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すべてにおいて限界だった。
新しい店舗に向かう日、出勤中に私は足を止めた。
涙などもとうに枯れていた。
呼吸が苦しくて、立っていることさえ儘ならない。
私は急いで携帯電話を取り出し、会社の一番上の上司に電話していた。
調理の世界はまだまだ男社会で、会社の中でも少し浮いた存在だった私を娘のように可愛がってくれていた調理主任。
「いきなり電話してすみません。お話があるので、お時間作っていただけませんか?」
日頃は忙しくて月に1度か2度くらいしか会うことの無い主任も、私の変化に気付いてすぐに駆けつけてくれた。
主任が来た瞬間、私はボロボロと泣いていた。
弱音を吐く人を失って、誰にも何も言えなかったことが一気に溢れ出した。
「わ…私っ…。もう…ダメです。。」
自分でもいろんなものが止め処無く溢れて、何を言っているのか分からなかった。
それでも一生懸命にそれを伝えたかった。
彼のことを知っている主任にこの気持ちは言えないけど、事故で彼という最大の理解者を失った辛さや不安。
病気になって治るかさえ分からないこの状況で、もう私は此処に居ることは出来ない。
周りから言わせれば、「甘いとか・根性がない」と思われるだろう。
それでもいいから、私は此処から逃げ出したかった。
彼を知っている人・彼の知っている人・彼を思い出すこの場所から消えてしまいたかった。
主任からは「1週間休みをやるから、実家に帰ってゆっくり考えてまた話をしよう」と言われた。
実家に帰り、両親に話したらとても怒られた。
母親は辞めるなと怒り・姉はそんな母親に怒り、病気になった私を心配して帰って来いと言った。
父親は「自分で決めたのならそれでいい。次やりたいことは真剣に考えてやり通しなさい」と言ってくれた。
私は会社を辞めても実家に帰るつもりは無かった。
実家が嫌いなわけじゃない。
ただあまりに愛されて、自分がこの世界でぼんやりと過ごしてしまう気がして恐い。
1週間後。
私の意志は変わらずに、会社・そして銀座という街から去ることを主任に伝えた。
もちろん彼に何も言わず、あっという間に消えた。
そして顔の蕁麻疹を何とかしようと病院に行ったり・化粧品屋さんを回り、そして新しい仕事を探した。
会社を辞めて1ヶ月後。
新しい職場も決めて、顔の蕁麻疹も減りつつあった。
そんな中、新しい仕事から帰ってきた夜の11時頃。
携帯電話が鳴り出した。
ディスプレイには彼の名前。
ビックリして、なかなか出られない。
・・・やっとのことで通話ボタンを押した。
「もしもし…」
「もしもし?俺だけど。お前辞めたってどういうことだよ!」
どこからか聞いてしまったらしい彼からの電話だった。
銀座の街では知り合いの多い彼に、1ヶ月知られなかったことの方が稀だったのかもしれない。
「いやぁ〜・・・ちょっと病気になって。限界が来てしまいました」
とどう伝えていいか分からないのをどうにか言葉にした。
「お前なんで一番に俺に言わないわけ?」
まだ彼の勢いは納まらない。
「だって高井さん。事故で大変だったし・・・」
と言い訳を並べる私。
「あのなぁ〜言ってくれてれば、俺が主任のところに行ってお前をくれって頼みに行ったのに。。
俺はお前ともっと一緒に仕事したかったんだよ!それをよ・・・黙って消えるなよ…」
泣きそうだった。電話でよかった。
こんなことを直接言われていたら、私は彼の前でみっともないくらいわんわん泣いていただろう。
「私も、もっと高井さんと仕事したかったです」
したかった・・・もう遅かった。
私は新しい仕事を始めていたし、彼の店でも新しい人を雇ってしまっていた。
辞めてすぐに彼に言っていれば、私は今頃彼の隣にいたのに。。
そう思うと胸が押し潰されそうだった。
でもこれは自分で決めたこと、彼の前から消えると…
それでも彼と、彼の店で働くことを想い描いて後悔せずにはいられなかった。