CASE016-3 巨頭オ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
3-1. 誘引
夜の底から霧が立ち昇り、濃密な闇と混じり合った。村の周囲は静寂が支配し、透真たちの足音さえも吸い込まれるような感覚だった。フラッシュライトの灯りは霧に呑まれ、僅かな距離しか照らせない。
獣道に入ると、すぐに足元で何かが潰れる音がした。見下ろせば、小動物の骨が散らばり、血の乾いた染みが湿った土を不快に覆っている。道の脇には、花束のような痕跡が泥にまみれて朽ちていた。その光景はまるで放棄された祭壇のようで、透真の喉奥に苦い吐き気がこみ上げた。
足を進めるほどに、集落の周辺に散乱する異様な痕跡が濃くなった。小さく折れた骨、割れた頭蓋骨、歪な形の動物の死骸。血の匂いと獣臭、そしてそれらが腐敗した濃厚な臭気が鼻腔に貼りつき、離れようとしない。
「ここまでひどいと、気持ち悪いというより、もう異様な世界だな」
雷蔵の声には嫌悪と怒りが混じり、その背後に微かな恐れさえ感じられた。彼は一歩ごとに靴底に絡みつく泥や腐った植物を踏みしめるたび、苛立ちを隠さず顔をしかめていた。
透真は道端に朽ち果てた祠を見つけた。その祠には泥と血が執拗に叩きつけられ、表面が赤黒く染まっていた。傍らには、奇妙に整然と並べられた供物のような骨片が散乱している。彼らが踏み越えた境界を示す、歪んだ目印のようにも見えた。
「……まだ、『境界』は続いている」
透真の呟きは深い霧の中で不快に響き、消えていった。その瞬間、背後から肉が泥に吸い付くような粘り気のある音が響いた。振り向くと、そこには既に『彼ら』が現れていた。
三体の影が霧を切り裂いて、こちらを凝視している。最初に現れたものは四つん這いで這っていた。関節は不自然な方向に曲がり、濡れた泥に手足を深く沈めながら這い進む。二体目は異様に長い腕を持ち、巨大な仮面を着けた頭部を左右に振り続けている。揺れる頭の隙間から、血泡と唾液が溢れ、地面に落ちては汚れた泥をさらに濡らした。三体目は口から泡混じりの唾液を垂らしながら、歯をカチカチと鳴らしている。その乾いた音は、濡れた肉音と相まって奇妙なリズムを生み出していた。
彼らの皮膚は鱗のように薄く剥がれ、露出した肉や骨が湿った霧の中でてらてらと光っている。ところどころ欠けた指や捻じ曲がった関節が露わになり、その姿は既に人間とは程遠いものだった。
「襲ってくるつもりは、ないみてえだが……」
雷蔵が低く唸ると、異形たちは同時にゆっくりと腕を持ち上げ、ぎこちなくこちらを誘うように振った。その動きはまるで人間らしさを模倣しているようにも見え、あまりにも歪で不自然なため、かえって透真たちに生理的な嫌悪感を与えた。
「ついて……来い、って言ってるのね」
灯里の言葉に透真は小さく頷くしかなかった。ここで引き返すことは許されないという、暗黙の圧力を感じていたからだ。
三人が歩き出すと、異形たちはゆっくりと道を進み始める。その歩みは遅く、ぬるぬるとした地面に吸いつく肉音を伴い、絶えず呻き声や舌を鳴らす音を発していた。その音は耳から脳髄に入り込み、精神をじわじわと蝕んだ。
道の両脇には、腐敗した動物や小さな骨が途切れることなく散乱している。その光景は、彼らが今や異界への道を導かれていることを嫌でも認識させた。
「人の領域、から完全に外れたな」
雷蔵は自嘲気味に呟いた。その目には嫌悪以上に、未知への警戒がはっきりと宿っていた。彼らの背後には、来た道すら消え失せていくかのような濃い霧が迫っている。
