CASE016-4 巨頭オ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
4-1. 沈没
祭祀場の中央に立つ巨石は、不吉な歯型のような凹みを黒々と露わにしていた。その歪な窪みに、一人、また一人と異形たちが頭を沈めてゆく。そのたびに、ぬる……ごちゅ、ごちゅ……という湿った音が響き、頭蓋が柔らかな粘膜に圧し潰されていく感触が伝わった。
沈み込む頭の隙間から、黒く濁った血泡と白濁した粘液がにじみ出し、苔の表面をゆっくりと這っていく。その液体は地面の泥と混ざり、生臭い臭気を吐き出しながら広がっていた。透真は何度も目を背けようとしたが、その悍ましさにかえって目が釘付けになる。
老人の一人が涎を垂らし、低い呻き声をあげながら、自らの頭を深く石に埋め込んでいく。その顔には陶酔とも絶望ともつかない表情が浮かんでいた。
石の奥からは時折、何かを咀嚼するような音や、金属が軋むような鋭い響き、水が激しく沸き立つ音が混じって聞こえてきた。透真の背筋に這い上がる悪寒は激しく、彼の手は無意識に強く拳を握りしめていた。
「……勝手にしろ」
雷蔵の声は乾いていたが、その表情は苛立ちを通り越した虚無に満ちている。彼は腕を組んだまま石を見据え、諦観を噛み締めているようだった。
透真は記録を取る手が完全に止まっていた。心の中を満たす嫌悪感と怒りは言葉を奪い、ただ目の前の光景を呆然と見つめるしかなかった。彼の理性は、この狂気を整理することを拒絶していた。
灯里だけが、かすかな声で呟く。
「……これが、彼女たちにとって生きていた証だったのね」
その言葉は痛切で、微かな悲しみを帯びていたが、彼女の目は凍りついたように動かなかった。
祭祀場を満たす狂乱は徐々に収まりつつあった。異形たちが石に沈み込むたびに、祭祀場の空気が少しずつ薄れ、世界が消え失せていくように感じられた。
最後にオオズミが頭を完全に埋め込んだ瞬間、周囲の音は唐突に途切れ、静寂が戻った。透真たち三人は、その場に立ち尽くしていた。泥濘んだ地面に足を取られ、動くことすらできない。彼らはただ、『終わり』を見届けるしかなかった。
4-2. 空虚
灯里が静かに囁いた。
「境界が──閉じた」
その言葉と同時に、濃密だった霧は嘘のように急激に薄れ始めた。祭祀場の空気が澄み、眼前には元の姿を取り戻したただの山が広がっている。
そこには、もう誰もいなかった。巨石には乾き始めた血痕が薄く残り、地面には血と唾液、泥が混じった跡だけがぬめぬめと広がっている。あれだけ激しかった狂騒が消え、耳が詰まったような静寂が重苦しくのしかかる。
雷蔵は疲労の見える目で周囲を見渡し、苛立ち混じりに吐き捨てた。
「誰にも知られず……こうして終わるのか」
その声には怒りも憐れみもない。ただ純粋な苦々しさと諦観だけが漂っている。
透真は沈黙の中で巨石に近づき、その裂け目を覗き込んだ。そこには何もなく、底知れぬ闇があるだけだった。しかし、一瞬、背後から視線を感じたような気がして慌てて後退りした。その気配は鋭く、明確に『何か』に見られていると感じさせた。
「帰る場所を与えられただけ、もしかしたら、それでよかったのかもしれないわね」
灯里の独白は静かな諦観に満ちていたが、その表情には凍ったような冷たさが残っている。
三人は言葉なくその場に立ち尽くした。もはや怪異とも、人災とも呼べない『何か』だけが残ったことを感じていた。この場所で起きたことは、彼らが理解するには余りにも歪で異質だった。世界はただ、虚無と沈黙に包まれ、彼らの胸には鉛のような空虚感だけが重く残った。
