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CASE:017-1 呪いの動画

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

1-1. 落下


 深夜二時四十七分のオフィス街は、まるで海底に沈んだ難破船のように音もなく静まり返っていた。建ち並ぶ高層ビルは闇に沈み込み、その間を縫うように伸びる非常階段だけが淡い月光に照らされて白く浮かび上がっている。〈彼〉は、その階段を一段ずつ踏みしめながらゆっくりと上っていた。カン……カン……。革靴が金属製の階段を叩く規則正しい音が、乾いた風の中に淡く響き、眠りについた街へと溶けて消えていった。街灯の淡い光が、彼の無表情を白く照らし出す。感情というものをすべて削ぎ落としたようなその横顔は、生の気配が希薄に見えた。彼はまるで何かを確かめるかのように、自分の手のひらを見つめる。その指先は、かすかに震えている。

 ──ああ、やっぱり自分はもう、と彼は思った。

 右のポケットに収められたスマートフォンが微かに振動する。再生が終わった画面はただ暗い闇を映すばかりで、サムネイルの黒い空白が、規則的にゆっくりと点滅を繰り返していた。通知バーには「データ通信エラー」の赤い文字が固着しており、まるで現実そのものとの通信が途切れたかのようだった。彼はふと目を細め、その画面を見下ろしたまま静かに呟く。

「これでようやく辻褄が合う」

 声は、夜に溶けるように掠れた。彼の唇の端には、深い諦観の中にかすかな安堵が混じり、ゆっくりと微笑みを形作った。


 辻褄。

 それは彼の中で長く続いた違和感を解消する、ただひとつの鍵だった。朝目覚めるたびに覚える、自分がまだ生きているという奇妙な違和感。まるで既に死んでいるはずの自分が、間違えて現実の中に存在してしまっているかのような──そんな居心地の悪さを、彼はずっと感じていた。しかし、その理由はもう分かっていた。彼の命は、すでにあの動画によって終わっていた。彼がこれからしようとしている行為は、運命の矛盾をただ正すだけの、極めて合理的な選択だった。そう、これは彼にとって自殺などではなかった。ただ、世界の辻褄を合わせる行為だ。最上階に達すると、彼は軽く息を吐いて鉄柵を掴んだ。触れた鉄の感触が冷たく、心地よい。

 そうか、自分はもう冷たいのだ──

 わずかな苦労もなく鉄柵をまたぐと、そのまま彼は深淵を覗き込むように、眼下の闇へと視線を投げた。足元の暗闇は深く、ビルの谷底を満たす闇の湖のようだった。見つめるほどに、深く静かな闇は彼を優しく誘った。彼はためらいもなく、その誘いに応えた。体が前へ傾き、ふわりと足が宙に浮いた。瞬間、重力は無慈悲にその指をほどき、闇へと彼の身体を引きずりこんでいく。


 落ちていく。

 闇の中を、無音のまま、静かに、ただ真っ直ぐに。

 まるで永遠のようにも思える時間が流れ、そして次の瞬間──

 地面に激突する寸前、世界は漆黒の暗闇へと溶け去った。


 翌朝、薄曇りの空の下で現場は物々しい空気に包まれていた。オフィス街の隅にある小さな広場を青いビニールシートが痛々しく覆っており、パトカーの赤色灯が、無言で行き交う野次馬たちの頬に色を与えていた。ローカルニュースの淡々とした声が事件を伝える。

『都内のオフィス街で会社員とみられる男性が転落死しました。現場の状況から自殺の可能性が高いとのことですが、遺書などは見つかっておらず──』

 鑑識官の一人が、遺留品としてスマートフォンを慎重に証拠袋に収めていく。その指先が僅かに触れただけで、画面がゆっくりと明るくなった。ブラウザには、動画配信サイト『YouView』が表示されている。履歴に残っている最後の視聴動画のタイトルは、ただ短く『無題』とだけ記されていた。無表情な警察官の目には、その真っ黒な画面に書かれた不気味な警告文が映りこんだ。