透真は異形の者たちの背を追いながら、自分の足元が底のない沼地に沈み込んでいくような錯覚を覚えた。ここはもう、彼らが知る現実とは完全に乖離した場所だった。
やがて霧が薄らぎ、集落の入り口と思しき場所が姿を現した。そこには朽ちた鳥居が立ち、その奥には赤く描かれた渦巻きと目の模様が、泥と血で歪に浮かび上がっていた。
「到着したらしいな」
雷蔵の声はかすれ、嫌悪感をこらえるような響きを帯びていた。その奥に広がる光景を見た透真もまた、自分の体が力みで震えるのを抑えることができなかった。彼らが足を踏み入れたのは、完全に人間の壊れ果てた胎内とでもいうべき場所だった。そのことを、三人とも本能で悟っていた。
3-2. 腐胎
その場所は、人の住まう集落というより、朽ち果てた肉体の胎内だった。竹と油布で粗末に覆われたテント群が、朽ちた鳥居の奥に歪に並んでいた。そのテントの入口には、赤黒く濁った泥が塗られ、ぬらぬらと濡れている。透真が一歩踏み出すたびに、靴底が粘着質のそれに吸いつき、鼻を刺す腐臭が肺の奥深くまで染み込んだ。
入り口脇に散乱した骨は、不自然に折れ曲がり、歯や指らしき干からびた部位が点々と埋もれている。それらは無造作に放置されながらも、何かの儀式の一部のように奇妙な秩序を持っていた。透真は視線を逸らしたが、視界の端にちらつくそれらの残骸は、嫌でも目に焼きついた。
奥のテントから異形たちが次々と這い出してきた。その姿はどれも人間の形状を崩し、恐ろしいまでに不均衡だった。ある老人の四肢は長さが不揃いで、欠け落ちた指先からは骨が鋭く突き出ている。別の者は歯が全て抜かれ、口元は崩れた肉と粘液で覆われていた。
彼らの寝床は獣の毛皮や、人間の衣服を引き裂いて縫い合わせたもので、血や泥、カビがこびりついて元の色は全く判別できないほど汚れている。脇に置かれた乾いた子どもの指や、ひからびた動物の死骸が奇妙な装飾品のように吊るされていた。
岩穴の中では、頭蓋骨やミイラ化した赤子が無造作に転がっている。透真は目をそらしたかったが、そこに蹲る老人が、骨に触れながら低い嗚咽を漏らし、涙を流す様子から目を離すことができなかった。その悲痛な姿が逆に生理的な嫌悪を強烈に刺激した。
「人の姿をしているだけで、もう人間じゃねえよ」
雷蔵の声は吐き捨てるようだったが、その響きに力はなかった。彼もまた、この場所の圧倒的な穢れと異常さに飲み込まれつつあるのだ。
透真はふと、テントの隙間から内部を覗き込んだ。そこでは老人が生肉を歪な音を立てながら舐め回し、骨の髄を啜っている。その目は白濁して焦点を失い、口元から垂れた唾液が糸を引いて滴り落ちていた。
「……これは、生きていると言えるのか?」
透真の呟きは誰に届くでもなく、濃密な腐臭と呻き声にかき消された。周囲を取り巻く異形たちは、彼らを取り囲むように集まり、石を叩き、唾を吐きかけ、牙を剥き始めた。その動作には明らかな呪術的な意味が込められており、透真たちを完全な『よそ者』として忌避する感情が滲んでいた。
テントのあちこちに描かれた無数の『目』の落書きと、粘液や血で描かれた渦巻き模様が、嫌な錯覚を生んだ。それは彼ら自身が観察され、逃げ場を失っていることを明確に示していた。
喉が潰れた者たちの嗄れた呻き声が空気を濁し、乾いた舌打ちと骨をカチカチと鳴らす音が重なり合う。そこに時折混じる「クグ、ホグレ……」「カミノミ……」などという不明瞭な単語は、壊れかけた言語が最後に紡ぎ出した悪意と祈りだった。
「透真、もう限界だろ」
