プロローグ
目の前には人形が横たわっていた。
それを人形と判断したのは、やけに重厚で光沢のある腕や脚を見たから、ではない。真っ白な陶器のような肌と絹のような短髪、ガラス玉を嵌め込んだように綺麗なブルーの瞳から、微塵も生気を感じなかったからである。
芸術品のような、無機質な冷たい雰囲気に、凡そ意志のようなものを感じ取れなかったのである。
四肢は辛うじて義肢と判断できなくもないが、その貼り付けたような計算され尽くしたかのような完璧な無表情に人間味が見て取れなかったのだ。
それが、人間らしく服を着飾っている。やけに古めかしい、粗末なチュニックをただ身に纏っていた。全身は麻色の布で覆われ、スカートみたいにひらひらした布が性別を誤認させたが、どうやら男性をモデルにしているらしい。
そんな生命を感じない、やけに美しい外見にゴツゴツと四肢だけ取ってつけたような歪な存在を前に、私は視線を外すことができなかった。
その人形は手術台の上に寝そべる患者のように、重厚な石でできた台座の上にその身を横たえている。まるで死人のように目を見開いて、胸を上下させる様子もない。私はそんな人形を見つめることしかできなかった。他には何もない部屋。
私は何故こんな人形を見つめているのだろうと思ったところで、ふとあるはずの感覚が抜け落ちていることに血の気が引いた。
指の先、腕、足先から心臓の鼓動まで、そんな当たり前の感覚が喪失している。ただ、この視界のみが人形を見下ろしてそこにあるのみ。
おかしい。
脈打つ心臓すらないために、焦りは殊の外すぐに落ち着いた。落ち着いたというか、落ち着くほかなかった。
“身体がない”
そんな非現実的な結論に至ったのは数秒だったか、数分だったかもしれない。
ただ、この思考と視界だけが人形を中心に部屋に存在するばかり。内心はパニックに陥りながらも、喚き散らすための口がない。冷や汗を流す背もなければ、覆ってしまう瞳もない。
唯一自由なのはこの視界のみ。瞳の感覚は消失しているというのに変な話だが、まるで舞台を遠目から見るかのように、その横たわる人形を観察することができた。それもどういうわけか人形を視界から追いやることができないようで、ただしばらく何もない部屋に漂うのみ。
カチャリ。
一瞬、目の前の人形から音が鳴った。どうやら聴覚もここに存在しているらしい。
新しい感覚に少しばかりの安堵を抱いて、音の発生源を注視する。
カチャン。
それはどうやら、ある程度私の意思で動かすことができるらしい。
それとは、目の前の人形に他ならない。周りには何もないはずにも関わらず、その横たわる人形の指やら腕やらが私の意思で持ち上がったり、力なく垂れさがったりする。指先が少し動いたかと思えば、力なく元の位置に戻ったのだ。
何を馬鹿なことを、とは思ったものの、今の私にできることは多くなかった。
まるで人形を操るような不思議な感覚と共に、その腕が徐に持ち上がった。
いつの間にか私は浮遊霊にでもなってしまったのか、空中から見下ろす先の人形を操ることは簡単であった。霊が人形に乗り移るなんてことは定番ではあるけれど、まさか自分が霊側の体験をすることになろうとは。
完全に立ち上がった人形を視界に収めて、一つやり切ったという少しの達成感に浸る。
コツは要るものの、数分も人形遊びに興じていれば、その人形に人間らしい動きをさせることにも慣れた。それほどにどういうわけか、思うがままに動かせる。その横たわる人形を、である。ここまでくればいよいよ認めなければならない。
私は頭がおかしくなってしまったらしい。
人形のような生気を感じさせない無表情も、試行錯誤の上で笑顔を作らせればそれなりに人らしく映ることを知った。
機械仕掛けの腕や脚からは、どういうカラクリか鋭く小ぶりな刃が飛び出し、勢いよく壁に突き刺さった。
その硬そうな石壁に難なく突き刺さった刃と人形を繋ぐピアノ線を巻き取る要領で回収する。
回収は三度の失敗を経て成功した。刃に造られた返しを外さなければ逆に身体が壁へと引っ張られる。それほどこのピアノ線は見た目の細さを裏切るほどに強靭であるらしい。まるでスパイ映画で観たようなカラクリに少しだけ心が躍っては、天井に射出して人形の身体を浮かせてみた。この人形の身体は軽いのかもしれない。
天井が崩れるなんてこともなく、腕から天井へ線を繋げて宙吊りになっている人形を観察するのにはすぐに飽きた。
服の中はどうなっているのかと脱がせてみれば、服の上からは細い印象の身体に彫刻のような筋肉が確認できた。どうやら機械らしい見た目をしているのは四肢だけであるらしい。肩から先、脚の付け根から先が義肢のように見えなくもない。黒鉄色の光沢のない金属は肌の色と対比になっていて、よく映えているように感じた。
青年のような見た目をしている謎の人形。製作者は何を以てこのようなものを作ったのか。
考えたところで誰が答えてくれるはずもなく、状況は変わらない。何故か操れる人形とそれを中心にして部屋の中を移動する視界。私の世界はそれだけになってしまったらしい。意味がわからないと訴える身体も持たず、このまま底知れない違和感に押し潰されないよう、私は思い切って行動することにした。いや、行動させると言うべきか。
人形に服を着せては、何もない部屋から移動させることにした。唯一存在する扉に手をかけさせる。扉を開けば薄っすらと光を感じた。
そういえば、この部屋には窓がなかったと思い至って、それどころか電球一つもなかったにも関わらず、正確に部屋を把握できていた視界。暗闇と称して過言ないその空間で、はっきりと認識できた人形。
この視界は光を必要としないのだろうか。考え込みそうになるのをなんとか無視した。考えれば考えるだけ意味不明な現状に飲み込まれると思った。
部屋から人形を操って外に出す。微かな光を感じるとともに、今まで部屋から出ることが叶わなかったこの視界が、外の景色を把握していることにホッとする。思った通り、この視界は部屋に固定されているわけではないらしい。理由はわからないが、この人形を中心に視界も移動できるようだ。
開け放った扉からそのまま真っすぐ突き当たりに上へ続く階段が確認できた。やはり窓がない。もしかすればここは地下なのかもしれない。
上に続く階段以外に道は確認できない。その恐らく地下であろう廊下や階段は人形の手足と同じ金属でできているらしい。金属だというのに人形の足音は不思議としない。そんな金属でできた階段を昇って、これまた金属でできたやけに重厚な扉を開ければ、そこは新しい部屋であった。木造の、温かみのある清潔な部屋だ。後ろを振り返れば場違いな金属でできた扉が何か言いたげにそこにある。そこだけ浮いているように錯覚するほどに長閑な一軒家である。
窓の外から暖かな光が差し込んでいる。それは星々の明かりのようで、辺りはまだ薄暗い。夕暮れというよりは早朝の空気があった。
「...すぅ」
そして、ベッドには子どもが気持ちよさそうに眠っていた。