Feild2-6
いつものようにお休みと挨拶を交わし、リリスは自室の扉を閉めた。
耐えていたものが堰を切ったようにあふれ出し、そのまま身体を横たえ震えるのを両手で抑えた。
寂しくても孤独ではなかったこれまでの生活が、いつかは途絶えてしまうと知ったのはまだほんの幼いときのことだ。
何時までも続けばいいと思っていた。
すでに逃げることは諦めていた。
だから静かなときをレイとクーリフトと過ごせたらそれでよかったのに。
涙はでない。
膝を抱え込み顔を覆った。
暗闇の中灯りも付けず、誰かいるわけではないけれど、この状態の顔を見られることが嫌だと思った。
どうせならこのまま闇に包まれて消えてしまえればいいのに、そうすれば自分のためにレイが嘆き悲しむことはないし、クーリフトが哀れむことだってないのに。
自分の存在が僅かな大切な人を苦しめる。
感情が必要以上にリリスを混乱させた。
それは大きな魔力を宿す身には非常に応える。
制御の仕方を知らないリリスは禍々しいほどに身体に纏わりつく力を外に放出させ治まるのを待つしかなかった。
冷静に、気持ちを落ち着かせようとするのに感情が言うことをきかない。
身のうちに集中させていたリリスは閉め切っていた窓から風が吹いていることに気がつき顔を上げた。
確かに下に下りる前に閉めていた筈なのに、不思議に思いながら立ち上がり窓辺に向かう。ふと、違和感がリリスを襲った。
胸の鼓動が高まる。
夜風がリリスの頬を掠めた。
段々と月明かりに照らし出された窓辺が鮮明になっていく。
正体を確かめようと目を凝らす。自分が危険な行為に及んでいるとは露ほども感じなかった。
何があるのか、分かっているわけではないのに、不思議とその存在をどこかで認めていた。
浮かび上がる影は、人の形をしていた。
全身を闇夜に染め上げた、それは美しい男だった。
恐怖も焦りも不思議と感じなかった。
「誰?」
窓辺に寄り添う影が傾いだ。
ゆっくりと、確かな足取りで部屋の中央へと移動する。
月明かりがその全貌を明らかにする。
闇を身に纏った男の、黒檀の髪、鼻筋の通った端麗な面立ちに紫煙の瞳がリリスの視界を覆った。
まるで、人形のよう。
月明かりに照らされた顔は冷たく、怯えもしない彼女を奇妙に思っているのか冷めた紫煙の瞳はリリスを見下ろすだけで何も言おうとはしなかった。
「あなたは、誰?」
もう一度問いかける。
逃げるという考えはすでにリリスの頭にはなかった。
「リリス・ルジラシス・・・だな」
誰何には応えず、男が口を開いたのはリリスの名前だった。
「私を知っているの?あなた、暗殺者?」
男の瞳が一瞬揺れた、ように見えた。
「そうだ」
冷淡な真実は、しかしリリスの胸には響かなかった。
「・・・そう」
どこかで理解していた真実だ。
自分の生かされている意味すら分からない、己の価値は一体なんなのか、アグウスは一度も言わなかった。
ここに住まわせ、己に従えと告げるだけだ。
その彼がその手を離した時、自分はこの世から消えるのだと、それだけは知っていた。
いつものように、背を向けながら、しかし今回はそれが最後の決別だったのだろうかと、リリスは父親の背中を思い浮かべた。
「勘違いするな、お前は殺さない」
大きく見開かれた金の瞳が男を捕らえる。
「どう・・・して?」
喉が戦慄くのを感じた。
「俺が依頼されたのはお前たちを保護することだけだ。殺しはしない」
誰が、とは口にしなかった。
思い当たる人物は一人しかいない。殺されると思っていたのに。
彼は切り捨てることよりも手を取ってくれる。
どうせなら切り離してくれればいい、自分という重荷を背負うくらいなら忘れてくれればいいのに。
優しい従兄はそれを良しとはしない。
熱くなる身体に、涙が零れうになる。
彼の優しさが残酷なまでに凝ったリリスの心に染みた。
「見捨ててくれればよかったのに」
リリスが表情を曇らせているのに、表情を動かさなかった男が僅かに眉根を寄せた。
「お前は・・・死にたいのか?」
「違うわ。そうじゃないの。死にたい訳じゃない・・・私は・・・」
リリスは口元に手を当てて黙り込んだ。
男が、暗殺者だと思うのと同時に冴え冴えとした瞳に感情を表に出さない表情がどこか自分に似ていて不思議な親近感、懐郷すら感じているのかもしれない。
それがどうしてなのか、どこからくるのかはリリス本人にもわからないが、彼への不可解な感情が、彼女を雄弁にした。
急に話を途絶えたリリスを男は黙って見つめている。
男は、存在するといわれていた娘をいざ目の前にして、奇妙な感情を胸に抱いていた。
森に入る時分に感じた、あの感覚。彼女の髪や瞳に帰依するものではなく、まるで望郷を懐かしむ、そんな気持ちだ。
自分に限ってありえないと思いを押しやるが少女の一挙手一刀足に目が離せないでいた。さっさと任務を遂行するべきだと思う反面、彼女を見ていると言葉も身体も機能を失ってしまうのだ。
沈黙が続くとリリスが瞳に強い光りを宿してディバルトを見上げた。
「あなた、さっき‘お前たち‘と言ったわね?」
「・・・そうだ」
「それは、私とレイ・ハウントということかしら?」
ディバルトは軽く頷く。
先ほどまで混乱をきたしていた娘が嘘のように生気を帯び、何事かを思案している。
リリスは混乱してしまう感情を抑えて、男の言葉の意味を噛み砕いていた。秤にかけるべきは自分の命ではない、レイ自身。
ここから外へ、考えなかったと言えば嘘になる。しかし、何より彼、クーリフトの庇護下にレイがいるのなら、これほど安全な場所はないのではないだろうか。
「そう、そうよね。あなた、失礼。お名前を教えて下さる?あなたでは呼びづらいわ」
「・・・ディバルト、ディバルト・ジュリアス」