鬼哭 〜艶体詩〜
三人称なので文章が少々固めです。
あと、舞台が戦場なので流血が日常茶飯事です。
お気をつけ下さい。
あれは鬼。
夕闇にか血煙にか、赤く染まった戦の大地。
いまだ消えやらぬ炎の煙がたなびくその場所に、灰色の影がよろぼう。
何を探し求めるのか。
影は四肢を地につける。
瓦礫や骸、うめきを上げるまだ息のあるものとて横たわる、地獄絵図の只中に。
その姿形だけを見れば、それは、ひと……………なのにちがいない。
そう呼んでいいならば。
ザンバラに乱れる蓬髪の間に、炯と光る一対を見て、怖じることなくそれを『人』と呼べるものがいるならば、それは、人であるのだろう。
しかし、誰もいはしない。
未だ日の高みにあった頃、降り注ぐ矢や矛にも傷つくことのないそれに、あまた勳をあげた兵たちも、遠巻きにしたほどのそれを、いったい、誰が、人と認めるというのだろう。
異形、人ならざる者と、ものに動ぜぬ戦人たちもが、それを、そう呼んだ。
あれは、鬼であるのだ………と。
人であるには何かが足りず、人であるには何かが過ぎる、その均衡の悪さを人は本能的に嗅ぎ分け、そうして、そう呼ぶのかもしれない。
それが現れた戦場は、しんと静まり返る。
まるで触れてはならぬ災厄だとでも言うかのように、息を殺して、それが過ぎるのをただ待つのだ。
血に酔いしれた者の殺戮が日夜繰り返されるその場が、四十数年の長きにわたる戦が、ただ一匹の鬼のために、息をひそめる。
夜ともなれば、狂笑が風にのり耳に届く。
耳を塞ぎ目を閉じて、たいまつのみの夜を送るのだ。
なぜ、いつ頃から戦場に鬼が現れるようになったのか。
知る者はいない。
ただ、戦に慣れ親しんだ男たちがなぜたかだか一匹の鬼を恐れるのか。
その理由だけは、敵味方の別なく、知っていた。
まだ歳若い兵が肩を震わせる。
風にのり聞こえてくるのは、鬼の声。
遠くしじまを引き裂くかの、正気ではない声だった。
それは、疲れた兵の心を怯えさせるのに充分な響きをはらんでいた。
風もないのに篝火が、揺れる。
闇を透かし見る少年の視界に、しかし、何の気配もない。
あるのはただ、死肉をあさる獣の気配ばかりである。
時折薄れては強くなる、死臭である。
星のない夜は、奇襲にはうってつけだ。
闇にまぎれて、敵が近づいてこないとも限らない。
しかも、恐ろしいのは敵ばかりではない。
なぜあんなものが。
うろついているのだろう。
ほんの少し前まで、あんなものは存在してはいなかった。
敵の攻撃を受け流し、敵を討つ。
相手が逃げれば押し、押してくれば持ちこたえるか、退き際を計る。
もちろん、指揮官の指示に従うのは当然のことだったが、実戦となれば、自分で自分を守ることが先決となる。
血に酔い、血気に逸り、敵を深追いしたあげくの返り討ちをどれほど見たことだろう。
最後の戦と噂されるこれに初陣で駆り出されて、はや幾月を迎えるのか、これまで生き延びてくることができた自身に、安堵の溜め息を吐いた。
その時だった。
「×××」
目の前を闇が覆ったとの錯覚があった。
鼻を射る異臭に目の前が瞬時眩む。
乱れた前髪の間から自分を凝視する燃える石炭めいた一対。
いつの間に。
思考は瞬時に凝りつく。
剣を抜くことはおろか、逃げることさえ忘れて、ただそれを見返していた。
視界の隅で、共に寝ずの番だった男が背を返すのを捉えて、膝が砕けた。
黒く尖った爪が頬をなぞり、大きく開かれたくちびるからこぼれ落ちた唾液が、首に巻いた布を濡らした。
「×××」
何か聞かれたような気がして、首を横に振る。
恐怖のあまり、涙がこぼれ落ちた。
逃げた男が味方を連れて戻ってきた時、そこに繰り広げられていた光景は、戦慣れした男たちをも恐怖で凍りつかせるほどのものだった。
兵士は鬼に暴行を受けていた。
既に虫の息の兵士の噛み破られた首から流れる血が、鬼のものをねじ込まれた箇所から流れる血が、地面を黒々と濡らしている。
鬼の目が、きろりと男たちへと向けられた。
口角が持ち上がってゆき、鬼の口から、兵士の血と肉片とがのぞく。
誰かがその場で嘔吐いた。
鬼が立ち上がる。
ぞろりと立ち上がった瞬間、玩具のように、兵士が音たてて地面に落ちる。
その音に、駆けつけた男たちの芯が、他愛無く砕けた。
どんな激しい戦闘でも退くことを知らない男たちが、鬼に背中を見せたのだ。
逃げゆく男たちの背中に、鬼の腕が、伸びる。
次々と引き倒され、喉頸を噛み破られる。
かろうじて抜刀して鬼に歯向かえた者は、鬼の腕の一振りで、驚愕のうちに命を落とした。
遠く、距離を測って弓を引いた者は、天下る雷檄にその身を焼かれた。
最初の兵士のように蹂躙されることはなかったが、どちらが幸いなのか、計れるものは存在しなかったろう。