『絶対に最後まで観ないでください』

 ──その言葉が、なぜかひどく胸に引っかかった。画面に映る不吉な黒いサムネイルが、薄日に照らされて微かに色を変えたように見えたが、それはただの気のせいだろう。鑑識官は気を取り直して証拠袋を封じ、ほのかに感じた違和感を押し殺して現場を去った。


 そのニュースが流れる頃、街のあちこちで同じ動画が静かに再生され続けていた。会社員がオフィスのPCで、大学生がカフェのWi−Fiで、高校生が教室の隅で──。それはただの不気味な動画として、都市のあらゆる隙間にゆっくりと滲み出していた。その拡散が生み出す静かな波紋は、やがて誰にも気づかれぬまま、大きなうねりとなって広がりつつあった。


 まだ、誰もその動画の本当の意味を知らない。

 深く静かな、認識の海に潜む何かが目を覚まし始めたことにも。

 そして、この朝を境に、彼のような悲劇が静かに連鎖していくことになることにも──。



1-2. 伝染


 動画配信サイト『YouView』は、他愛もない日常の切れ端からエンタメ動画、プロモーション動画、不気味な都市伝説まで、あらゆる情報が流れる巨大な河口のような場所だ。そこで、ある日突然、『無題』という奇妙なタイトルを持つ動画がバズり始めた。サムネイルには視覚を拒絶するかのように漆黒の画面が広がり、その闇の中心に白く無機質な文字でたった一行、こう記されている。

『絶対に最後まで観ないでください』

 あまりにもストレートな警告に、視聴者たちはかえって惹きつけられた。カリギュラ効果──人間とは、禁忌を示されれば示されるほど、それを覗きたくなる奇妙な習性を持つ生き物だ。動画を再生すると、映し出されるのは静まり返った無人の通学路だった。カメラが淡々と道を進んでいくが、道端の植え込みや標識が妙に記憶を揺さぶる。誰もがかつて見たことがあるような、しかし具体的にどこかは分からない、曖昧な風景だ。場面が唐突に切り替わる。画面に現れたのは朽ち果てた遊園地だった。錆びついた観覧車が風に軋み、無人のメリーゴーランドの馬たちは色あせた笑顔で虚空を見つめている。そこに哀愁はなく、ただ圧倒的な空虚が満ちている。埃まみれの教室に場面は移る。机や椅子が乱雑に置かれ、教卓の上には開かれたままの古びた教科書が置き去りにされている。カメラは淡々と視線を巡らせるだけで、特別な演出も、音楽もない。だが、そこにはただ沈黙と忘却の気配だけが漂い、観る者の胸に形容しがたい不安を静かに埋め込んでいった。そして最後に映し出されるのは、誰もいない駅のホームだった。列車は永久にやってこないのか、線路の向こうはただ薄暗い霧に包まれ、無人のホームに微かな風が音もなく吹き抜けている。


 動画には何の脅かしもない。ただひたすらに、どこか懐かしくも空虚な風景が無機質に継ぎ接ぎされ、数分間映し出されるだけだ。にもかかわらず、『無題』は猛烈な勢いで拡散されていった。動画を見た視聴者の間では「何故だか不安になる」「理由はわからないが頭から離れない」というコメントが相次ぎ、その漠然とした恐怖心が人から人へと伝染していったのだ。



1-3.考察


 『無題』という奇妙な動画が人々を惹きつけるのに、さほど時間はかからなかった。都市の隙間に浸透した不穏な囁きはSNS上を中心に瞬く間に拡散され、いつしか誰もがその名を知るようになった。人々は不安を覚えながらも、まるで誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように、次々とその動画へと指を伸ばしてしまう。


