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人形は狐少女と今日も踊る。  作者: ぬけがら。
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2


 獣耳の子供に警戒されっぱなしだった私はこの家に何があるのか再度確認することにした。


 地下には人形と台座以外に何もないことはわかっていたため除外する。

 まずはリビングとも言えるこの部屋。簡易なベッドにシーツと枕、申し訳程度のブランケット。あとは丈夫な造りの机と椅子が一組のみ。幼子の言葉からしてここは誰か別の人間が所有する家なのだろう。一人で住んでいるのだろうか。家主が帰ってきてしまえば追い出されるだろうか。私の存在は空き巣と認定されるのか、人形が動いたと驚かれるのか不明だが。

 少なくともこの子供は勝手に入っているらしいが、こんな幼い子供に暴力で対応する家主でないことを願う。


 それ以外に目につくのはクローゼットのような収納スペース。開けてみれば箪笥のような木の箱の中に服やら布やらが畳んで収まっている。ひらひらとした布が多く、それだけでは性別がどちらかすらわからなかったが、少なくとも人型が身に着ける服であるらしい。

 わざわざそんなところに思考を回さなければいけない状況に辟易とする。現に目の前に獣耳と尻尾を生やした謎の生き物が居るのだ。可能性だけならなんとでも言えた。他にはモップや雑巾のようなもの。

 続いて狭い空間。恐らく風呂やトイレの類だろうと当たりをつける。もしかしたら洗濯部屋なんてこともあり得る。人間の暮らしはそう大きく変わるものでもないだろう。家に必要なものを考えれば、その辺りが妥当であった。

 であれば、このよくわからない壁に埋め込まれたものも何かしらの意味があるのだろう。薄水色に反射する石が特徴的だ。しばらく観察しては、それに触れてみた。


 …何も起こらない。まあ、それはそうかと押したり小突いたり試してみたが、何が起こるというわけでもなく。床に置かれた桶に手を伸ばした。

 木の桶は大きく、ひっくり返っている。試しに持ち上げてみると中に洗濯板のようなものと石鹸のようなものが確認できた。やはり予想と大きく外れない、浴室のようなものなのだろう。謎の道具はわからなかったが、一つ納得して部屋を出る。

 次は炊事場のような部屋。ここはある程度確認済み。金属でできた丈夫そうな調理器具と木の皿やらスプーンやフォーク。目を引くのは壁に掛けられた道具。二つあって、そのどちらもに赤い石がはめ込まれている。

 形は少し似ているだろうか。何と表現すればいいのかわからない筒と丸を組み合わせた不思議なものであった。後は先ほどの浴室のような場所にあったものと似た何か。恐らく水回りに関係するものだとは思う。触れてもうんともすんとも言わないが。

 奥の勝手口から外に出れば、そこには薪と斧くらい。となれば、やはりあの赤い石がはめ込まれた道具は火起こしにでも使うのかもしれない。


 幼子の様子に再びの部屋巡りをしてみたものの、広い家でもない。すぐにやることがなくなってしまった。一応この家で目覚めたため、ここは少なくとも人形に関係する誰かが住んでいるのだろう。早く帰ってこないかという気持ちと、危険な人物でないだろうかという不安が合わさって、会いたいような会いたくないような。少なくとも子供を問答無用で害するようでなければいいがと何度目になるかわからない思考を巡らせる。

 気を紛らわせようと斧を手に取って、薪割りの真似事をする。斧は中々出来のよさそうな丈夫な造りをしていた。人形の細い腕では片手で持ち上げるには厳しいかと思ったが、すんなり持ち上がった。薪を立てかけて振り下ろす。俯瞰的に見ているからか、スコンと、それは綺麗に中心から薪が割れた。


 疲れるなんてものとは無縁になった私は気付けばすっかり陽が昇りきるまで薪を割り続けていた。いつの間にか出てきて傍にちょこんと座っている子供を刺激しないように薪にだけ集中していたため時間間隔がくるってしまっていたらしい。お昼かそれを少し過ぎた時間帯であった。

「…」

「ど、どうしました?」

 薪を割る手を止めれば、すかさず子供が聞いてきた。先ほどまでの怯えが多少マシになっただろうか。私がそう思いたいだけかもしれない。

 今朝口にした実を複数摘んでは、子の元に運ぶ。それで伝わったのか、恐る恐るそれを手に取った。

「食べて、いいんですか?」

「…」

 頷いて返せば、何度も人形を気にしながら一口口にした。じっと見ていては気が散るだろうと薪を割る作業に戻る。

 

