白と褐色のあいだ
本牧の海風には、どこか砂糖のように白い匂いがある、と初子はいつも思っていた。港に横付けされた外来船の甘ったるい塗料の香りと、夜ごと埠頭を歩く白人たちの体から立つ清らかな汗の匂いとが、湿った潮気とまじりあって、日本人の肌には到底馴染まぬ、異国の清潔を孕んでいるのだ。
その白さに惹かれているのは、港の女だけではない。本牧に暮す日本人なら、誰しも一度は心のどこかで彼らの「色」を気にしたはずだった。
けれども初子ほど、そこに深い劣等を感じるものは稀であろう。
初子の夫・セシルは、横浜生まれの白人であった。父は英国人、母はフランス人。金色の髪と灰色の眼を持つその姿を、初子は夫になってからもなお、どこか神棚の奥に祀りあげるように仰ぎ見ていた。
「――ほんとにまあ、西洋人と云ふ者はどうしてあんなに奇麗なのかしら?色が抜けるように白くつて、姿がよくつて、――私なんか耻ずかしくて側へも寄れやしない。」
そう零したのは、初子がまだ十七で、セシルに嫁いで間もない頃であった。
あれから十年。彼女の思いは、ますます深く、暗く、粘りつくように夫の白さへと沈みこんでいた。
そんな初子の前に、ある日、 ジャネット が現れた。
ジャネット。
金髪碧眼、白磁のような頸、そして肩先から腕へかけて、どこにも影を寄せつけぬほどの純白さを湛えた、アメリカの女であった。
初子は、初めて彼女を見た瞬間から、自分の身体の全てがいやにくすんで見えて仕方がなかった。
袖の先の黄味、首筋にまとわりつく褐色、そして指の甲に浮いた浅黒さ。それらがすべて「劣り」を告げる標であるかのように。
セシルがジャネットと親しくしはじめると、初子はむしろ安堵した。
なぜなら、日本人の女である自分が、白い夫を独占しているという状況そのものが、彼女の胸に耐えがたい罪悪のように疼いていたからである。
そして初子は、静かに覚悟を固めた。
「捨てられたら私、外に行く所はないんだし……だから、臺所の隅にでも置いて貰つて、コツクにでもアマさんにでも使つて貰ふからいゝ。私なんぞにゃ其の方が相當してゐるんだから。」
それは、涙ぐましい卑屈ではなく、むしろ彼女にとってのある種の救いであった。
白人の夫と白人の女、その二人の純白を近くで仰ぎ見ながら、影のように仕えること――それこそが、自分に与えられた最上の幸福なのだ、と初子は信じていた。
本牧の夜は、灯の具合によっては、白人の肌の白さがいっそう際立つ。
月光の下で見るジャネットは、初子からすれば、まるで神の女像のようであった。
その夜、初子は台所の小窓から、二人が客間で並んで腰かけているのを見た。
セシルの横顔には日本語教師としての若々しい誠実さが漂っていたが、ジャネットの頰に近づくたび、初子の胸はざわめいた。
ジャネットが匙を持つ指先は、蝋細工のように透きとおり、
ふと笑ったときに覗く歯は、白百合の花弁と見まがうほど明るかった。
――ああ、なんという白さなのだろう。
――あれが私の主となる人。
――あの人の下へ、私は身を沈めるのだ。
初子は、ジャネットが夫を奪うのではなく、むしろ「自分から夫を差し出したい」と思った。
そのほうが、世界の秩序が正しく修復されるように思えたのである。
白と褐色のあいだの、どうしようもない断絶。
その断絶に身を投げだしたとき、初子は初めて、自分が世界の正しい場所へ戻ってゆく気がした。
ある雨の晩、セシルが仕事で外出していると知ったジャネットが、初子に声をかけてきた。
「ハツコ、セシルは、あなたのことをどう扱っているの?」
その日本語はたどたどしかったが、声には澄んだ威厳があった。
初子は、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと答えた。
「――私は……あの方の妻ではありますけれど……本当は、私なんかの手に負えるお方ではございません。
あなたさまのようなお人が……」
「わたし?」ジャネットは目を丸くした。
「でも、あなたはセシルの妻でしょう?」
「でも……あなたさまは、私よりずっと……白くて、綺麗で……」
初子はそこまで言ったとき、胸の奥に溜めていたものが決壊したように涙が溢れた。
「私なんか、あの方の隣に立つのも恥ずかしいんです。
あなたさまとお二人で、どうぞ……」
ジャネットは初子を抱きしめようとして、しかし躊躇し、手を胸の前で組んだ。
「ハツコ……あなたは、とても……優しい」
「いいえ……私はただ、分を弁えているだけでございます」
ジャネットはしばらく考え込むように初子を見つめた。
「じゃあ……わたしがセシルと結ばれても、あなたは、ここにいてくれるの?」
その問いに、初子は、どこかうっとりとした声で答えた。
「はい。どうか……私を……おそばで使ってくださいまし。
私はあなたさまの白さを仰いで暮らすだけで、もう……」
その後、セシルの心は確かにジャネットへ傾いていった。
けれども初子は恨むどころか、むしろその恋の進展に胸を躍らせた。
台所で二人の食事を用意しながら、初子は自分の手が少し褐色であることを、慈しむように眺めた。
――これが私の役目の色。
――影の色は、光のそばにあるためにこそ存在する。
初子には、陰翳の奥に沈む自分の肌の褐色が、ようやく「相応しい」ものとして見えはじめていた。
白さは神聖で、褐色はそれに仕える影。
その秩序が整った世界で、初子の魂はようやく落ち着くべき場所を見つけたのである。
夏の終わり、三人が本牧の丘を散歩していたとき、風が三人の衣服を揺らした。
夕暮れの陽に照らされた初子の肌には深い影が落ち、ジャネットの白さは逆に輝きを増した。
セシルがふと振り返って笑うと、初子は胸の奥でそっと呟いた。
――この白さに仕えることこそ、私の幸福。
これからの初子は、夫とその恋人の「影」として生きる。
それは、敗北でも屈辱でもなく、
むしろ、世界が本来あるべき姿へ戻る、その浄化のようなものだった。
白いふたりと、褐色のひとり。
本牧の風は、三人のあいだを静かに吹き抜けていった。




