CASE:002-4 きさらぎ駅
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
4-1. 潜入
美優は拳をぎゅっと握りしめた。
ポケットの中、和紙の感触がほんのわずかに指先へ伝わってくる。
その頼りない質感に、意識を集中させる。
「お願いね、ネズミさん」
囁くように、けれど確かな意志を込めて言葉を置いた。
その瞬間、手のひらから熱がふっと抜けた。
──式神の気配が消える。
気づけば、美優の膝の上にあった小さな依代紙人形は、もうそこにはなかった。
ドアがいつのまにか静かに開かれている。
冷気とも、圧力ともつかない何かが、外から吹き込んでくる。
彼女は目を閉じ、じっと呼吸を整えた。
ホームの方を見たい衝動が喉元までせり上がる。
だが、そこで頭の奥に、ある声がよぎる。
──絶対に降りるな。
蜘手創次郎の、あの飄々とした男にしては異様なほど真剣な声音。あれは、冗談でも脅しでもなかった。
(降りるなんて、ありえない……)
実際、頼まれても降りたくはなかった。あのドアの先にあるのは、風景などではない。"景色"という言葉で呼ぶには、あまりにも異質で、沈殿したような気配。
濃度の高い闇。
見えていないのに、"何か"が蠢いている気がする。
果てしなく黒く、底知れず、息を潜めたものたちが潜む領域。そこに、ネズミ式神は足音もなく、悠々と進んでいく。
小さな背中は、頼もしくもあり、不安でもあった。紙人形のはずなのに、あれほどまでに存在感を持っているのは、美優にしかわからないだろう。
電車は止まったままだった。誰も乗っていないはずの車内。機械の唸り音も、車軸のきしみもない。ただ、"時間"だけが停滞している。降りる気はない──けれど、それが救いになるとは限らなかった。この沈黙は、確実に神経を削ってくる。
五分。
十分。
腕時計を見るたびに、針は確かに動いている。
でも、この空間は、まるで"外"と断絶されているようだった。
(まだ……? 戻ってこない……)
そのとき。
──プシィ、と空気の音。
閉まりかけたドアが、ようやく重たげに動き、金属音を残して閉じられる。
直後、電車はゆっくりと動き出した。
初速が異様に遅い。
車輪がレールを掴む音が、不自然に薄く聞こえる。
それでも、確かに電車は進んでいた。
美優は大きく息を吐いた。
肩の力が抜けるのを感じたときだった。
──視界の端に、人の気配。
「……え?」
正面の座席には、高校生らしき少女がスマホを操作していた。
隣の席には、サラリーマン風の中年男性。
端の席には、老婦人が静かに目を閉じている。
つい数分前、たしかに消えていたはずの乗客たちが、何事もなかったかのように"戻って"いた。
静かに、当たり前のように、誰も異常などなかったかのように。美優は混乱しかけた思考を、必死に押しとどめる。
(……戻ってきた? "いつのまに"……?)
乗客は、記憶を持っていない。
この空間の"異常"も、"駅"の存在も、何一つ気づいていない。
それはつまり──
ほんの数分、美優だけが"外れた世界"にいたのだ。
4-2. 共有
電車の揺れが止まり、美優はようやく深く息をついた。
「……時間、10分くらい経ってたよね……乗り換え間に合うかな?」
ふと現実に引き戻されるように腕時計を確認するが──遅延、なし。
表示された時刻は、時刻表通り。目の前にある現実は、何一つ乱れてなどいなかった。
さぎの宮駅。
淡々と電車が停まり、いつもと変わらないアナウンスが流れる。日常の仮面は完璧に貼り直されていて、さっきまでの出来事がほんの一瞬、夢だったような錯覚すら覚える。だが、美優の内側には、確かな"違和感"が沈んでいた。
──今の出来事すべては、確実に幻ではなかった。
ホテルに戻り、部屋のドアを閉めた瞬間、ようやく美優は重い肩の力を抜いた。制服を脱ぎ、洗面所の明かりをつける。
鏡に映った自分は、どこかぼんやりとしていた。あの駅で何を見たのか、何を"感じた"のか──言葉にできない輪郭のない感覚だけが、まだ肌の奥にこびりついている。歯ブラシを咥え、無意識のまま磨いていたときだった。
ポケットの中で、依代の紙片が──膨らんだ。
「……え?」
布越しに伝わる小さな動き。
指先でそっと引き抜くと、ネズミ式神がぴょこんと顔を出した。
「チチッチチッ」
わずかに掠れた鳴き声。あれだけ静かに消えていった式神が、何事もなかったかのように戻ってきた。洗面台の上に飛び乗った小さな影は、前足を動かし、ぴこぴこと美優に何かを訴えかけていた。──まるで、言葉を持たない手話のように。
「ん? ……おでこ?」
ネズミ式神はぴたりと動きを止め、次の瞬間、ちいさく頷くように鼻をひくひくと動かす。美優は一瞬だけ戸惑ったが、その直感に従うように、式神の頭へそっと額を近づけた。
触れた、その瞬間。
──視界が歪んだ。
ぐにゃりと空間の縁が溶ける。洗面台の照明が波打ち、鏡の中の自分の顔が崩れていく。重力の感覚が曖昧になり、足元のタイルの冷たさが遠ざかっていく。そして、意識の底に、何かが流れ込んでくる。
──これは、ネズミ式神の記憶。
見たもの、聞いたもの、感じたもの。
それらが、"言葉"ではなく、"感覚"で一気に流れ込んでくる。
小さな身体が歩いた、異界の構造。
目に映ったはずの景色が、どこか人間の感性とはズレていて、理解が追いつかない。
なのに不思議なほど、すべてが"わかってしまう"。
