CASE016-2 巨頭オ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 埋毒
夜明けは静かに訪れた。眠りとも覚醒ともつかぬ曖昧なまどろみから透真が目覚めた時、最初に気づいたのは空気の濃厚さだった。湿った畳がじっとりと背中に張りつき、壁の染みは一晩でさらに広がっているように見えた。糸を引くようなカビの臭いが鼻腔を這い上がり、彼は小さく咳き込んだ。
屋外では、霧の奥からカラスが気だるげに鳴き交わしている。その声は悲鳴にも聞こえ、遠く、不快に響いた。
「ここは、まるで……」
廃屋の中を改めて眺め回した透真は、壁や床に染み込んだ何かが、この場所の過去を薄く閉じ込めているように感じて言葉を止めた。何か、忘れ去られた死の残響のようなものがそこにはあった。
「透真くん、ここに……」
灯里が指さした床板の隙間には、小さな動物の骨片と欠けた歯が丹念に並べられていた。それは偶然ではなく、明らかに意図的な配置だった。整然としていて、だからこそ気味が悪い。
透真は棚に残っていた朽ちかけた日誌を手にとる。傷みと虫食いで断片的にしか読むことはできなかったが、おおよそは、『オ』に関わる者とは目を合わせるな、踏むな、近づくな──そんなさりげなく埋め込まれた日常の痕跡が読み取れた。
「オに関わる者? 看板に書かれていた『オ』か?」
「可能性が高いのは昨晩の連中でしょう。あれを恐れてこの村を捨てたか、あるいは──」
不審がる雷蔵のつぶやきに答えた透真の胸に不穏さがざわつき、彼は屋根裏へ目を向けた。そこには古びたお守り袋と、小さく編まれた藁人形が埃をかぶって吊り下げられていた。人形に縫い付けられた紙切れには、『見るな』という乱暴な文字が殴り書きされている。
(見るな、か……)
無意識に力が入った手をゆるめ、透真はお守り袋をそっと放り出した。袋は柔らかい音を立てて床に落ち、埃を巻き上げる。その埃が鼻を刺激して、透真は再び咳き込んだ。
雷蔵がそんな様子を見て、不機嫌そうに顔をしかめる。
「なるほどな。村で起きたよくないことを、ああいう連中の呪いってことにしてたんだろうな」
彼の言葉には苦々しい冷笑が混ざり込んでいた。雷蔵の言う通り、この廃村に残された痕跡は、昨晩の異形の存在への露骨な嫌悪と排除の跡のように透真は感じた。
壁に刻まれた子どもの小さな落書きにも、『目を合わせるな』『近づくな』と乱れた筆跡で繰り返し書かれている。その幼稚な字が、かえって残酷さを際立たせているように見えた。
「……ったく、ガキにこんなことをさせる『大人』が、一番腹が立つぜ」
「これは──ただの嫌がらせ以上に、何世代も重ねられた手順がある。形式が、むしろ異常に丁寧だ」
「排除する側も、怯えてたのよ。だから形式を作って、守り続けた」
灯里の声は淡々としていたが、目は深い悲しみに満ちていた。彼女の視線を追って再び床を見ると、小さな骨片は鋭く並べられたまま、何かを語りかけるように存在している。
「……この場所は、徹底的に『呪い』に囚われている」
透真は小さく吐息を漏らした。だがその『呪い』とは、この村にかつて生きていた人々自身が作り上げた、陰湿で執拗な毒だった。
2-2. 禁忌
陽がさらに高く昇る頃、透真たちは廃村の外れにある旧家跡の物置小屋へ足を運んだ。半ば崩れた木造の扉を開くと、中から湿った紙の古い臭気が漂い出す。埃とカビが視界を薄く覆い、小屋の奥に並ぶ棚のひとつが半壊しているのが見えた。
透真は慎重にそこへ近づき、手を伸ばす。指先が触れた紙束はじっとりと濡れて冷たく、腐りかけのような感触がした。それは古びた村史のノートと手製の絵巻物だった。ページをめくるたび、差別と呪いが濃縮された言葉が目に飛び込んでくる。『霧谷』『おおずみの沢』と記された地名が赤い墨で乱暴に塗りつぶされ、『禁足』『祟』という文字が幾度も殴り書きされていた。その筆跡は震えていて、書いた者の恐怖や嫌悪が透真の指先を通して伝わってくるようだった。
「透真くん、見て」
灯里が掲げたのは、一枚の古い手紙だ。
『今年も霧山窩が山を下りてきた』『あれに近づくと目が腐る』『霧山窩に見られた子は、夜泣きが止まらない』
そこには明確な悪意があり、執拗な忌避と排除の意識が込められていた。
