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いち早くにその子どもを叩き起こしてでも状況の説明を求めようとして、踏みとどまった。
その子どもは明らかに幼く、何よりその頭部から生えた獣のような大きな耳に思考を妨げられた。耳だけでなく、丸い尻尾が毛布から飛び出ている。観察してみれば定期的にピクピクと動いている。まるで当たり前に身体の一部であると言わんばかりに。
毛並みはくすんでいて、野良を思わせる野性味があった。例えるなら捨て猫だろうか。ただ、その大きな耳の特徴は狐のようにも犬のようにも見て取れた。
そこまでくれば、私の現状をこの子に聞いても無駄なんだろうという、諦めにも似た感情に襲われた。少なくとも私は頭部から獣の耳を生やした生物を物語の中でしか知らない。そもそも身体がないし、人形を操っている時点で半ば覚悟はしていたものの、気持ち良さそうに眠っている人間ではなさそうな存在を前にして、私はもう取り返しのつかない何かに巻き込まれているのだと漸く観念した。
眠っている子を見る限り、ここは私の知っている日本でもなさそうである。世界線すら飛び越えていそうな非現実的な存在が目の前で気持ちよさそうに眠っている。地下から出るまでは成仏できずに人形に取り憑いてしまっただなんてことも想像していたけれど、そういう単純な話でもなさそうである。
そうなってくると、いよいよどうすればいいのかわからない。外に出て、不幸中にも動かせる人形を駆使してコミュニケーションを取って、自分の現状を少しでも知ることができればくらいに考えていたところである。
完全に出鼻を挫かれてしまった。予想外に過ぎた。私の脳はオーバーヒートを起こしている。とはいえ、子供に当たり散らすような精神状態でもない。どういうわけか、私の心は思考とは裏腹に落ち着いている。状況を客観的に受け取れるくらいには、まだ余裕を持てているのだろうか。そもそも子供に私の現状を訴えたところでどうにかなるとは到底思えなかった。
あるいは、この子供が見た目以上に歳を重ねた人形の製作者という可能性もあるが。
「...っ、だ、だれ?!」
そんな途方に暮れていた私の心情なんてお構いなしに事態は動き出した。眠っていた子が起きては、自身の小さな身体を抱きしめるように丸くして、こちらに恐怖の視線を向けている。身体が震えていた。瞳が揺れている。その特徴的な耳やら尻尾やらがぺたんと萎んでいた。
その様子に先ほどまでの気の抜けた寝顔は見る影もなく、またしても問題が増えたと他人事のように眺める。一種の現実逃避であった。
「こ、ここの人ですか...?
かってに入ってごめんなさい!すぐに出ていきます!」
舌足らずな幼さを隠しもしない発音と、やけに畏まった口調にアンバランスさを感じながら、言葉は通じるのかと新たな発見を得た。そして、彼女の言葉から推測するに、この子供はこの家に不法侵入しているらしい。それにしては堂々と眠っていたものだ。
縮こまる身体と連動するようにペタンと伏せた耳が、やはり偽物ではなさそうだと何とも言えない感情に襲われる。
「だ、だからころさないで、ください...」
ぼうっと子供の言葉に耳を傾けていれば、物騒な言葉が飛び出してきた。そこでようやく、子供の様子に良くないものを発見した。
身体はガリガリに痩せ細り、指先はボロボロで、腕やら脚やらに痣やら擦り傷やらが確認できた。来ている服も粗末で汚れが目立つ。何か事情がありそうであるが、自分自身で手一杯どころか既にキャパオーバーである。誰か助けてほしい。
それでも、子供が泣きながら殺さないでなどと言うものだから、一旦自身の事情は端に追いやることにして、そこでようやくコミュニケーションを取る手段がないことに気付いた。
口がないのである。人形に喋らせるわけにもいかない。紙とペンすら持っていない。そもそも文字は通じるだろうか。何故この子の喋っている言葉が理解できるのかもよくわからない。ここは実は日本であったのか。日本には狐耳の少女が住居に不法に侵入することがあったとは知らなかった。
「...」