雷蔵が低く呻く。彼の顔色は土気色になり、怒りを通り越した深い嫌悪と苛立ちが溢れていた。しかし透真は小さく首を横に振るしかない。なぜなら、この場所の奥深くに彼らを引き寄せるような力が、強制的に彼らを飲み込もうとしていたからだ。
「まだ……終わりじゃない」
灯里の瞳には何かを見届ける決意が宿っていた。彼女は、この集落の底知れぬ狂気に囚われながらも、それを観察する義務感に従っていた。
テントの中から一人の老人が這い出てきた。彼は自分の頭を何度も岩や木に叩きつけながら祈っている。その度に頭皮が裂け、血と髪が床に粘りついた。その祈りは、まるで狂気に満ちた儀式のようだった。
透真は深く息を吸ったが、肺には腐った空気しか入らなかった。吐き出す息さえも重く湿り、唾液が苦く喉元に絡みついた。
この場所は狂気と呪いが混じり合った歪な胎内だった。その事実を目の前に突きつけられ、透真はただ震える手を握り締めるしかなかった。
「私たちはもう、完全に飲み込まれているわ」
灯里が静かに呟いた。その言葉は三人の心を鋭く貫き、底知れない虚無感とともに胸に沈んでいった。彼らは、ただ、この地獄の胎内に引き込まれていくしかなかった。
3-3. 巫母
不意に、集落の奥から重々しい音が響き始めた。それは肉と骨が湿った地面を擦るような、生理的に耐え難い軋みだった。
霧の奥から現れたそれは、ゆっくりと、ズズ……ズズズ……と、重い体を引きずりながら進んできた。その巨大な頭部は常人の十倍以上にも膨れ上がり、幾重にも巻きつけられた布は血と唾液にまみれ、腐敗し黒ずんだ血痕が模様のようにこびりついている。布の表面には無数の目が赤黒い泥で描かれ、まるで生きているかのように透真たちを追い回していた。
重すぎる頭部は、まるで支える首を折るかのように左右に揺れ、軋む骨の音が聞く者の神経を擦り切れさせる。唇からは血と涎が垂れ落ち、地面の苔に滲み、どろりとした泡を作った。
「あれは……長か? いや、長というよりは、あの服装──巫女か? 透真、あれは?」
雷蔵の言葉は、吐き出すように歪んでいた。
「人間ですが、完全に『混じって』います。あの頭部も……仮面ではない、紛れもない本物です」
その異形の女は両腕に乾燥しきった赤子のミイラを抱き、それをまるで生きた我が子のように揺すりながら近づいてくる。
「オオズミ」
突然、異形の女が言葉を発した。
「──オオズミ? 名前なのか?」
雷蔵が不審そうに呟くと同時に、異形の女──オオズミが抱いていた赤子のミイラの腕が肩からもげ、落ちた。しかしオオズミは、気にする様子もなく、愛おしそうに赤子のミイラを抱き、細長く捻れた舌で舐め回し始めた。
幾重にも頭に巻かれた布の隙間から覗くその瞳には白濁が浮かび、もはや物を見ることのできる目ではなかった。しかし布に描かれた無数の『目』だけが異様な執着をもって雷蔵たちをじっと見つめ続けている。オオズミの口元から途切れ途切れに漏れる不明な言語は呪詛めいた響きをもっていたが、『還る』『霧の常世』『見届けよ』と、断片的な言葉を辛うじて拾うことができた。
その言葉は狂気に満ちていたが、そこにはまた抗いがたい命令の響きと、歪んだ母性が混じっていた。灯里は息を殺して、硬直したままオオズミを見つめている。その瞳には、深い悲しみと共感のようなものさえ浮かんでいた。
異形たちはオオズミの声に呼応するように呻き、ざわめき、喉の奥で濁った音を立て始める。その不気味な合唱が空間を満たし、霧の奥からは石を叩く音がリズミカルに響き渡った。
「これが、ここで言う『還る』ということなのか?」
