Feild1-4
夕食も終わり、クーリフトは用意された部屋で一人、机に向かっていた。寝る前にとりあえずの今日見たライズについて報告書をまとめておこうと思ったのだ。机の前にある大きな窓からは月の光が零れ出ていた。ライズに来るまでは信じられないことだったが、今では彼にとってルジラシス家含め、ライズに好感を抱いていた。一点を除いて。
アグウスは未だ見えない。とぐろを巻く大蛇のように執拗にクーリフトの背後を狙っているような気がした。父も彼を懸念しているのをクーリフトは理解していた。しかし、ケストがライズの政務を担っている以上、ライズという都市とアグウスを切り離して考えてもよいかもしれない。あくまでそれは一つの案であるが。
そんなことを考えていると、窓の下が騒がしく炎が灯っているのに気がついた。丁度、窓が正門に位置しているため、それが馬車であることが容易に予想がついた。しかし、一体誰がこんな夜更けに外に行くのだろうか?
クーリフトは椅子から立ち上がり、よく見ようと眼を凝らして窓に近づいた。暫くすると供を一人従えた男が屋敷から出てきた。遠目でうまく判別がつかない。この屋敷の成人男子と言えばアグウスかケストである。もう少し窓のカーテンを開けたかったが向こうに気付かれる心配があったのでそれもできない。すると従者が持っていた明かりに照らされその男の顔が映し出された。あれは!
「アグウス・・・」
あの男、どこに行くつもりなのか。少しの間逡巡すると、クーリフトはクローゼットから纏衣を取り出し、扉を拳大に開けた。そこから回廊の様子を伺い誰もいないのを確認して回廊へと出た。そして厩へと向かった。
幸運なことにまだ馬車は出立してはいなかった。厩から一頭拝借して正門近くまで来ると馬車はまだそこにあった。気付かれないように息を殺しながら動き出すのを待った。漸く、馬車が動き出し、それを暫く見送ると向かう方向に検討をつける。ライズの西に位置し、大きな街道を挟んで北に進むとアランドルにも通ずる生命の森だ。あの方向はそれぐらいしかない。
なぜそんなところに?
馬車の明かりが親指くらいになると暗い闇を利用してその後を追うため馬に手をかけ走り出した。彼は何をするつもりなのか。父上、ライズはよいところかもしれない。しかしアグウスは信用ならない。だからこそ確かめねばならない。
ライズの小門を抜け街道をひたすら走り続けていると、予想したとおり生命の森が見えてきた。やはりあの森に用があるらしい。だが、誰かと逢うにしても確かに人目はつかないが、決して好条件とも言えない。なにせ女神の恩恵を受けていると言われる森は、迷いの森とも言われるほど複雑であるからだ。都市ができて森に人道が作られて久しいものの一度、最奥に言ってしまえばコンパスもきかない。安全とは言えないのだ。それを彼は勝手知ったる道といわんばかりに進んでいく。そこに躊躇いがないことから、彼にはよく行きなれた道であることが伺えた。この先には何があるのか。
延々と先へ進む馬車がふとその足を止めた。それにあわせて木陰に身を潜めながらクーリフトも馬を宥めて足を止めた。馬車からアグウスが降り、供のものがその足元を照らしている。どうやらここからは徒歩で行くらしい。クーリフトも馬車から死角の場所を選んで馬の手綱を木の枝に括った。
「すぐ戻ってくるからおとなしく待っていてくれ」
一撫でしてすぐに足音に気をつけながらアグウスの後を追った。
歩いてどれくらいがたったのだろう。周りに見える景色が少し開けてきた。湖が見えてきたころになってクーリフトは気がついた。
どうしてこんなところに!!
湖のすぐ横、開けた場所には一つ屋敷が立っていた。静かにそれは夜の小さな明かりに照らされながらその存在を露にしていた。ここに屋敷があるということは人が住んでいるのだろうか。それとも密会場所とでもいうのだろうか。森の高い木々がその周辺にはなく美しい花壇が彩りを添えていた。しかし、それでは身を隠せない。なるべく近くまで来てクーリフトは再び様子を伺った。
アグウスは屋敷の扉を叩くこともなく、そのままゆっくりと屋敷の中へと消えていく。クーリフトは彼が消えたのを確認すると屋敷の壁に身を寄せた。人の気配がしないことを再度確認して屋敷全体が見える位置まで下がった。石造りのそれはまるで女神アルムの別邸といわれても驚かないほどに神秘的で、不思議と闇に溶け込んでいた。
本当に密会所なのだろうか。それにしては外に見張りを置いているわけではない。確かにこんな辺境の、人外の住まう土地に誰が忍びいるでもないだろう。自分のようなもの以外は。
そんなことを思案しているクーリフトの耳元に不思議な旋律が流れ込んできた。優しく響く音色にクーリフトは暫し心を奪われた。誰が歌っているのだろう。発信元を探そうと首を巡らしてみても花壇と湖があるだけである。屋敷を見上げて、初めて気付いた。屋敷の二階の一つの窓から明かりが漏れ出ている。確かにずっと明かりが灯っていたのかもしれないがそれを意識したのは今が初めてだった。そしてその窓に一つの人影があった。
しまった!アグウスに気付かれたか!