辛うじて、ジェスチャーで喋れないことを伝えようと人形を動かす。危害を加えないと両手を挙げる。しかし、人形を動かすたびにびくりと身体を竦める子供の様子に、それが正しい行動なのか疑問が積みあがった。一先ずゆっくりと子供から距離をとることにした。徒に怖がらせるのは気が引けた。
部屋には子どもの寝ているベッドと、木でできた丈夫そうな椅子と机のみ。とりあえず人形を椅子に腰掛けさせて様子を伺う。
数分もそうしていれば、恐る恐るといった様子でその子は人形に近寄ってきた。窓の外が明るくなった頃のことである。
「...あの、おこらない、ですか?」
「...」
人形は頷いて肯定する。その行動で幾らかその子は雰囲気を緩めたように感じた。怒るも何も、こちらは何もわからない。自分のことすらよくわかっていないのだから、私に許しを求めること自体が間違っていると言えた。
その言葉を伝える手段もなかったが。
「...ここにいさせてください」
「...」
しばらく沈黙の後、その子はそんなことを言った。助けてあげたい気持ちはあるものの、私に何ができるのか。
そもそも私はこの家のことをまるで知らない。彼女の見た目からして何か事情がありそうだとはわかるものの、現状を何一つ把握できていないのである。世界すら知っているものとは違う。その大きな獣耳と尻尾がそう言っている。
質問するための手段すらない。ただ、私は少なくとも大人だ。大人であると自認している。今はよくわからないことになっているものの、子供に助けを求められて拒否するような、そんな薄情な人間ではない。今は人間かすら疑問であるが。
助けられるのであれば、という意味も込めて頷いてみれば、明らかに強張っていた小さな身体から力が抜けたように感じた。
きゅるる。
なんとも可愛らしい腹の音が鳴った。人形は腹を空かせないだろう。おそらく。きっと。
であればその音はこの子のものだろう。腹が減っているのか。それは問題だ。
「ど、どうしたんですか?」
「...」
立ち上がり、何か食べ物をと歩き出す直前、彼女は泣きそうな、不安気な表情でこちらを見上げた。安心させる言葉は吐けない。頭でも撫でようかと考えて、動くだけで身を竦めていた先ほどの様子を思い起こす。
結局、頷いてから部屋を散策することにした。きっと何を伝えたいのかも読み取れないだろう。しかし、恐る恐るといった様子で後ろを着いてくる。別に着いてこなくてもいいとは思ったものの、伝えることもできずに好きにさせることにした。
部屋には扉が四つある。一つは地下に続くもの。その先には何もないことを知っている。
もう一つは外に続くもの。こっちも今必要ではない。
となると残り二つ。近い方の扉を開ける。
そこは狭い空間だった。地面には深めの穴。覗いても底が見えない。それと桶のようなもの。あとよくわからない綺麗な石が壁に嵌っている。そこから埋め込まれたように管のようなものが伸びている。
「どうしたんですか?」
「...」
少なくともここに腹を満たすものはなさそうである。首を振って答えては踵を返す。
最後の扉の先は生活を感じさせるものだった。壁にかけられた道具にはまたもや綺麗な石が嵌っている。色は赤で、さっきの部屋とは違うもののように見えた。それが細長い金属に嵌め込まれている。持ち運べそうであった。
それとは別に先ほどと似たような色の石がハマった管も壁に埋め込まれている。こちらは石造りの受け皿に向けて垂れ下がっている。蛇口のように見えた。水道のようなものだろうか。もしかしたら先ほどの部屋は風呂か何かだったのかもしれない。
収納スペースもあるようで、鍋やらナイフやらが確認できた。そこでここはキッチンであるらしいと思い至った。すべては見切れなかったが、食材らしいものは見つけられない。
入ってきた扉とは別に奥にも扉があった。開けてみれば外に続いているようで、勝手口のようなものらしい。薪やら斧やらが確認できた。
「ごはん作ろうとしてるんですか?」
「...」
頷いたものの、肝心の材料がない。どうしたものか。コンビニがあるようには思えない。少し外を眺めてみたが、辺りは自然に囲まれていた。サバイバルの知識なんてのは持ち合わせていないものの、今はどういうわけか人形を操れる。腕から頑丈な刃と糸が飛び出すカラクリである。これをうまく使えば釣りのようなことができるかもしれない。近くに川でも流れていないだろうか。
「ど、どこに行くんですか?」
