お金を貸してください
珍しく同僚の大木に誘われて近くの居酒屋に来た。学生御用達の店だからか、若い店員が多くて賑やかである。いつもは静かなお店でお一人様ばかりだったので、たまにはこういう店もいいものだな。
「店員さん、生二つ!」
「あいよー!」
大学生と思しき男が威勢のいい声を上げて、俺の注文に応えてくれた。お通しも若い人好みな味であったが美味しい。これは注文したものにも期待が持てるな。
「生ビールお待たせしました!」
ビール瓶が置かれて互いに注ぎ、乾杯する。喉に苦みが沁み渡って美味しいなあ。気付くと俺は、七杯も空にしていた。頬が熱い。きっと赤くなっているだろう。
「ほら、橋本。もっと飲めよ。」
「なんだよ、大木。全然飲んでないじゃないか。お前がもっと飲めよう。」
「……なあ、橋本。頼みがある。金貸してくれないか。」
「はあ?何でだよ。やだよ。」
「なあ。頼む。俺とお前の仲じゃないか。」
「断る。」
なんだよ。金の話かよ。あーあ、しけたな。グラスに残ったビールを呷るが、既に温くなっていた。
「店員さん、赤ワイン!」
「あいよー!」
「橋本、頼む。この通り!」
大木は両手を合わせてウインクをしてきた。そんなんで貸すか馬鹿野郎。
「いくらいるんだよ。」
「五万。」
「はあ?俺そんなに持ってねえよ。」
「口座にあるだろ?な?」
「ふざけろ、バカ。」
店内は大学終わりの学生が集まって、ぎゃあぎゃあ騒いでいる。呑気でいられていいなあ、若い人は。俺は金をせびられているというのに。
「なんで必要なんだよ。」
「えっと、喜ばしいことがあってさ。」
「どんなことだよ。」
「それは言えない。」
「なんでだよ。」
「それも言えない。」
「じゃあ、貸せねえな。」
大木は左手でビール瓶を掴んで俺に差し出した。薬指には指輪が光っている。俺は黙ってグラスを差し出してビールを受けた。
「実はさ。ある人が誕生日なんだよ。」
「奥さん?」
「いや、お前の知らない知り合いなんだけどね。今月の小遣い使っちゃって。」
「なんで俺の金でそいつの誕生日祝わないといけないんだよ。」
「なあ、頼む。」
「絶対嫌だ。」
「赤ワインお待たせしました!」
店員さんがワインを運んできた。青くなっている大木を肴に俺はワインを呷った。ああ、なんだか気持ちがふわふわしてきた。眠たいなあ。
「ほら、橋本。もっともっと飲めよ。」
「なんだよ、大木。お前全然じゃないか。お前こそもっと飲めよ。」
「橋本よお。頼みがある。金貸してくれないか。ちょっとでいい。」
「はあ?何でだよ。嫌だよ。」
「なあ。頼むよ。俺とお前の仲だろ?な?」
「断る。」
さっき断ったはずだがな。あーあ。冷めるわ。グラスに残った赤ワインを呷るが、既に温かくなっていた。
「店員さん、焼酎!燗つけて!」
「あいよー!」
「橋本、頼む。この通りだ!」
大木は手を合わせて頭を下げてきた。そんなんで貸すか阿呆野郎。
「いくらいるんだよ。」
「十万。」
「はあ?俺そんなに持ってねえよ。」
「口座にあるだろ?な?」
「ふざけろ、アホ。」
店内は部活終わりのラガーマンが集まって、ぎゃあぎゃあ騒いでいる。呑気でいられていいなあ、スポーツマンは。俺は金の無心をされているというのに。
「なんで必要なんだよ。借金か。」
「借金……は少しあるけど、そんなんじゃねえよ。もっと高尚な使命があって、俺には金が必要なんだ。」
「どんなことだよ。」
「それは言えない。」
「なんでだよ。」
「それも言えない。」
「じゃあ、貸せねえな。」
大木は、俺に左手でデキャンタを掴んで差し出した。薬指には指輪が怒りに震えて光っている。俺は黙ってグラスを差し出してワインを受けた。
「少しはさ、俺のことを助けてくれたっていいんじゃないの?いつも仕事で助けてやってるじゃねえか。」