「恐怖の対象化……霧山窩、彼らの呼び名か?」
透真が呟くと、灯里は静かにうなずいた。
「呪いって、村人みんなで作るものなのね」
彼女の言葉は淡々としていたが、その意味は深く鋭かった。村人たちが繰り返し口にした言葉が、『呪い』という名の差別を文化として形作り、土壌に染み込ませてしまったのだろう。
神社の古札には『オのもの入るべからず』という文字が書き殴られ、参道の石には『目』の落書きが削り取られていた。それはまるで、そこにあるだけで『穢れ』を招くものを徹底して拒絶する儀式のようだった。
雷蔵が再び舌打ちをした。その響きは、忌々しさと共に彼自身の苛立ちを示していた。
「……ここまで徹底してると、逆に何を恐れてるのか気になるぜ」
「──たぶん、ただの病や障りのレベルじゃあねえな。もっと土着的な信仰や禁忌……下手をすれば山の神そのものの扱いなんじゃねえか?」
透真は拾い上げた記録の束を睨みつつ、低く呟いた。
「民俗的な記録にも、山の神格化はよくありますが──」
灯里がぽつりと口を挟む。
「文献によれば霧山窩の一派自体、もともとの山窩の中でも異端で、追放されてこの土地に流れ着いたんでしょう? しかも、村人も山窩とはある程度は交流していたのに、霧山窩だけは徹底的に排除してきた。その異端と差別が、血筋を狭くさせて……」
「異形化──いや、畸形の原因か」
雷蔵が短く相槌を打つ。その目は冷淡だった。
「『オ』ってのも物の怪か呪われた神か──それとも、気に入らない奴を追い出すために、村の連中が好き勝手に神話作っただけじゃねぇのか。神だ祟りだって言えば、何やっても正当化できるとでも思ってやがる。結局、自分の手ぇ汚したくなかっただけだろ」
「でも、追い出したあとも怖がってる。呪いにしたのは、不安だったから」
「理屈が壊れた時に禁忌が立ち上がる。感情論じゃ済まない。ここは社会の自衛本能が暴走した跡地、と言えます」
三人の間に、息苦しい沈黙が流れた。禁忌も呪いも、もはや人為と信仰の境目すら見えなくなっている。その正体を突き止めようとすること自体、既に危ういのかもしれなかった。
「人間の底知れない悪意、そしてその連鎖でしょうね」
透真は低く呟き、紙束をそっと棚へ戻した。手のひらに残った湿り気は、まるで過去から這い出した怨念のようで、拭ってもなかなか消えなかった。
彼らが目の当たりにしたのは、土着的で執拗な差別が形作る、村人の集合的な呪いの地層だった。それはまるで、彼ら自身も飲み込もうとしているように見えた。
2-3. 童唄
廃屋を出ると、光は再び濃霧に呑まれていた。曇り空は鈍色で、わずかな風さえ止んでいる。廃村の空気はますます澱み、息苦しいほどだった。
灯里は村の中央付近に残された掲示板の前で立ち止まった。そこには崩れかけた掲示物や色褪せた張り紙が並ぶが、彼女の視線は子どもが描いたと思われる落書きに注がれていた。
「……『オがくるぞ』?」
灯里の指が触れたチョークの跡には、不揃いで稚拙な文字が乱れている。それはただの落書きではなかった。恐怖を遊びに紛らわせようとした、子どもたちの切実な痕跡だった。
「鬼ごっこの一種ね……」
透真も掲示板の文字を辿りながら呟いた。そこには『頭の大きい子が鬼役』『見えたら呪われる』『追いつかれたら山の中に連れていかれる』という、陰惨な遊びのルールが細かく記されている。遊びとはいえ、それは明らかに排除と差別を織り込んだ陰湿な儀式だった。
近くの壁にも同じような文字が記され、その横に小さく崩れた童唄が書かれていた。
『おおずみの やまこえた みみもぐら くちをふさげ
めをみたら おしまいよ よるのうちに おにがくる』
意味の曖昧な言葉の連なりは、どこか呪術的で、不気味なリズムで耳に残る。特に『目を見たらおしまい』という一節は、『視る』恩寵を持つ透真の胸に鋭く刺さった。
「ちっ、こんな遊びをガキにさせるなんてな……」
雷蔵が吐き捨てるように呟いた。その表情には怒りがはっきりと浮かび、唇は軽く震えている。
「呪いや差別ってのは、こうやって伝染していくのさ。ガキのうちに染み込ませて、大人になった時には当たり前のことって訳だ」