 話題となった動画には必ずといっていいほど、様々なジャンルの配信者たちが群がる。オカルト系配信者たちは、早々にこの動画を『呪いの動画』と位置付けていた。実際、「動画を観た翌日から悪夢に悩まされる」「自分は既に死んでいるような気がする」という奇妙な報告が複数確認され、彼らにとって格好のネタとなっていた。心理学系の配信者は、別の角度から分析を行った。曰く、「動画に使われる風景は、視聴者の曖昧な記憶を巧みに刺激する構図が多用されている」「意図的にカメラがゆっくりとパンし、無意識下で違和感を植え付ける」「動画の視点が主観的で、視聴者自身の自己投影を巧みに誘発している」──と。つまり、動画は心理学的なテクニックを駆使し、視聴者自身の脳に曖昧な記憶の感触を再現させることで、得体の知れない不安を呼び起こしているのだと主張した。一方、脳科学系配信者もこの動画を取り上げ、より専門的な見解を示した。彼らは視覚的なトリックに注目した。「サッケード抑制」と呼ばれる現象により、カメラの動きや場面転換が微妙に視覚を騙し、「ミラーニューロンの誤作動」で視聴者に他人の感情や行動を無意識に再現させる仕掛けが含まれている可能性を指摘。また、「スコトーマ効果」により、何らかの情報が無意識下で遮断され、視聴者に深層心理的なストレスを与えているのでは、と述べた。


「記憶というのは曖昧なもので、人は無意識のうちに自分の過去や体験に近い映像に共感を抱きます。動画の場面切り替えが微妙に視線を逸らさせ、『違和感』という感覚を脳に植えつける。これは巧妙な心理的誘導でしょう」

 いずれの考察にも科学的根拠が添えられ、多くの視聴者を納得させていた。だが、いくら分析が進もうとも、動画が抱える漠然とした不安感を完全に説明しきることはできなかった。そもそも、問題はこの動画を観て感じる記憶の不自然さだった。どの視聴者も動画の中の風景に、はっきりとは言えないが確かな既視感を覚えていたのだ。それは視覚トリックだけで片付けられるものではなく、ある種の集合的な記憶の海から直接抽出されたかのような異質さを帯びていた。配信者たちが発表する様々な仮説は、視聴者の間に動画への興味を更に煽る結果となった。動画の謎を解き明かそうと、視聴回数は爆発的に増えていく。だが、動画に群がる配信者の誰もが気付いていないことが、ひとつだけあった。それは、視聴者がこの動画を繰り返し見続けることで、動画そのものが彼らの内面に静かに何かを植え付け続けているということだ。そして、その何かがある日突然芽吹き始め、視聴者の中で静かな異変を引き起こしていくことを──。



1-4. 錯覚


 それは、深夜二時を少し過ぎた頃だった。学生寮の狭い部屋で目を覚ました『彼女』は、息を整えるために荒い呼吸を繰り返していた。シャツは汗でじっとりと貼り付き、肌をつたう汗が不快だったが、それ以上に彼女を苛んだのは──まるで数秒前まで現実であったかのような、あの夢の生々しい余韻だった。夢の中の彼女は、人気のない非常階段を一歩ずつ上っていた。そして、最後の瞬間。彼女は夢の中で迷うことなく鉄柵をまたぎ、何かに吸い寄せられるように闇の底へと落ちていったのだ。目が覚めてもなお、あまりにも鮮明な落ちる瞬間の記憶がいまも胸のあたりに残っているような錯覚に陥り、彼女は身震いした。

 ──でも、あの動画には、そんな場面は無かったはずだ。

 何度も見返したあの『無題』の動画には、飛び降りや非常階段を昇るシーンなど一切映っていない。にもかかわらず、同じ夢を繰り返し見る。まるで、自分が本当にその行動を取った記憶を、脳が勝手に再生しているかのように。そして、そんな夢を見ているのは、彼女だけではなかった。SNS『ツブヤイタッター』では、『無題』の視聴者たちが奇妙な夢の報告を次々と投稿し始めていた。見ず知らずの人間が同じ夢を共有しているという不気味な事実が広まり、噂は爆発的に拡散した。さらに不気味だったのは、一部の視聴者が奇妙な錯覚を抱き始めていたことだった。