 スコン、スコン。


 長閑な時間であった。薪を割る人形と、それを横目に果物を食べる子供。私は一体何をしているのだろうとも思わないではなかったが、悪くない。何もわからない現状に目を瞑れば心地よい瞬間であることに変わりはない。

 空を飛ぶ鳥やら、森を照らす太陽に、時折視界を伸ばしつつ、時間はゆっくりと過ぎていく。


 そこでふと過ったのは、水分補給についてだった。瑞々しい野菜なのか果物なのかを口にしているとはいえ、水は飲みたいだろう。もはや感覚が消失した自分にとっては、それに気付いただけで偉いと褒めてやりたい気付きだった。

 近くに川でも流れていないだろうか。そうすれば火を起こして煮沸すれば飲めなくはないだろう。いや、そもそもどうやって火を起こすか。

 そこで浮かんだのはあの石が嵌った道具たち。どういう原理で動くのか、そもそも動くようにできているのかすら疑問なものであったが、試してみたいことが浮かんだ。人間とは火と共に進化してきた生物である。キッチンらしき場所にある謎の道具。そこには火起こしに役立ちそうな道具が見当たらないときた。

「…」

「お家に、戻るんです?」

 視線を投げかけて家に向かえば、伝わってくれた。言葉を紡げないのがもどかしい。

 家に入って道具を子供に手渡す。首を傾げたまま恐る恐る受け取ってくれた。その様子からして彼女もこの道具が何なのかわかっていないらしい。

「あの、これは?」

「…」

 こちらもよくわかっていない。一つ、この道具は人形であるから反応しないのかと考えたのだ。もしかすれば人間が触れれば何か変わるかもしれないというただの思い付きであった。赤みがかった石の部分に触れさせようと人形に指を指させる。


 子供が触れた瞬間、ボッと、思ったより勢いよく火が噴き出した。ライターよりは大きい火柱だった。ガスバーナーに似た勢いで天井に向けて立ち昇った。心臓が凍った。

 運よく彼女は火が出る方を自分に向けていなかったものの、一歩間違えれば大火傷であった。よくわからない道具から火が出たという不思議よりも、恐怖のほうが大きかった。

 彼女も予想外だったのだろう。びっくりした様子でそれを手放した。火が木の床に当たると慌てたが、彼女の手を離れた瞬間に収まった。どうやら石の部分に触れている間のみ火が出る仕組みらしい。まるで魔法であった。

「ご、ごめんなさい…」

「…」

 自分が何かとんでもないことをしてしまったと一瞬の間で思い至ったらしい。彼女は過剰なまでに謝り続けた。地面に這いつくばるように小さくその身を丸めた。腕を振ってみたり、首を振ったり、謝るのを止めさせようとしたが、これでは怒っているようにも見えるなと途中で思った。怒っていないと伝える口が欲しかった。

 とりあえずその小さな身体に手を置いて身体を起こさせる。恐怖の表情を浮かべる子に胸が痛んだ。何が彼女を怖がらせるかわからない。もっと慎重に接さねばならない。

「…」

「…お、怒らないんですか?」

「…」

 何度も頷いて見せれば、ようやくその強張りもほぐれた。

 嫌なことを思い出させないうちに次の道具に目を向ける。

 それは蛇口のような根元に埋め込まれた薄水色の石。これらはボタンのような役割があるのだろう。どういうわけか人形の身体では反応しないらしいため、彼女に触れさせるほかない。

 先ほどの火が上がった経験を糧に、何が起こってもいいように気を引き締める。


 それは台座のような、見ようによっては洗面台と言えた。予想が正しければ水でも出るのではなかろうか。子供の身体にはいくらか高いため、そのままでは石に手が届きそうにない。

 子供の脇を抱えていつでも離脱できるように重心を後ろに傾ける。彼女は目を回しながらもされるがままだった。突然抱きかかえられて何が何だかといった混乱の極みにいるようである。

「あ、あのっ、な、なにを?!」

「…」

 小さな身体に力が入っているのがわかった。怖がらせないようゆっくりと身体に触れるように意識していたが、まさかそれが持ち上げるためだとは思いもしなかったらしい。一先ず持ち上げてしまった手前彼女には危険がないことを伝えなければとゆっくりと揺らす。


