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黎明の茶会 〜世界を救うのは、抜かずの刀ではなく、一杯の茶と一粒のショコラだった〜  作者: 七割カカオ


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諦念の賢者と真夜中のショコラ

魔界の最果て、琥珀の森。

外の世界から切り離され、千年の時を止めたその森の奥深くには、地図から消された『遺忘(いぼう)の図書室』があった。


「……退屈だ」


伝説の賢者エターナは、古びた魔導書の頁をめくりながら、独り言ちた。


彼女が溜息をつくと、主の気分に呼応するように図書室がかすかに脈動した。


重力を無視して宙を漂う書棚がゆっくりと旋回し、意志を持つ銀のインクで書かれたスクロールが、主の指先を求めて生き物のように身をよじる。


自走する梯子がカチカチと時計のような音を立てて壁を這い、誰もいない空間で魔法の灯火が明滅していた。

天窓から差し込む琥珀色の光が、彼女の髪を淡く縁取っている。


それは月の光を絹糸にして紡いだような、透き通るような銀髪だった。


背もたれの高い椅子から床へと零れ落ちるその長い髪は、彼女がめくる頁の音に合わせて、かすかな光の輪を揺らしている。


一見すれば、まだ十代の半ばにも満たない少女のようにも見える。

だが、人形のように整ったその横顔には、あまりに長い年月を通り過ぎてきた者だけが宿す、静謐(せいひつ)諦念(ていねん)が刻まれていた。


ハイエルフとしての類まれなる美貌は、どこか血の通わぬ半透明な静止画のようですらある。

魔導書を見つめるその双眸(そうぼう)は、凍てついた冬の湖のように深く、澄み渡っていた。


彼女にとって、食事はもはや生存のための効率的な作業でしかなかった。


かつて食べた贅沢な饗宴(きょうえん)………の味も、今では色褪せた古い記憶の断片に過ぎない。

味覚は、長すぎる時間の中で砂を噛むような無機質な感覚へと成り下がっていた。


千年生きた彼女にとって、世界はすでに読み終えた物語。

新しさも驚きも、そして空腹を満たす喜びさえも、とうの昔に失われていた。


その時だった。

――ドサッ、という鈍い音。

続いて、バリバリと強固な結界が砕け散る、耳を刺すような衝撃音が図書室の聖域を引き裂いた。


エターナが目を見開く。

ここは、かつての魔王さえも数百年かけて突破できなかった絶対不可侵の結界に守られているはず。


天窓の強化ガラスが粉々に砕け散り、埃と光の粒子にまみれて「それ」は落ちてきた。


「…いたたた。やっぱり入り方を間違ったか」


埃の中から、一人の青年がのっそりと立ち上がった。

エルム――と名乗るその青年は、服こそ煤けていたが、驚くべきことに擦り傷一つ負っていなかった。


上空数百メートルから、超高密度の防護結界を文字通り体一つでぶち抜いて墜落してきたのだ。常人であれば原子レベルで消滅していてもおかしくない衝撃である。


エターナは椅子に座ったまま、凝視した。

その容姿は、一見すればどこにでもいる穏やかな風貌だった。


しかし、整った眉の下にある黒い瞳は、深い森の奥にある泉のように底が見えず、澄み渡っている。

旅慣れた簡素な装いながら、その立ち姿には微かな揺らぎもなく、重力を感じさせない不思議な調和が宿っていた。


(すす)けた上着を払い、腰に差した黒檀の鞘の剣が無事であることを確認すると、彼は目の前に座る「生ける伝説」を前にして、あろうことか実直そのものの笑顔を浮かべた。


「…人間か?私の結界を突き破ったのは。さて、どう殺されたい?」


エターナの小さな指先には、一国を数秒で灰にするだけの魔力が集束し、空間がパチパチと悲鳴を上げる。

だが、エルムは怯えるどころか、むしろ感心したように周囲を見渡した。


「ああ、お騒がせしてすみません。こんな形で訪れるつもりは全くなかったんだ。


まあまあ、そんなに怒らないでよ。せっかくのいい天気なんだから、一緒に美味しいものでも食べない?」


不敵なまでの、自然体。

エターナの眉がピクリと動く。


世界中の王が跪き、震えながら言葉を紡ぐ自分に対し、この人間は、まるで気の置けない友人に話しかけるような軽やかさで接してくる。


エルムは慣れた手つきで、どこから取り出したのかも分からない小さな携帯用の火鉢を出し、手際よく湯を沸かし始めた。


そして、一粒の黒い宝石のようなショコラを、エターナの前の机に置く。


「 これ、僕の自信作なんだ。食べてみてよ」


「不敬だな、人間。…だが、毒味くらいはしてやろう」


エターナは、その漆黒の塊を小さな唇に運び、口に含んだ。

その瞬間――彼女の思考は、予期せぬ衝撃によって一時停止した。

(…っ!?)


