六時のねぼすけ 第一話
ヒトモシの乗った短針が第六区画に差しかかる。「六時のねぼすけ」の大いびきはまだ聞こえてこない。ヒトモシは冷えた指先を水筒のふたに入れたコーヒーであたためながら、短針が第六区画の管理者の家に着くのを待った。
第六区画の街のあちこちで、煙突から煙があがっている。おそらくかまどに火を入れたのだろう。ヒトモシは「五時のおっかさん」を思い出しながら、第六区画の人々のおだやかな暮らしをながめた。そうして、ヒトモシの母がたまに作ってくれたパウンドケーキの味を思い出した。
芳醇なバターの香りがして、中にはドライフルーツが入っている。表面が少しさっくりとしているあのパウンドケーキを食べることは、もうできない。ヒトモシの母はすでに亡くなっているから、作り方がわからないのだ。「三時のパティシエール」のケーキは確かに美味しいけれど、ヒトモシの母が作っていたパウンドケーキは家庭の素朴な味であり、また別物だった。
母が亡くなる前にレシピを教えてもらっておけばよかったかなと、ヒトモシは後悔する。他にもヒトモシの好きな食べ物は色々とあるが、母の料理となると、再現することが難しかった。美味しいものなら第十二区画にあるレストランに行けば食べられるが、「三時のパティシエール」の作るケーキと同じで、母の味とは違う。かつて母に買い物を頼まれることはあったから、おおよその材料ならわかりはするが、どのメニューにどんな調味料を使うかとなると、見当がつかない。
ヒトモシの思案を破ったのは「六時のねぼすけ」の大いびきだった。第六区画の足場が近づいてきたのに気づいて、ヒトモシは短針見張り台にある開閉式の手すりを開いた。小走りに足場に渡って、そのままの勢いで小塔の火を吹き消す。第六区画の管理者に一声かけたいところだが「六時のねぼすけ」は相変わらず大いびきをかいているから、声をかけるのがはばかられた。
扉を小さくノックして開けると、テーブルに手紙が置いてあるのに気づいた。封筒には『ヒトモシへ』と書いてあるが、勝手に読んでいいものだろうか。「六時のねぼすけ」が寝ている以上、確認することもできない。ヒトモシは自分のカバンからメモ用紙を取り出すと「読んでもいいなら、このメモに返信をお願いします。もし読んでも構わないなら、次に来たときに読みます」と書き残して部屋を出た。
短針の見張り台に戻ったヒトモシは第六区画をぼんやりとながめる。早くから仕事に向かう勤め人たちが往来を早足で進んでいく。だんだんと小さくなっていく人々を横目に、ヒトモシは「六時のねぼすけ」とのことを思い出した。
ヒトモシは「六時のねぼすけ」とほとんど話したことがない。ヒトモシがこの仕事についたときには「六時のねぼすけ」はすでに第六区画の管理者だったし、大いびきをかいて寝ているのも同じだった。
各区画の管理者たちはその区画の中で暮らしていて、ヒトモシが来る時間には小塔のある建物近くにいることというルールがあるようだ。それ以外はどういう暮らしをしていても構わないから「三時のパティシエール」のように店を構えている者もいる。「十二時のシェフ」などもその一人だ。管理者といっても小塔の管理をするだけで、その区画での諸々を差配しなくてはいけないといった決まりはない。おそらく古い時代、各区画の管理者たちは火の番をしていたのだろう。「六時のねぼすけ」に至っては、小塔を本当に管理しているのかどうかすらあやしいけれど。