 小さな身体だった。歳は三、四歳ほどだろうか。その身体の細さと飛び出る言葉からして、もしかしたらもう少し上かもしれない。そんなことを思いつつ、両腕にその子を抱えて揺らす。大きなものに揺らされるのは安心するのではなかろうかと、それは赤子に限るかもしれないなどと浮かびつつ、ゆらゆらとその子の身を揺らした。まるで踊っているようにも見えた。

 その行動は子を落ち着かせるのに大きく外れてはいなかったようで、最初はおっかなびっくりといった様子で強張っていた身体からも多少力が抜けて、次第にその目がゆっくりと閉じられていった。そういえば先ほど食べたばかりだったと思い起こして、不思議な道具の実験は後でもできるだろうと彼女をベッドに横たえる。

 眠っている顔は子供らしく、気の抜けたものであった。できれば起きている際にもこの表情で居てもらいたいものである。



 さて、やることのなくなった私は部屋の中は調べ尽くしたため、外に足を向けた。もしあの道具が予想通りのものであり水が用意できれば必要ないかもしれないが、火を起こせることはわかったのである。鍋を片手に水源を探そうと足を踏み出した。

 周りは自然豊かな森である。見たことのあるようなないようなわからない木々の間を進む。虫やら小動物やらが確認できた。

 鳥やらリスやらと言った見覚えのある形をしているものの、そのどれもが初めて見る種であり、現実を突き付けてくる。ここがどこか異国の地であるとか、そういう希望的観測はできなかった。


 しばらく歩けば、近くに綺麗な湖を発見した。少し観察しただけでも自然豊かに様々な魚が泳いでいる。それが確認できるほどに綺麗な水質をしていた。

 水を汲んで、少し考える。

 植物だけではあの細っこい身体に栄養が足りないのではないだろうか。

 幸いにも湖には魚が泳いでいる。家にはナイフなんかも確認できたし、捌くこともできるのではなかろうか。問題はどうやって捕まえるか。

 そこで浮かぶのは腕から射出されるワイヤー。刃先をどうにかすれば釣りもできるのではなかろうか。


 早速適当に射出して刃先を弄る。ただ、造りがよくわからない。まるで刃と糸が一体化しているかのようで、取り外すには壊すほかなさそうであった。指先ほどの小ぶりなナイフが返しのようにギザギザと波打っている。ナイフというよりは矢尻のような造りであった。真っ黒の金属が何なのかわからない。ただ、どれだけ手を尽くしても壊れる気配がなかった。そもそもこのワイヤーフックのようなものはどういう理屈で刃先が変形するのだろう。人形の身体を操作してみれば、刃先は不思議なことに折りたたまれ、返しがなくなる。カラクリ、なのだろうか。私にはそうは思えなかった。


 早々に考えることを諦め、魚を捕ることに意識を割くことにした。釣り針にしては先が大きすぎるため、釣りには使えそうにない。であれば、新しく釣り竿を作るのがいいだろうか。網でもいいかもしれない。

 そう考えたものの、ここは森の中である。そんな都合よく道具になりそうなものもない。蔦は確認できたものの、こんなもの垂らして魚が食いつくだろうか。

 物は試しと蔦を湖に向かって放る。想像通りというか、数分待っても魚が食いつくはずもなかった。

 蔦で網でも作っておくのが一番妥当だろうか。網の作り方なんて知らないが。少なくとも今後の方針として掲げるくらいが関の山だろう。


 最後に、悪あがきの発想で水面に腕を向ける。手首辺りから刃が射出される。なかなかの速度であった。水飛沫も小さく、魚は逃げられなかった。


「…」

 手にした大ぶりな魚に何とも言えない気持ちになる。こんなに簡単に捕れるものだろうか。些かうまくいきすぎている気もしないではなかったが、悪いことではない。私は水を汲んだ鍋と血抜きをした魚とを両手に帰路につく。



「どこいってたんです?!」

「…」

 帰宅してすぐ、子供の泣き声に嫌な予感を感じて急いで扉を開け放てば、ベッドの上で丸まってめそめそと涙を溢しているのを発見した。

 人形を確認するなり駆け寄って、少し大きな声で詰められた。今までの様子からは意外な言動に少し戸惑う。まだ眠っているかと思っていたが、魚を捕るのに思ったより時間がかかっていたらしい。確かに陽は思ったより傾いていた。