「...」
この場所が安全かわからないため、なんとか身振り手振りで家に留まるよう伝えたのだけど、泣きそうな顔で引き止められた。そんな顔しないでほしい。野犬でも出たら大変である。着いてくるのは許可できなかった。
「ひとりにしないで...」
「...」
遂には泣き出してそんなことを言われる。非常に困った。この子が何に怯えているのかわからない以上一人にするのはまずいだろうか。そんな風にも思えてくる。獣耳が生えている人間である。そんなものが存在する世界で果たして家は安全と言えるのだろうか。
...わからない。わからないことが多すぎる。
結局子供を連れて外に出ることにした。彼女は裸足だった。足は痛々しいくらいに傷と泥だらけで、汚れが目立った。時間が経っていたのか、傷はある程度塞がっているようだ。とはいえ裸足で外を歩かせるわけにもいかない。人形に背負わせて移動することにした。
人形も裸足だったものの、金属製の義肢である。無視して外に出た。
外は森であった。薄暗い。まだ日が昇り切っていない。自然は豊かそうであった。青々とした植物が育っている。そこで温度がわからないことに気付いた。子供にとって寒くないだろうか。
家を外から見れば小さく、こじんまりとしたログハウスのよう。周囲を見渡せば、丸々と実った果実なのか野菜なのか、判断が難しいものの、充分に実をつけた植物が多く見受けられた。家主は植物の栽培をしているらしい。
「...」
「たべるんです?」
一つ手頃な大きさの実をもいでみれば、まん丸な瞳がその実を掴んで離さなかった。心なしかキラキラしているように感じた。
人形が食べることはないだろう。ないよな?と新しい疑念に苛まれながら、手にした実を腕の刃で切って口に運んでみた。味覚は備わっていないらしい。ただ、飲み込めたのには驚いた。
「...」
「いいんです?」
下から痛いくらいの視線を飛ばしている子に手にした実を一口分だけ差し出す。毒があるかもしれないとは過ったものの、人為的に整えられたように見える植物の様子に、食用だろうと当たりをつけた。
人形のため毒味もできないが、仕方がない。毒かもしれないと疑い餓死するか、毒にあたって腹を下すか。わからないことを考えてもしょうがないだろう。ただでさえ情報が不足し過ぎているのだ。小一時間考え込んだ結論であった。
「おいしい、です」
ニコニコと、未だぎこちないものの、笑みを浮かべる彼女の様子に何も問題が起こらないことを祈りつつ、せめてものの用心に一口だけ口に運んだのを確認して吐き出させようと手を伸ばす。
肌に触れさせて小一時間経っても問題は起こらなかったし、後は口に含んで問題ないか確認してから、実際に飲み込んで確認するくらいだろうか。聞き齧った程度の知識であってもやらないよりはマシだろう。人間にとって食用でも、動物にとって毒になるものは存在する。玉ねぎやにんにくなんてものを思い浮かべながら、動物と人間の特徴を持っている彼女が毒で苦しむ姿は見たくないと考えた。
家主が人間であるとは限らないが、出来ることはやっておきたかった。
「ひぅ」
「...」
人形から伸ばされた手に子供は表情を崩したものの、ここは心を鬼にしなければと、毒にあたって大変なことになった最悪の未来を想像して問答無用で口から実を吐き出させた。ニコニコとした表情が一転するのに私の精神はなんとか耐え切った。
半日を掛けて食べても問題なさそうな実に当たりをつけた。明日腹を壊す可能性だってあるものの、それを言っては何も食べられない。
すっかり静かになってしまった彼女に申し訳なさを感じながらも、言葉を発さずとも無条件でこちらのやることに従う様子に薄寒いものを感じる。虐待でも受けていたのだろう。明らかに普通ではない反応だ。
肌に実を触れさせてしばらく待っては、口に含ませて吐き出させ、一口だけ飲み込んではお預けされる。彼女にしてみれば訳がわからないだろう。
何度かジェスチャーで伝えようとしたものの、うまく伝えられず、意味のわからないことを繰り返させる不気味な相手に映っているのだと思うとやるせない。一旦問題ないだろうと思われる実を差し出してみても、すっかり怯えて恐る恐る口にしてはこちらの様子を伺う彼女に頭を下げる。もう何もしないと伝わればいいのだけど。