雷蔵が苛立ちと嫌悪を隠さず吐き出すと、透真も小さく頷いた。目の前に広がるのは、狂気そのものだった。
3-4. 血祭
オオズミの呻きを合図に、集落全体がうねるように動き出した。異形たちは顔に血と泥を塗り、指で自らの目を潰し始める。何人かは骨を口に咥え、噛み砕きながら呻き続けた。その姿はまるで狂気に酔いしれているようで、彼ら自身の内側で何かが崩壊しつつあるようだった。
「ここまで壊れてなお、生き延びてきた意味があるのか?」
雷蔵は拳を固く握り、呟いた。武道の家に生まれ、武士道の思想を持つ彼のその眼差しにはまるで、見苦しいものを見るような苛立ちを超えた怒りが漂っている。
「延命することそのものが、忌避されてきた彼らにとっての復讐の呪いなのかもしれない」
透真は顔をしかめ、その言葉を発した瞬間、自らが狂気の沼に片足を沈めている感覚を覚えた。元は古い日本語であっただろう彼らの言語は、信仰の影響か、それとも他の要因か──変貌し、呻きや舌打ちの合間に、『ホグレ』『クグ』という意味不明の単語が響くばかりだった。
「もう、この世の理での救いはないのね……」
灯里は小さく囁き、その場に立ち尽くすしかなかった。彼女はもう、観察者としてしか存在し得なかった。
オオズミが再び声を上げると、集落の中央にある巨石に異形たちが群がり始めた。その巨石には、人間の頭蓋がぴったり収まるほどの深い歯型の凹みが刻まれていた。異形たちはその凹みに頭を押しつけ、歓喜と絶望が入り混じった陶酔状態に陥っていった。
雷蔵は歯を食いしばりながら、目の前の光景を見続けた。その背中は怒りで震えていたが、手を出すことはできなかった。彼らが目撃しているのは、人間の崩壊していくどうしようもない過程と、その底知れぬ闇そのものだった。
3-5. 胎動
灯里が小さく呟いた。
「境界が──開く」
その瞬間、巨石の周囲を深い霧が覆い始めた。透真は急いで透視の能力を試みたが、霧に視界は揺れ動き、焦点が全く定まらない。ただひとつ、明確に認識できたのは霧の奥の巨大な頭部の輪郭だった。その頭部は異常に膨れ上がり、内部には光が届かぬ漆黒の空洞が広がっていた。仮面ではない。オオズミと同様、肉そのものが肥大している。霧山窩の仮面はあれの模倣だ。
(あれが──)
透真は視続けるのは不味いと直感した。『邪視』とは異なる。いわゆる荒御魂のような格も感じない。しかし、それと視線が交錯したほんの一瞬、どうしようもない寒気が彼の首筋に這い上がった。
「──あれが『オ』なのか?」
オオズミは再び不明な言語で何かを告げ始めた。異形たちは今度は一人ずつ、陶酔しながら霧の奥の巨石に向かい、その頭をゆっくりと石に沈めていく。
ぬちゅ、ぐちゅ……
頭蓋が凹みに押し込まれるたび、血泡がぶじゅぶじゅと音を立てて溢れ出す。その音は生理的に耐え難く、雷蔵たちはもはや言葉すら失っていた。
彼らはただ、この狂気と絶望の儀式を目撃するしかない。異形たちの呻き、笑い、骨を砕く音、血と唾液の匂いが混じり合い、世界そのものが狂気の中に溶け込んでゆくようだった。
雷蔵は呆然と立ち尽くし、透真は『透視』で視る狂気の色の奔流による目眩を堪え、灯里は静かな諦めをもってその全てを見届ける覚悟を決めていた。
彼らはもう、引き返すことのできない場所に来てしまった。ここは狂気の胎内であり、終わりのない絶望が胎動している場所だった。
Xの作品アカウントでは告知の他、怪異の正体のヒントや140字怪異録等も発信しています。ご気軽にフォロー、交流をどうぞ。
https://x.com/natsurou3




