四時のご令嬢 第一話
第四区画が近づいてくるにつれて、ヒトモシは時計の短針の上でそわそわした。短針の先には帆船のマストの見張り台にも似た足場がある。ヒトモシは立ち上がって服についた煙草のにおいを手で払い除け、ケーキが入ったカゴの持ち手を握りしめた。
「四時の君」はもう起きているだろうか。もしも眠っているようなら、保冷庫にケーキを入れて、メモでも残していこう。「四時の君」の寝顔を見たい気持ちはあるけれど、あまりじろじろ見るのもよろしくない。もしも布団や毛布がずれているようなら、かけ直す程度にしておこう。
ヒトモシは自分が柄にもなく浮かれていることに気がついて一人赤面し、ため息をついた。冬の冷たい空気に白い息がふわりと流れていくのが、タンポポの綿毛のようだ。
第四区画のアーチ状の窓とバルコニーが見えたとき、ヒトモシは一足早く見張り台の手すりを開いた。そうして「三時のパティシエール」から預かったカゴを極力揺らさないように、第四区画のバルコニーに飛び移った。
まだ朝の四時である。第四区画で眠る人々を靴音で起こさないよう、ヒトモシはひそやかな早足でバルコニーを進み、小塔の火をふっと消した。石造りのアーチ状の窓をくぐる。
「お疲れさま、ヒトモシ」
「四時の君」は早起きだ。ヒトモシが「三時のパティシエール」から預かった新作のケーキを渡すと「四時の君」は読んでいた本を閉じて、ゆっくりと立ち上がった。
「『三時のパティシエール』から、新作ケーキの味見を頼まれた」
「いつも悪いわね。今日は珍しいケーキのレシピはないの。『三時のパティシエール』のお役に立てればよかったのだけれど」
「伝えておく」
「ありがとう」
ヒトモシは靴を脱いで「四時の君」と同じスリッパに履き替えた。手近な椅子に座って、「四時の君」が灯していたランプのしぼりをそっとひねった。しぼりを開くと黄身がかったやわらかな光が広がって、上品な色合いの影がテーブルの上に落ちる。ステンドグラスのようなガラス製のかさの色だ。しぼりを閉めると天井からの照明の色に変わった。
「四時の君」の部屋には上品な調度品がいろいろとあり、ヒトモシの素朴な部屋とは大違いだ。自分が「四時の君」と特別な関係にあることを、ヒトモシはときどきふしぎに思う。ヒトモシの仕事をしていなければ、決して会うこともなかっただろう。
キッチンから湿気を含んだあたたかな気配が漂ってくる。少ししてから「四時の君」がコーヒーの入ったカップを二つと、ケーキを乗せたトレイを持って帰ってきた。
「お待たせ。いただきましょう」
長く使い込まれて飴色になったテーブルの天板にカップとケーキを移すと「四時の君」は愛用している猫脚の椅子をひいた。
「今日はどんなことがあったの?」
「特には変わりないよ。『三時のパティシエール』と『十一時の天文学者』が別れた話くらいかな」
「まあ。それは残念ね」
「『十一時の天文学者』は少し嫉妬深くなっていたから……。『三時のパティシエール』と話しただろうって俺も責められたことがある」
「仕事だもの、話すわよね」
「そうだね。『十一時の天文学者』と『三時のパティシエール』が会えていれば、あんなに彼が嫉妬深くなることもなかったのかもしれない」