彼の言葉に、透真は強く頷く。差別や呪いは社会の隅々にまで埋め込まれ、そこに生きる人々自身が無自覚にそれを再生産しているのだ。掲示板に残る幼稚な落書きや童唄は、その冷酷な仕組みを透真に突きつけているようだった。
「ガキは大人の言うこと、信じちまうんだよ──俺だってガキの頃は親の顔色ばかり見てた。冗談じゃねぇ」
「子どもの遊びまでが差別儀礼と融合する。それが伝統という形で残るのが、こういう土地の本質なんでしょう」
灯里は黙ったまま、小さく指先で唄の文字をなぞった。その手は静かに震えている。透真には、その動作が彼女の内側に沈む悲しみや虚無感の表れに見えた。
耳の奥に、呪術的な唄のリズムが小さくこだました気がした。
2-4. 穢れ
三人は村の奥へ進むにつれて、村人たちの禁忌意識をより生々しく感じ取っていた。崩れかけた古い家の前を通ると、湿った空気に混じって強烈な獣臭が漂ってきた。透真はふと、村史のノートに記されていた忌避の言葉を思い出す。
『霧山窩の手は泥と血。オの子は山の骨。つきまとわれたら、ふりかえらぬこと』
村人たちはこの場所を徹底的に避け、『霧山窩』と『オ』を恐怖と穢れの象徴としてきたのだろう。彼らが異形を忌み嫌うのは、もはや本能に近かった。
村の伝承には、臭いや声についての記述もあった。
『あの者たちは獣の匂い、声は石の中で潰れて響く』
透真は息を呑む。あの異形たちの呻き声を聞いた瞬間を鮮明に思い出したからだ。それはまさに、石の奥で何かが潰れて出てくるような音だった。
「差別と呪いが、完全に境目を失っている……」
灯里が静かに呟く。その言葉は的確で、透真も強く同意せざるを得なかった。恐怖は忌避を生み、忌避は差別を形作り、そして差別は村人たち自身を呪いという名の穢れで支配しているのだ。
『夜に三度、山が笑うときは、門を開けてはならぬ』
呪術的な戒めは、村人たちの日常の細部にまで浸透していた。それらは子どもの耳にも届き、大人になるまでに完全に心と体に刻み込まれていく。
「もうこの村自体が、呪いに取り込まれてしまっている」
透真は周囲を見回し、呟いた。何気ない廃屋や道端に転がる石ころでさえ、全てが差別と呪いの一部となり果てているように感じられた。
雷蔵は腕組みをして唸り、小さく首を振った。
「この村のやり方、胸糞悪いどころじゃねえな。むしろ、恐ろしく冷静で理性的だ。それがかえって……」
彼は言葉を切ったが、その先を透真は容易に想像できた。差別が狂気を帯びるほど徹底されるのは、常に静かで理性的な憎悪が背景にあるからだ。社会全体が差別を『正当化』し、『合理化』するほど、その毒は濃くなる。
「どんな理屈つけても、やってることはリンチだ。正当化したぶんだけ根が深ぇ」
「冷静な差別ほど厄介です。理性で正義を捻じ曲げて……こっちが狂ってる気分になる。──本当は、俺も少し安心したくなるんです。何か『理屈』があれば、恐ろしいものを切り分けて済ませられるから」
湿った風が吹き抜け、何処か遠くで石を叩くような音がした。灯里の表情は硬く、視線は遠い。
「狂気が日常になるということは、それ自体が最も怖ろしい呪いなのね」
彼女の言葉に、透真は沈黙で頷いた。ここで目にしたものは、ただの廃村の光景ではなかった。それは土着の狂気と差別が織り成す深い沼地であり、そこに足を踏み入れた透真たち自身もまた、その沼に引き込まれつつあるように感じた。
2-5. 境界
霧が再び濃くなった。村の奥深くに踏み込むと、そこはさらに空気が濁り、腐臭と湿った土の臭いが濃密に絡み合っている。透真は靴底にまとわりつく泥の感触に顔をしかめながら進んだ。
廃村のはずれに朽ちた鳥居が立っている。その足元には砕かれ、削り取られた石碑が半ば埋もれていた。透真はその石碑の文字が、誰かに意図的に破壊されていることに気づく。鋭く深い痕跡が刻まれ、『オ』を拒絶しようとした強烈な意志が伝わってくるようだった。
「ここが、境界のようね」
灯里がぽつりと言った。彼女の視線の先には、『目』を潰された人形や動物の頭骨が積まれている。泥や苔にまみれたそれらの遺物は、この境界を超えた先に踏み入れることを頑なに禁じるように、不吉な存在感を放っていた。
「ええ、ここから先は明らかに『領分』が違いますね」
透真の言葉に灯里は静かに頷いた。その横で雷蔵は険しい顔をしている。眉間に深く刻まれた皺が彼の心情をよく表していた。