冷え切っていた舌の上で、黒い宝石が体温を奪うようにして溶け出す。


最初に訪れたのは、目が覚めるようなカカオの芳醇な苦味。それはまるで、彼女が歩んできた千年の孤独のように深く、重い。


だが、そのすぐ後だった。

(…何だ、この、熱は)


暴力的なまでの、甘美な官能が脳を突き抜ける。

濃厚な生クリームと砂糖の調べが、凍てついていたはずの魔力回路を、なす術もなく蹂躙していく。


千年の歴史の中で、一度も味わったことのない、鮮烈な「生」の熱量。

砂のようだった彼女の世界に、一瞬にして極彩色の色彩が溢れ出した。


エターナは、自分が今、猛烈な幸福感に屈服させられていることを、屈辱と共に悟らざるを得なかった。


「…ふん。悪くない味だ」


現実に引き戻されたエターナは、頬にわずかな朱を差し、余裕たっぷりに鼻を鳴らした。

内側の嵐を悟られぬよう、精一杯の「賢者」を演じて。


「よかった。君みたいな綺麗な賢者様に喜んでもらえると、淹れ甲斐があるよ」


エルムは嬉しそうに言い、茶碗に琥珀色の液体を注いだ。

その所作は流れるように美しく、図書室の喧騒が嘘のように静まり返る。


そこには不思議な、神事のような静謐(せいひつ)さが漂っていた。


「…エルム、と言ったか。お前のような男が、なぜこんな地の果てを彷徨っている。力を望むなら、他を当たるがいい。私はもう、争いには飽きた」


エルムは茶碗を置き、エターナの瞳を真っ直ぐに見つめた。

今度は、一点の曇りもない、丁寧な敬語で。


「僕は、争いなんて一ミリも興味がないんです。ただ、誰もがのんびりとお茶を楽しめる世界を作りたい。本当に、それだけなんですよ」


「争いに興味がない、だと?」


「ええ。でも、それって案外、魔王を倒すよりも難しいことだと思いませんか?」


エルムは実直な微笑みを浮かべたまま、地平線を見つめるような遠い目をした。


その背後には、彼自身も無自覚な、世界を圧倒する「最強」の静寂が漂っていた。


エターナは、かつての師が遺した、ある奇妙な言葉を思い出していた。


『エターナ。真に強い者は、決して剣を抜かない。抜く必要がないんだよ。例えば、ただ一杯の茶を淹れるだけで、荒れ狂う嵐を鎮めてしまったりね。ハハハ。』


かつての彼女は、それを高尚な比喩か、あるいは老人の世迷言だと思い込み、鼻で笑っていた。


だが、今。

最強の結界を文字通り「体一つ」で粉砕する破壊力を持ちながら、茶を淹れるその指先には一点の震えも、殺意の揺らぎもない。


この矛盾した平穏を目の当たりにして、彼女は戦慄と共に理解した。

(え、何?こいつ、そのまんまなんですけど、、、師匠のあれは比喩じゃなかったの?!)


目の前の男は、文字通り「お茶を淹れるためだけ」に、神の領域にある自分の結界をゴミのように蹴散らしたのだ。


「…ふん。面白い。お前のその馬鹿げた『茶会』とやら、少しだけ見届けてやろうじゃないか」


これが、のちに『魔界維新』と呼ばれる、世界の形を根底から変える物語の、あまりに静かな第一歩であった。

初めての投稿をご覧いただきありがとうございます!


本作『黎明の茶会』は、最強でありながら「戦うこと」よりも「お茶を淹れること」に価値を見出す一人の自由人と、千年の孤独に飽き果てたハイエルフの賢者、そんな二人の静かな出会いから始まります。


第一話のサブタイトルは『諦念の賢者と真夜中のショコラ』。


エターナが口にしたあのショコラは、エルムがかつて大切な人から受け継いだ「誰かの心を溶かすための技術」の結晶でもあります。


彼がなぜこれほどまでに「食」や「お茶」に拘り、そしてなぜ図書室の結界を容易く抜けるほどの実力を持っているのか…。


その背景は、これからの旅の中で少しずつ明かされていくことでしょう。


本作では各エピソードのタイトルに、物語を象徴するお茶や菓子の名前を冠していく予定です。


今後も、彼らの旅先で出会う多様な「味」と、それによって解きほぐされていく人々の心の物語を、どうぞ温かい飲み物片手にお楽しみいただければ幸いです。


たくさんの方に読んでいただけると嬉しいです!

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