三時のパティシエール 第二話
ヒトモシはあさっての方向へ視線を向けて「四時の君」のさまざまな姿を脳裏に思い浮かべてみるが、記憶の中にいる彼女はいつも微笑を絶やさなかった。実際にそんなことはないはずなのに、ヒトモシの記憶には「四時の君」の微笑が強く残っているのだろう。彼女の部屋にある猫脚の椅子が、もう何年もしなやかで力強いのに似ている。
心ここにあらずといった様子のヒトモシを見て、「三時のパティシエール」は白い調理服の襟元をゆるめながら、屈託なく笑った。笑うと目元にしわができて、目の下のくまが目立つ。笑っていると年相応……三十代前半くらいだろうか……に見えた。
「やせ我慢をお墓に入るまで延々とつづけられるならね。他人を大切にするのも、ほどほどにしておきなさい。いつか、自分が我慢した分、我慢しない相手に腹が立つから」
ヒトモシは肩をすくめてみせる。「三時のパティシエール」は一般論めかして言うが、それを本当に伝えたいのは「十一時の天文学者」なのではないか。彼女たちが別れた原因は一体何だったのだろう。
愚にもつかない疑問が一瞬ヒトモシの頭をよぎったが、夜更けに恋の話をすると長くなるものだ。終わった恋の話を長々と聞かされてはたまらない。
「十一時の天文学者」は刻一刻と変化する星の高さや方角を知るのは得意なのに、日々の生活のこととなるとからきしで、だらしがない。生活全般に細かなこだわりのある「三時のパティシエール」が世話をやくことで成り立っていた関係が、何かをきっかけに壊れたのだろう。区画の管理者たちは実際に会うことができないから、口うるさいと感じたのかもしれない。
好きでいたときには許せたことが、ある日を境に急に許せなくなる。他人から見ればささいなきっかけでも、当人の感じ方でオセロゲームのように変わってしまう。
「俺に頼みたいことっていうのは、愚痴を聞かせること?」
「ああ、ごめんなさい。お節介のつもりだったのよ。『四時の君』に新作のケーキを届けて欲しいんだけれど、頼める?」
「もちろん」
三匹のクマの館に戻った「三時のパティシエール」は、ヒトモシにケーキの入ったカゴを手渡した。
「ヒトモシの分もあるから一緒に食べて。感想を聞かせてね」
「ありがとう」
「じゃあね。『四時の君』によろしく」
かさついた手をひらひらと振った「三時のパティシエール」の頭から、ヒトモシはコック帽をひょいと奪って投げ返す。
「もう寝ろよ。俺がここに来るってことは、深夜三時ってことだ」
「そうね。おやすみ」
ヒトモシはケーキの入ったカゴを振り回さないように気をつけながら、蔦の絡んだレンガ造りの階段を駆け上がった。夜の空気がじんわりと肺に忍び込んでくるようだ。レンガの隙間に生えた銀色のふさふさした苔が「三匹のクマの館」の光を浴びて輝いていた。
ゆっくりと動く時計の短針に乗ると、ヒトモシは来たときと同じように、声には出さず、唇の形だけで「おやすみ」と「三時のパティシエール」に伝えた。深夜三時の街並みはとても静かで、ささいな話し声でさえもことさら大きく聞こえてしまう。
ヒトモシの乗り込んだ短針が小塔の前を通ったとき、彼はひんやりとしたレンガ造りの外壁に手を当て、ふっと炎に息を吹きかけた。ヒトモシは結露でしっとりとした手をズボンでぬぐうと、短針の見張り台に腰を下ろした。
そうして、もう何千回とくり返されてきたヒトモシの仕事に、意味があるのだろうかと考えた。たとえ意味がなくとも、ヒトモシの仕事を必要とする人がいる以上、この作業はつづくのだろう。