 頭を下げて謝罪を示せば、彼女は私の両手のものに注目した。

「…それ、なんです?」

「…」

 泣き腫らした子を見て、昼は野菜だけだったことだし、小腹が空いただろうとそのまま魚を捌くことにした。魚の捌き方なんて詳しくなかったが、この俯瞰的な視界は魚捌きにも大いに役立った。

 少し身を削り過ぎた魚が三枚におろされ、初めてにしては我ながらいい出来ではないかと自画自賛する。子供は人形の後ろで興味深そうに魚を見つめていた。


「…」

「こ、これをまたです?」

 捌き終えた魚をまさか生で食べる訳にもいかない。勝手口から外に出て、薪をセットしてから彼女に火が出る道具を手渡せば、思い出したように怖がり始めた。

 火が出る位置も火力も経験済みである。何よりここは外であるし、水もある。渋った様子で悩んでいた彼女だったが、なんとか火を起こすことに協力してくれた。

「いきます」

 ボウッと、火が噴き出しては薪に直撃する、よく乾いた薪だったらしく、すぐに赤く色づいた。

 この分では種火なんかも要らなそうである。それほどに火力が高い。よく家を燃やさなかったと改めて昼の出来事に胸を撫でおろす想いだった。


 この家には網やら鉄板やらも完備されていて、まるでキャンプのような料理場であった。家主はアウトドア派なのかもしれない。簡易な道具を組み立てれば魚を焼くくらいはすぐにできた。それにしてもいつ帰ってくるんだろうか。

「食べていいんです?」

「…」

 少し焦げたものの、しっかり火の通った魚に危険は少ないだろうと思いながらも、身振りを加えて一口吐き出させるように伝えれば、なんとなく今までのやり取りを理解してくれたのか、口に手を突っ込まずともその通りにしてくれた。

「…これは、なにをしてるんです?」

「…」

 人形にお腹が痛くて転げるようなジェスチャーをさせれば、わかってくれたらしい。本当だったら丸ごと焼き魚にして齧り付きたいものの、慣れない魚を捌く工程を挟んでまで内臓なんかも取り除いているのである。用心できることはするに越したことはない。そもそも齧り付く口もないとは考えないことにした。

 問題なさそうなことを確認しては、すっかり冷めた魚の切り身に再度火を通して子供の前に並べる。

「こんなに、いいんです?」

「…」

 恐る恐るとフォークを突き刺して口に運ぶ子供。なんともわんぱくな食べ方であった。味付けも何もしていない魚であったが、十分においしいらしい。柔らかい表情で頬を膨らませていた。


 煮沸した水を飲ませたり、付け合わせに野菜を運んだりしながら、時間が過ぎる。こんなに喜んでくれるのであればまた魚を捕りに行こうと思えた。子供の体格からして厳しそうな量もすべて丸っとお腹に収まった。ポッコリと浮いたお腹が可愛らしかった。

 それが分かるくらい粗末な布切れを着ている。汚れが目立つし、未だに靴もない。

 少し危険だが、道中何もなかった実績もある。湖まで行って身体を洗うくらいはした方がいいかもしれない。傷が膿んでからでは遅いだろう。

「わ、わっ」

「…」

 ジェスチャーで運ぶことを告げて持ち上げたものの、おっかなびっくりと目を丸くしていた。最初に持ち上げた時よりも幾らかリラックスしているように思えたのは願望だろうか。


 そのまま湖まで向かう。歩いて数分の距離。ここの家主は湖の位置を見て家を建てたのだろうか。

「わぁ、きれい」

「…」

 キラキラと目を輝かせては湖を観察する子供の様子にしばらく放っておくことにした。服は用意しているし、恐らくバスタオルの類であろう布も持ってきている。石鹸は用途不明だったため今回は見送った。もしも身体に害があるものであったら大変だ。家主には申し訳ないが、勝手に拝借させてもらった。

 一通り楽しそうに湖を眺めていた彼女だったが、人形の持ち物を見てなんとなく察しはついているらしい。いそいそと服を脱ぎ始めた。食べたばかりでぷっくりと膨らんだお腹が可愛らしいが、それ以外は怒りが沸いてくるほどに、身体中痣だらけであった。紫に変色した肩や脚が痛々しい。この子を守らなければと思った。