4-3. 虚脱
重苦しい足取りで、三人は山道を下り始めた。降り注ぐ朝の薄明かりは、ただ鈍色で、湿気を孕んだ空気に霞んでいた。雨上がりの泥濘が車のタイヤを掴み、じっとりと絡みつく。ぬかるみにタイヤをとられ、帰路は遅々として進まなかった。
ワイパーが粘つく泥水を払い、フロントガラスの向こうに薄曇りの空が広がる。誰もが口を開かず、息遣いだけが微かに響いている。ふいに、ラジオから妙に能天気な邦楽のイントロが流れた。
「♪君の笑顔が世界を救う──」
その場にそぐわない軽快なメロディが、車内の重苦しさを嘲笑うように響き渡る。ハンドルを握る雷蔵がラジオに手を伸ばしかけて、やめた。
誰も口を開かなかった。重い沈黙が三人の間を埋め、森の奥深くからは微かな葉擦れの音だけが響いていた。それは奇妙に現実感がなく、まるで何もかもが既に終わり、今はただ虚ろな余韻だけが残されているかのようだった。ラジオのボーカルだけが、いつまでも明るく鳴り続けている。
透真の内心は、耐えがたいほどの虚無に覆われていた。
(あれは本当に「怪異」と言えるのか? それとも、ただの歪んだ『宗教』に過ぎないのか……)
だが、いくら考えても答えは出ない。ただ一つ確かなのは、『人間が死んだ』という、動かしようのない事実だけだ。その事実だけが彼の内側に深く沈殿し、苦い後味を伴って胃の底を締め付けていた。
「誰も、本気にはしないさ」
雷蔵が静かな声で呟いた。その口調は苛立ちよりも諦観に近く、もはや怒りすら含まれていない。
「あの室長の野郎が、冷めた目で報告書を読んで終わりだろう」
その言葉に返事をする者はなかった。灯里はただ黙って前を見つめ、足を運び続ける。彼女の横顔は蒼白で、瞳には深い疲労が滲んでいた。
「本当は忘れられた方がいいこと……」
灯里のかすれた声は小さく、吐息のようだった。
「でも私たちは、これを記録しておかなければならないのよね。皮肉だわ」
その言葉の裏にある苦々しさを、透真は痛いほど感じていた。彼らはただ観察者として目の前の異常を見届けるしかなく、その記憶を永遠に背負わされるのだ。
山を下り終えた頃には、すっかり夜が明けきっていた。だが空は相変わらずどんよりと灰色で、世界全体が鉛色に沈んでいるように見えた。それは彼らの現在の心中、そのもののようだった。
4-4. 亡霊
透真は特対室の無機質なデスクに腰掛け、報告書に向かっていた。だが、その手は何度も止まり、捗らなかった。あれ以来、彼は霧山窩や『オ』についての文献を捜索したが、忌避されていた者について詳細に書かれた文献は現存しなかった。なにより、いくら言葉を探しても、あの狂気を表現する言葉は見つからなかった。
(『集団消失』、『儀式』──こんな無機質な言葉でしか表現できないのか……)
彼の視線がデスク脇のモニターに映った画面へ向かう。そこにはmaxiオカルトコミュニティの監視中に発見した『巨頭オの看板見つけたwww』コミュニティが映されている。既に『マジで行ったら死ぬって、ウケるw』といった軽薄な文言が無造作に流れていた。
その中に一枚、あの時見つけた看板の写真があった。しかし、写真に写っている場所はまるで違うものだった。彼らが踏み込んだあの場所とは全く別の場所──そこに同じ看板があるというのだ。
(あれは現実だったのか? それとも俺たちは、ただ記憶──『怪異の亡霊』を見せられたのか?)
