められることで、自分が生きていることを認められたと実感できる。
ただ大気から酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する。なんてことはない。ただの化学変化ではないか。そんなこと人間でなくとも、生き物でなくとも可能だ。
何の意味もなくただそこに存在することは、どんな物質にでもできる。
でも、何らかの意味があって存在するためには、他の何かが無いと不可能だ。
他者に求められること、それが私の存在する理由、存在していい理由になる。
今日も、いつもと同じ日常が繰り返される。私は誰かから価値を認められる。
「ねえ、委員長。駅前に化け物が出るって噂知ってる?」
「ちょっと、委員長はそんなことに興味はないでしょ。それより、この問題分からないんだけど教えてくれない?」
だけど、そこに私の意思は存在しない。たとえ噂話に興味があっても、私にはそれに興味がないことを求められる。
いつもこうだ。今までも、きっとこれからも。私は私が求められた役割をこなすだけ。それが私に与えられた使命。
帰りのホームルームが終わると、少しは気が安らぐ。あと少し頑張れば私は解放される。自由になれる。
「おっけ。今日は四人で行くとすっか」
クラスメイト達が今日もまた駅前で遊ぶ計画を立てている。私だって、たまには放課後に友達と遊びたい。でも寄り道は校則で禁止された行為。ほとんど意味をなさない規則であっても、優等生が破るわけにはいかない。
「ちょっと新庄君たち、あんまり遅くならないうちに帰りなさいよ。最近駅前で化け物に襲われたとか変な噂聞くんだから」
だから私は彼らを注意する。クラスメイトが話していた噂話を持ち出して。
一旦帰宅してから、私は塾に向かった。それが寄り道に含まれるかは私にはわからないが、それを判断するのはどうせ他人。私が知らなくても支障はない。
堅苦しい生き方だと思う。窮屈な人生だとも思う。だがそれが私なのだ。
だからなのか、誰からも求められない朝の静寂こそ私の最も好きな時間なのだ。
でも、安らぎは長くは続かない。誰かに求められない一日は今のままならないだろう。だから、きっとそれは偶然でも何でもない。私が望んだものだったのだろう。
塾への道のりの中、植物の形をした巨大な人間が、町を破壊している姿が目に映った。
破壊の音はすさまじく鳴り響くのにも関わらず、それ以外は驚くほど静かだった。
「そっか、全部壊しちゃおう。それなら何も聞こえない。何も私を縛れないっ!」
どこからか私の声が聞こえる。そして、私はそれを受け入れた。