そう思うもその人物に眼が離せずにいると、それがアグウスでないとすぐに理解できた。胸をなでおろして様子を伺うと、向こうも気がついたのか下に視線を向けた。自分の浅はかな行為を叱咤するも、クーリフトはその場から動けずにいた。相手が自分を認識してしまったことに少し焦りはあったがそれ以上に眼を奪われた。そこにいたのは女神と見紛う金髪を持った美少女だったのだ。
部屋のランプが少女の姿を浮き彫りにしていた。歳はカーリスより二、三上くらいだがその少女には神秘的な威厳があった。信じられない。まるで神話から抜け出てきたような少女にただ眼を奪われていた。少女の視線は強い光を宿してクーリフトの全身を貫いた。 多感な少女の見せる好奇心や無邪気な愛らしさがあるわけではない、むしろ異様なまでの神々しさが彼女を包み込んでいた。どれくらいの時間見つめあっていたのだろう。いや、時間にしてほんの数秒に過ぎないのだろうが、クーリフトには永遠の時に囚われた感覚を感じていた。
最初に動いたのは窓辺に立つ少女だった。驚いたような不思議なものを観たような顔は一瞬にして夢から覚めたようにはっと眼を見張ると部屋の中へと身体を戻すとすぐにカーテンクロスを閉じてしまった。
クーリフトはまるで夢でもみていたかのようにその光景に反応できずにただ眼を見張るばかりだった。もしかしたら自分は天上の楽園を垣間見たのかもしれない、とさえ思ってしまう。するとカーテンの隙間から白い小さな手がのぞいた。何かを指し示すように人差し指だけを立たせていた。その先には宵闇に溶け込んだ新緑の森の入り口があった。帰れということか?困惑しているクーリフトの耳に聞きなれた声が聞こえてきた。
「リリス、どうした?外になにかあるのか?」
アグウスだ。
そう判断したが早いか、クーリフトは少女の指し示した先へと素早く駆け出した。木の陰に身を潜めながら今は少女の影だけを映し出すカーテンに目を向けながら上の様子を伺う。暫くすると少女は部屋の奥へと戻ってしまったのだろうか、影も奥に引っ込んでしまった。
クーリフトは息を潜めながら、先ほどの不思議な邂逅を思い返した。己の眼を疑ってしまう。
自分は有り得ないものを見た。この世に存在する筈がない、違う確かにいるかもしれない、彼の者たちは人間ではないけれど。
少女の小さな顔は透き通るように白く、瞳は月のように光りを湛え、髪は闇を支配するように輝きを放っていた。主都市に行けば美人は五万といる。立場上、あらゆる貴族の令嬢と相対した身としては美人など腐るほど見てきた。しかし、彼女はどの令嬢とも一線を臥していた。纏う空気は香水に塗れ、貪欲に金を貪る令嬢たちとは違い、清々しく精錬されていた。では彼女は人ではないのか?
馬鹿な、それこそありえない。
あまりに馬鹿げた考えを一蹴する。彼女は一体何者なのだ。考えられる前例が一つあった。リーシリス。己の先祖にあたる人物。
なぜ彼女がアグウスと?考えられる理由に隠し子があるが、そんな噂は耳にしたことが無かった。だが、確か。クーリフトは古い記憶を探り出す。そう、確か、自分がまだ幼い頃、叔父に第一子の誕生という吉報が届けられた。それはカーリスが生まれる二,三年前の話ではなかっただろうか。しかし、その後不幸にも流行り病に罹り亡くなったと聞いたが、まさか其の時の娘ではないか。ただこれは推測に過ぎない、あまりに判断材料が少なすぎるため推測しかできない。確かめる術は、アグウスに問いただすか、少女に会うかである。前者はできることではない。これまでの様子を見るとアグウスは明らかに少女の存在を隠したがっているようだし、付けてきたことを彼に知れたら後々不利になるに違いない。後者は、どうだろう。可能性としては低い。忍び込めたとして少女が会ってくれるとは限らない。そこでクーリフトははっとした。
自分は、あの娘に逢いたいのか?よく考えれば今日見たことは自分が思うほどに重要な事柄ではないかもしれない。そう、ただ類稀な容姿をした少女が居たことに関しては。
そうだ、私が注視するべきはなぜアグウスがこの屋敷へ来たかということだ。少女は失われた公女なのかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、それが今の自分にとって重要なことであろうか。違うだろうと自分を叱咤する。それと共に一人の少女の存在にこんなにも動揺している自分に驚く。信じられないことだが、アランドルの友人たちが熱に浮かされたように口にする運命という言葉が自分の頭を掠めた。声の出ない笑いが彼の口を出た。
幻想的で現実味を帯びない言葉を自分が口にするとは。
クーリフトは足元を見つめていた瞳を再び少女の居る窓辺へと戻した。姿はそこになく、漏れ出る明かりだけが少女の存在を固辞していた。この距離では声すら聞こえない。これではアグウスの動向を探ることもできない、彼が屋敷を出る前に自分は戻らねばならない。ここまで乗ってきた馬の様子も気になる。
潮時か。
そう思うもこの場所から離れがたい。ここから離れることは、今日見た存在とのつながりも断ち切られてしまいそうでクーリフトの胸にぽっかりと暗い影を落とした。一度この場所を離れたら、もう見つけられないような気さえした。きっと明日になれば少女は私のことも夢のことのように覚えてはいないかもしれない。それともあの娘は自分の幻想に過ぎなかったのか。ここにいるのに、確かにその瞳は私のみならず、心までも掴んだにも関わらず!頭が混乱して分からなくなってきた。
其の時、丁度屋敷とクーリフトの立つ新緑との間にある花壇に静かに風に凪ぐ花々が目に止まった。クーリフトは口元をほころばせると、周囲に注意しながら音もなく花壇に近づき、一輪、優しく手折った。それを胸に当てて窓辺を仰ぐ。数瞬のうちに花壇の縁にその花を置いた。少女は気付くだろうか。苦笑まじりに花を見つめた。そろそろ、帰ろう。アグウスよりも先に屋敷に戻らねばいけない。クーリフトは後ろ髪引かれる思いでその場を辞した。
残されたのは花壇の群れから外れた一輪の花、勿忘草。
どうか私を忘れないで。
クーリフトとリリスの初邂逅です。