『透視』には確かに実体が視えていた。しかし喉の奥に刺さるような違和感が胸を圧迫する。灯里は静かに席に座り、白い壁をぼんやりと見つめている。その瞳には遠い何かを探すような光が宿っていたが、結局それが何かを見つけることはないままだった。
雷蔵は、無言のまま席を立ち、冷え切ったコーヒーを流し込む。味もなく、ただ苦いだけの液体が喉を通っていく感覚は、彼自身の心の有り様をそのまま示しているようだった。
特対室の中に静寂が再び広がった。その静けさはいつまでも重く、沈黙が息苦しさを生み出していた。やがて透真は、小さく深呼吸をして報告書の続きを書こうとした。だが手はまた途中で止まり、虚空を彷徨った。ふとモニターに反射する自分の顔が、どこか別人のように見えた。その目は異様に濁り、まるで自分自身もまた、『巨頭オ』の亡霊に取り憑かれているかのようだった。透真は目を閉じ、報告書を横に押しやった。その行為は一時の逃避にすぎないが、それでも今はそうするしかなかった。
その日、三人の誰もが、自分自身があの山の中に何かを置き去りにしてきたような気がしていた。それが何なのかは、誰にもわからないままだった。
4-5. 残影
透真がデスクの上に置き去りにした報告書は、書きかけのまま宙に浮いた言葉が散らばっている。その紙面を見つめる彼の目はぼんやりと虚ろで、あの『境界』の向こう側をまだ彷徨っているようだった。
あれは本当に現実だったのか──その疑念が未だ透真の心を蝕み続けている。あの狂った儀式も、血と泥にまみれた集落も、まるで夢の中の出来事のように現実感を失い、記憶の底で揺らめく幻影のようになっていた。
「現実でも幻でも、結局同じかもしれない」
灯里が静かな声で言った。その声音には諦観が深く染み込んでいた。彼女も未だ心の整理がつききっていない。雷蔵は報告書を見向きもせず、黙って煙草を咥えて火をつけた。煙が淡く空気を漂い、無言の苛立ちを表していた。
透真は再びモニターの画面に目を向ける。SNSに投稿された写真の中に、看板を見つけた場所が映し出されている。そこは彼らが訪れた場所ではない。全く違うどこかの山中に、同じ文字で『巨頭オ』と書かれた看板が立っているのだ。胸の奥に不快感がじわじわと広がった。
(もしかすると、『巨頭オ』は一つではないのかもしれない。忌避された霧山窩が、忌避してきた者に対して向けた、あの『オ』の存在を、信仰を忘れ去られないようにするための──忌避、差別と呪いの連鎖)
その考えは恐ろしく、透真の喉を締め付けた。もはや、この怪異が彼らだけのものではないことを感じ取っていた。彼らの知らない場所で、同じことが繰り返される。そうしてこの狂気は続き、誰かが観測者として、新たな輪に取り込まれていくのかもしれない。
透真の瞼が重くなり、静かに目を閉じた。その暗闇の奥に膨れ上がった頭部と、歪んだ呻き声がかすかに響いたような気がした。
4-6. 遺響
薄暮の頃、誰もいない山道に影が揺れた。霧は晴れたはずだったが、風に乗ってまだ湿った気配が漂っている。遠く、森の奥深くで何かが這う音がした。視界の端にちらつくその影は、初めは動物のようにも見えた。しかし、次第にそれは明らかに異常な輪郭を示し始めた。
頭部が、異様に膨らんでいる。
ゆっくりとした動きで頭を振りながら、その影は森の中を彷徨っていた。それはまるで、自分の居場所を求めているかのように、あるいは自分を目撃する誰かを待っているかのように。
風が再び枝を揺らし、影はふっと姿を消した。森は静かに、何事もなかったかのように沈黙を取り戻した。
しかし、その静けさの中には、薄く残った違和感だけが、誰にも気づかれないまま漂っていた。
やがて、その影のことを知った誰かが、再び『巨頭オ』の名を口にする。その名が再び人々の口端に上る時、この連鎖もまた、終わりのない循環に呑み込まれていくだろう。
そのとき、あなた自身が、新たな観測者になるのだ。
あなたは今、この連鎖を知ってしまった。
もう、後戻りはできない。
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