「仕事を助けてるのは俺だろ?」
大木はドンと机を叩いた。
「おい、頼むよ!」
「絶対嫌だ。」
「焼酎お待たせしました!」
赤くなっている大木を肴に俺は焼酎を呷った。ああ、なんだか気持ちがふわふわしてきた。あ、意識が……。
「橋本、橋本!起きろ。大丈夫か?」
少し眠っていたようだ。なんだ、今のは夢か。大木に何かを頼まれていた気がするが、なんだったろう。まあ、いいか。
「おお、すまん。少し眠っていたみたいだ。」
「良かった。酒で死んだのかと。」
「そんな訳あるか。お前も飲め。」
「橋本よお。頼みがある。金貸してくれないか。少しでいい。」
「やだ。」
俺は大木に左手で徳利を掴んで差し出した。俺の手の薬指には指輪が悲しげに光っている。大木は黙ってお猪口を差し出して、冷たくなった焼酎を受けた。彼はその一杯で一気に酔いが回った。
「うわあああん。橋本がお金を貸してくれないよおおお!」
「うるせえ。お前、泣き上戸だったっけ?」
「違います!違います!うえええん!」
店内にいるサラリーマン達が一斉にこちらを見る。こんな風に酔われると、俺の酔いが冷めるわ。この!
「ああ、分かった。分かった。話だけでも聞くから。」
「本当ですか?えへへへい。」
甘えた声を出すなよ、大の大人が。気持ち悪い。ああ、なんか喉が渇いたな。
「店員さん、日本酒!冷やで!」
「あいよー!」
「で、いくら必要なんだ?」
「十五万。」
「たっけえ、この野郎!」
大木は俺の胸倉を掴み、叫んだ。
「いいじゃないかあああ!分かってくれよお。俺にとっては最も大切なことなんだよお。」
「何に使うんだよ。そんなに。」
「あんなー。明日なー。行きつけのキャバの俺のお気にの嬢の誕生日なんよ。」
「はあ?キャバ嬢?」
「ミキちゃんっていうんだけど、可愛くてな。ぶっちゃけ好きなんよ。付き合いたいんよ!」
大木の呂律の回らない口は、夢みたいなことを繰り返し繰り返し呟いた。何度同じ話を聞かされたのだろう。いつの間にか俺は眠ってしまった。
「ほら、橋本。起きろ。」
「あ、ああ。寝てたか。あれ、お前全然飲んでないじゃないか。俺が寝てたからって遠慮するなよ。」
「……橋本よお。頼みがある。金貸してくれないか。」
「嫌だよ。」
「なあ、頼むよ。俺とお前の仲だろ?な?」
「断る。」
このやりとりを何度しただろう。もう覚えてないな。もしかすると初めてか?どこからが夢だったのだろう。手をつけていない日本酒は既に温かくなっていた。
「橋本、頼む。この通りだ!」
大木は九十度腰を曲げて頭を下げてきた。そんなんで貸すか屑野郎。日本酒をぐっと一息に飲みこんだ。
「いくらいるんだよ。」
「二十万。」
「はあ?俺そんなに持ってねえよ。」
「口座にあるだろ?な?」
「ふざけろ、クズ。」
店内はキャバ嬢の出勤前なのか男を伴なって、ひそひそ話している。大変だなあ、キャバ嬢は。大木みたいなやつを相手にしてるんだから。
「キャバ嬢だったっけ?」
「えっ、よく分かったな。実はそうだ。」
大木は、俺に左手で水を差し出した。薬指には指輪が楽しげに光っている。その水を受け取り、喉を冷やした。
「お前さ、奥さんいるんだろ。そっちの方を大事にしたらどうだ。奥さんはお前を大事にしてるんだろ?」
「ああ。」
「金なんてそんなにいらねえよ。そっちをしっかり大事にしてやれ。」
「……うん。」
大木に肩を支えられて会計に向かう。大木は自分の食べた分を支払った。
「そちらのお客様、お会計二万円になります。」
「はいはい。」
払おうと思って財布を見ると、五千円しかなかった。
「なあ、大木。頼みがある。金貸してくれないか。」
「嫌だよ。」
俺は地に手をついて頭を下げた。