「これほど徹底的に『境界』を作る理由が、分からねえ」
彼の吐き捨てるような言葉には怒りと困惑が滲んでいる。なぜこれほどまでに恐れ、これほどまでに拒絶しなければならなかったのか──その根源的な疑問が彼を苛立たせていた。
不意に遠くから、規則的に石を叩くような音が聞こえ始めた。『カン、カン』という乾いた響きは霧を貫き、耳の奥に不快に残る。三人は思わずその音が聞こえる方角を見つめた。
「呼んでいる」
灯里が囁く。その声は微かに震えていた。呼ばれているのは、間違いなく彼ら自身だ。その予感は三人ともが共有していた。
透真は深く息を吸い込み、肺を圧迫する湿気と臭気を呑み込む。境界の向こうに潜むものが人間の領域を侵すことへの忌避、そして自らがその領域に足を踏み入れてしまったことへの嫌悪が彼の胸を強く締めつけた。灯里は静かに口を開いた。
「進まなくてはいけない。これは、私たちの役割だから」
透真は黙って頷いた。雷蔵は舌打ちをし、苦い表情を隠さないまま先頭に立った。『境界』を超え、踏み込んだその一歩は、重く泥濘に沈んでいくように感じられた。
2-6. 心蝕
村の奥深くに進むにつれ、三人の精神は徐々に摩耗していった。沈黙が長く続き、透真は自らの呼吸音が耳障りに感じられてくるほどだった。足元は泥でまみれ、形容しがたい腐臭がまとわりつくような錯覚すらある。
「ここまで徹底するほど、なぜ恐れた?」
雷蔵が不意に吐き捨てた。苛立ちが明らかに増幅している。その言葉には、異形の者たちよりも、彼らを差別し、排除し、呪いを固定化した人間社会への不快感が滲んでいた。
(差別を作り出すことで、異常が常態化する。そして後戻りできなくなる。それこそが本当の呪い、か──)
透真は自分の内心が虚しく響くことに気づいた。異常が日常に溶け込む──特対室に身を置いたその日から、彼自身が体験してきたのだ。まるで自身も呪いの中に生きていると認めたようで、目に映るすべてがどこか歪んで見えるような錯覚さえ覚え始めた。
「まるで、呪いと差別が混ざり合って溶け合った、無限の連鎖ね」
灯里の静かな言葉には深い悲しみと諦めが感じられた。彼女の瞳はいつもよりも暗く、世界の理不尽を受け入れてしまったかのように見えた。
三人が進む道には、さらに歪んだ痕跡が濃密に散らばっていた。潰された『目』を模した石が道端に転がり、苔むした岩には乱れた文字で呪詛が刻まれている。湿った風がその文字を撫で、かすれた響きを立てた。灯里は不意に立ち止まり、周囲を見回した。
「ここから先は、もう後戻りできない場所」
「後戻りする気は、最初からないさ」
雷蔵は怒りを吐き出すように言ったが、彼もまた、これから見るのが間違いなく、胸が悪くなるものであると理解している。
遠くで再び石を叩く音が響き始める。それは規則的で、呪術的なリズムを持っているようにも聞こえた。三人は黙ったまま顔を見合わせ、それ以上言葉を交わさずに進んだ。
透真の胸には重いものが沈んでいた。それは恐怖や不安というよりも、もっと根源的な嫌悪だった。現代と違い治安が安定しているとはいえない、しかも山奥だ。外部の者から自身たちを守るためには必要なことだったのだろう。理屈ではわかるが、しかし、人が差別を内面化し、狂気を常態化するその過程を目撃しているということ自体が、彼に耐えがたいほどの不快感をもたらしていた。
「ちっ……いっそのこと、もう──全部ぶち壊してやりたいくらいだ」
「でも──壊しても何も終わりません」
怒りをあらわにする雷蔵に、透真が呟くように答えた。灯里は静かに前を見つめたまま口を開いた。
「この先にあるのは、きっと救いようのない場所。私たちはただ、見届けるしかないのかもしれない」
その言葉は、透真の心を深く蝕んだ。彼女が感じている悲しみや諦めは、透真自身も共有し始めていたからだ。
遠くの霧の奥で、再び石が叩かれる音が、ゆっくりと彼らを呼んでいた。音は止まらず、三人を誘うように規則的に続いている。その音は徐々に彼らの内側にも響き始め、心を浸食していた。三人は境界を越え、差別と呪いが渦巻く深い沼の中心へと、ゆっくりと飲み込まれていった。
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