「なんだか、自分はもう死んでるんじゃないかって気がしてくる」

 最初は冗談半分のつぶやきだったが、次第に同じ錯覚を訴える者が増えていき、やがて錯乱状態になった人間がYouViewのフォーラムに現れ始めた。

『この動画を見てから、自分が死後の世界にいるような気がして仕方ないんだ』

『おかしい。昨日から、なぜか自分がもう死んでいると思えてくる』

 やがて、錯乱の末に精神科病院に収容される者まで現れ始めた。動画が原因だという根拠は薄いままだったが、実害が出始めるとメディアが飛びついた。テレビやネットのメディアが『呪いの動画』というセンセーショナルな見出しで取り上げる頃には、『無題』は完全に新しい都市伝説と化していた。


 そして、『無題』の再生回数は加速度的に増えていった。観るな、と言われれば言われるほど、人々は好奇心を刺激されてしまう。自らを破滅させる呪いの歯車を、自らの手で回しているとも知らずに──悲劇は静かに、だが確実に、次の犠牲者を探し始めていた。



1-5. 介入


 その頃、蜘手(くもで)創次郎(そうじろう)は特異事案対策室オフィスで眉をひそめていた。いつもの悪戯めいた表情は影を潜め、代わりに彼の手には、資料の束が無造作に握られている。資料には、都内の精神科病院への受診者数が、ここ数日で急激に増加しているというデータが記されていた。

「『動画』ねぇ……」

 書類の束を机に放り出しながら蜘手は呟いた。その動画──『無題』と名付けられた数分間の映像──を彼も既に観ていた。だが、それには映像自体に特筆すべき異常性は感じられなかった。無人の風景が淡々と映し出されるだけの、どこにでもありそうな不気味な動画だった。世間では『観たら死ぬ動画』として、まことしやかに囁かれているが、当然、警察も動画サイト側も、単なる都市伝説やデマとしてまともに取り合っていない。


 しかし、その『単なるデマ』にしては影響が異常に思えた。受診者たちの症状は酷似している。繰り返される悪夢、錯乱状態、そして──自己の死を確信する妄想。これらが偶然とは考えにくい頻度で発生している。特対室の面々──特に葦名(あしな)透真(とうま)は、この現象を既に注視し始めていた。透真は資料に添えられたメモの中で、動画自体に物理的な異常は発見できなかったと書き残している。

「これじゃ行政も動きゃしねぇよな」

 警察や行政が動くためには、明確な因果関係が必要だ。通常の検証では何も異常を示さず、法的根拠も曖昧なままでは、一企業への動画の削除依頼すら難航する。

「嫌な時代になったもんだよな」

 蜘手は小さくため息を吐いた。法的手続きを踏もうにも、実害と動画との因果関係が立証できない以上、動画サイト側が及び腰になるのも当然だろう。その時、机の上のスマートフォンが震えた。新たな報告だった。

「また、か」

 画面には、新宿区の雑居ビルで起きた飛び降り自殺の報告が表示されていた。被害者のスマートフォン履歴には、やはり『無題』が残されている。もはやデマという言葉だけで済ませられる状況ではない。蜘手は苛立たしげにスマートフォンを机に置くと、静かな室内に重たい声を響かせた。

「仕方ねぇな──」

 彼は立ち上がると、プリントアウトしたYouViewへの削除申請のための書類を手に取った。規約違反は見つからず、動画サイト側も申請に素直に応じるとは思えない。それでも、この状況を放置するわけにはいかなかった。

「単なる都市伝説じゃ済まされない状況だ。なんとかして止めねえとな──」

 次の犠牲者が出るまで、それほど猶予はないかもしれない──蜘手は無言のままオフィスを出た。地上に出ると重苦しい曇り空が広がり、小雨がぱらつき始めていた。雨粒が頬を打ち、蜘手の苛立ちをさらに深めた。



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