翌朝、その酸鼻を極める光景に、攻め込んだ敵兵までもが恐怖におののいた。
何があったのか。
かろうじて息のあった敵兵の最期のことばから、彼らは鬼の存在を知ったのだ。
こうして、鬼の存在は、戦場にありながら、より以上の災厄と看做されたのである。
戦場をさまよい歩く鬼。
兵士たちも将軍たちも、その姿を見ただけで、戦の一時中止を命じる。
災厄と行き会った者たちは、息をひそめてそれが通り過ぎるのを待つのだ。
それよりほかに術はない。
何かを探す飢えた鬼に、人風情がいくら束になっても適わないことを、彼らは本能的に知っていた。
そう、いつしか、鬼が何かを探していることを、戦場にいるものたちは知るようになった。
それと同じく、不幸にも蹂躙されて殺された兵士の共通点も知れ渡った。
いずれも、十代半ばから二十代前半の褐色の髪と瞳の兵だった。
褐色の髪の兵たちは怯えたが、戦場から逃げ帰るわけにはゆかない。それは裏切りであり、軍規に抵触する。発見次第問答無用で首を落とされるだろう。
戦場に身を置く者であるからには、死は近しいものと覚悟を決めてはいる。
しかし、戦で命を落とすことと、蹂躙の末の死では、あまりにも意義が違いすぎる。
片や名誉の死であれば、残るは、矜持を砕かれての死に他ならない。
褐色の髪のまだ若い兵たちは、日々死を他の兵たちよりもより一層近しいものと感じながら過ごすことになったのだった。
戦はまだ続いている。
疲弊するのは、大地と人の両方だ。
巻き込まれる大地、そこに生きる生きとし生けるもの。
すべての悲鳴を飲み込んで、未だ戦の終わる気配はなかった。
月も星もない暗黒の夜、陣地を守る篝火以外に、明はない。
風は渺々と吹き荒び、篝火を煽る。
はためく篝火がひときわ大きくなって、歩哨を照らし出す。
その褐色の瞳は、夜ではないものに怯えていた。
彼の怯えるものが何なのか、知らないものはいない。それでも、彼もまた、兵士にほかならない。震える自分を叱咤して、夜の歩哨に立っている。
今にも災厄が現れるのではないか。
犯され喰らわれるのではないか。
苦悶のうめきを上げながら戦場に消えた仲間たちを思いながら、自分の運命はどうなるのか、不安でならなかった。
怯える心が災厄を招くのか。
気がつけば目の前に災厄が立っていた。
「×××」
ひび割れこもった声が耳にとどまる。
炯と光る瞳が、ぬめりを帯びる。
それは、飢えを満たす前の獣の目のようだった。
今目の前に迫った死を実感しながら、それでも、まだ若い兵士は、震える手で刀の柄に手をやった。
「×××」
ぞろりと頬を舐めあげられて、嫌悪に手が動く。
しかし、刀は抜けなかった。
味方の陣地を喰らい尽くそうとする炎に照らし出されるのは、異形の光景だった。
ひとならざる者たちが、現れ、そうして、踊る。
まるで、血に飽いた大地がそれらにひととは違う形を与えて生み出したかのような、異形の群れ。
死にゆこうとする兵士の霞んだ視界の先に、圧倒的な存在として現れた存在。
それが神なのか魔物なのか、彼にはわからなかった。
銀の髪に赤い瞳の、男の姿をした者が、鬼を彼から引きはがしたのだ。
「×××」
と、焦がれるかのように狂った熱をはらんだ声が、彼の耳を射抜く。
そのとき、ああ………と、彼は理解した。
鬼が求めていたものが何なのか。
鬼の飢えが満たされることはないだろうと。
鬼は鬼のまま、この先永劫を過ごすに違いない………………と。
そのまま目を閉じた兵士は、だから、知らない。
鬼を引きはがしたものが何なのか。
それが、鬼を見て、
『面白い』
と、つぶやいたことなど。
貴と呼ばれる異形を統べる存在が、鬼に己の血を与えたことを。
それを他の異形たちが羨望と飢渇のまなざしで凝視していたことを。
それが、鬼にどんな影響を及ぼすことになるのかを。
すべてを知ることのないまま、兵士は息を引き取った。
味方の陣は壊滅し、その名残の炎が消える頃には、すべての異形がこの地から姿を消してゆく。
後にはただ、くすぶる煙とあまたの屍だけが、累々と残された。
渺々と風が吹く。
災厄がこの地から消えたことを、まだ誰も知る者はいない。
しかし、災厄が消えたからといって、戦が終わったわけではない。
人間たちは、決着がつくまで、命のやり取りをつづけるのだ。
そうして、たまさか出現した鬼の存在は、ひとから容易く忘れ去られた。
一匹の鬼などより恐ろしい現実が、まだ終わるわけではないことを、ひとは知っていたのである。
渺と吹く風が、嗤うかのように夜の戦場を駆け抜けて行った。
簫将軍がいかにして『貴』となったかの小話。
でもって、『貴』シリーズの別の話に登場している貴が登場。とはいえ、別の話でも脇役です。最後の銀髪に赤い目の貴です。
少しでも楽しんで頂けると、嬉しいです。