「うぅ、つめたい」

「…」

 くるりと振り返って躊躇なく湖に身体を沈めた彼女のお尻から生えた尻尾が縮こまる。黒ずんでいた毛が少しずつ色を取り戻しながら、湖を汚す。あまり長い時間を掛けては風邪を引いてしまうかもしれないと、少々強引に髪やら尻尾やらを洗う。今後はお湯を用意しようと考えながら。

 汚れは完全には落ちなかったが、これ以上は風邪を引いてしまうだろうと引き上げた。少し唇が紫色に変色していた。栄養状態もあまりよさそうに見えないし、今は春のような涼しい気温なのかもしれない。

 しっかりと布で身体の水気を拭きとる。されるがままの子がかわいかった。怖がる様子を感じなかったからそういうふうに思えたのかもしれない。

 すぐに抱きかかえて家に走る。なるべく揺らさないように気を付けた。



 焚火を用意して囲む。震えていた身体も多少落ち着いたらしい。煮沸した白湯を飲むよう勧めれば、落ち着いた表情で飲み始めた。

 だぼだぼの服に身を包んだ彼女は眠そうに目をこすっている。ここの家主は服の大きさ的に成人女性か、小柄な男性なのだろう。紐で括って丈は何とか合わせたものの、それでも大きかった。

 温めるために抱きかかえていた子が遂に目を閉じた。人形の身体に熱があるかは疑問だったが。

 そのまま起こさないよう本日二度目のベッドへ運んだ。子供らしくよく食べてよく寝る子だった。

 あまり遠くに移動してはまた泣かれるかもしれない。そういえば道具の実験もできなかったなどと思いながら、家の外周をぐるりと一周する。

「…」

 そこで見つけたのはドラム缶のような大きな入れ物であった。いや、風呂について考えていたためにそう見えただけで、ただの大きな入れ物であった。でも確かに風呂に使うものらしい。桶やら水をはじきそうな布やらが確認できた。石鹸もある。

 ちゃんと風呂があったらしい。丁度家の裏側にあったため気付かなかった。であれば、あんな寒い想いをさせないで済んだと自分の詰めの甘さに辟易とした。

 だいぶ良くなったとはいえ、まだ汚れは落ち切っていない。彼女が起きるまでにお湯を用意しようと湖と家との往復が始まるのだった。



「あったかい」

「…」

 夜。あの後ぐっすり眠っていた彼女が起きたのは陽も暮れた頃だった。

 水で満たした入れ物に下から当たる火を注視しながら彼女の言葉に反応する。

「お兄ちゃんは、しゃべれない?」

「…」

 こくこくと頷く。

「お名前はなんていうんだろ」

「…」

「あ、わたしはリル、五才」

 この子の名前はリルというらしい。五歳にしては身体が小さく見える。

 それにしても、起きてから慣れない敬語はやめたらしい。子供らしい言葉遣いであった。それはきっといいことなのだろうと思う。

「お兄ちゃんのお名前は…わかんないよね」

 お名前考えてあげるねと、うんうん唸った。結局いいものが思いつかなかったらしい。名前は後日に持ち越しとなった。

「…お兄ちゃんは、ほかの人とはぜんぜんちがうね」

「…」

「…ぶたないし、ごはんもたくさん食べさせてくれる

 お風呂にも」

「…」

 どういう生活をしてきたのかはなんとなく想像がついた。それは身体の痣だけじゃなく、リルの立ち振る舞いからも見て取れた。常に何かに怯える瞳。

 何かを間違えると暴力を振るわれていたのだろう。過剰に人形の機嫌を伺うような目。子供のくせにすましたような敬語が苦手だった。

 彼女の中で何が大きな理由かはわからなかったが、今は子供らしい様子に喜ぶばかりである。

「だから、私、これが夢なんじゃないかって、起きるのがすごく怖かった」

「…」

 ぼけっと夜空を見上げながら溶けたように言う。だからあの時あんなに泣いていたのかと、魚を捕って帰った時のことを思い浮かべる。もっと安心させる言葉を吐ければよかった。この人形の身体ではそれは叶いそうにない。

 代わりに彼女が安心するように頭を撫でる。少し身を竦ませたものの、その手を受け入れてくれたことが嬉しかった。

 二人の夜はゆったりと流れた。


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