その瞬間、美優は確信した。
自分は今、ネズミ式神の"目"で──あの、きさらぎ駅の内部を見ようとしている。
4-3. 揺籃
ネズミ式神の見たものが、私の見たものとなる。
ネズミ式神の思考したことが、私の思考となる。
その感覚は、記憶を共有する、というよりも──「私がネズミ式神である」という錯覚に近かった。
視界は低く、世界は広大で、細部が異様なほど鮮明だった。風の流れ。床の震え。空気に含まれる微細なざらつきまでもが、肌の内側に染み込むように知覚された。
そして。
人間の目ではなく、式神の目で見た「きさらぎ駅」は、私たちが語る都市伝説の姿とはまるで違っていた。
──駅は、生きていた。
足元に広がるコンクリート。
しかしそこにあるべき"無機"の感触はなく、代わりに微かな、脈打つような感覚があった。目に見える形は"駅"であっても、その存在は建造物ではない。
しかし有機的ですらない。むしろ"概念の肉塊"──世界の仕組みのひと欠片が、剥き出しで存在しているような空間だった。
時間が壊れていた。
戦前の木造駅舎。
現代のホーム。
未来的で無機質な、異形のプラットフォーム。
それらが同時に存在し、重なり合い、視線を動かすたびに揺らめいていた。
「今」が複数存在している。あるいは、「今」というものが、そもそも一つではなかった。
そこに、誰かの声が混じる。
「マジでー、これエモすぎるんですけど」
若い女性の、無邪気な驚嘆。
それに重なるように、低く、湿った声が語りかける。
「月の光は波に消え……帰らぬ者の足跡を……誰が見るのか…」
古語とも違う、不思議な節回しの詠唱。
物語の"抜け殻"が、風に乗って揺れているような声。
だが──誰もいない。
声だけが残り、身体という容れ物はそこにない。それでも、声はこの場所に焼きついていた。あらゆる時代の断片が、この空間に沈殿している。
駅舎の壁に貼られたポスター。その文字を読もうとすると、まるで意識そのものが滑ってしまう。意味を掴もうとすればするほど、目が別の方向へ逸れていく。
「もしもし、お母さん?」
突如、耳元で囁かれたその声に、心臓が跳ねた。
公衆電話の受話器が、ゆらりと揺れている。
誰もいないはずのその傍に、何かの"気配"が残っていた。
視線を外へ移すと、異様な静けさの中に、遠い声が重なる。
「おーい、危ないから線路の上歩いちゃダメだよ」
優しげな、大人の声。
けれど、それは"思い出"のように、駅そのものに染み込んでいた。
過去、現在、未来──そのすべてが、ここではひとつの"地層"として積み重なり、同時に存在していた。この空間には、すべての時間が沈殿している。この駅は、そういう"場所"だった。
──太鼓の音が聞こえた。
ゆったりとしたリズム。それに重なるように、鈴の音。
何かを迎えるためのような、
あるいは、何かを鎮めるためのような、どちらともつかない響き。
これは祭か。葬か。
記憶か。未来か。夢か。
──否、それらすべてだ。
そして。
その先に、"人のような何か"が立っていた。
顔は、ない。視線を変えるたびに、姿の輪郭が変わる。子供のようにも、老人のようにも、誰かに似ているようにも──全く知らないもののようにも見える。それでも、確かに"こちらを見ていた"。
敵意は、ない。
だが、無関心でもなかった。
ただ、"存在している"だけだった。
さらに歩を進めると、闇の奥にトンネルが口を開けていた。
その先は、空間がねじれている。
──鳥居。
"それ"をそう呼んでいいのかもわからない。
だが、確かに美優はそれを"鳥居"と感じた。
ねじれ、歪み、交差し、折れ曲がりながらも、そこには"通過を許す構造"があった。神域と現世を分かつ境。それを、認識できない形で、ここに置いてあった。
言葉で説明できない。
だが、確かに"神の痕跡"だった。
──この空間は、神が触れた痕跡だ。
それも、こちら側の神ではない。
この次元に属さない、"あちら"の神。
そして、駅そのもの──この異界の空間全体が、
未だ、何かを──
ずっと、ずっと、ずっと、
待っている。
4-4. 詩
視界が、ぐるりと反転した。
天と地の区別が崩れ、世界の縁が歪んでいく。
内側に引き込まれるような感覚──いや、逆だ。
"世界のほうが"こちらへ侵入してくる。
脳が、焼けるように熱を持つ。
骨の奥から、じりじりと焦げ付くような感覚が這い上がってくる。
「……ッ、う、っ……!」
喉の奥から、耐えがたいものが逆流する。
反射的に洗面台にしがみつき、肩が大きく震える。
──嘔吐。
視界の端がにじみ、色彩が崩れ落ちる。
形を保っていたはずの現実が、泡立ち、ちぎれ、流れ出していく。
意識が壊れ始める。
脳が、理解を拒絶しはじめる。
ネズミ式神の見たもの──そのはずだった。
だが、今聞こえてくる"それ"は、明らかに違った。
──詩。
それは言語ではない。旋律ですらない。
"意味"が直接、神経へ流れ込んでくる。
名状しがたきものの名を、名もなきままに刻む震動。
──世界が、裏返る。
洗面所の鏡に映る風景が、ドロドロと崩れていく。
タイルの壁が蠢き、そこに泡立つ肉のような膜が浮かび上がる。
中に埋もれている。無数の眼球。
すべてが濁った液体の中で、静かに、だが確実に美優を見つめていた。
──詩が聞こえる。
意味を超えた調べが、美優の思考を灼いていく。
──きさらぎ駅の"目的"。
──その"存在理由"。
──この"世界"の真実の一端。
それらが、"音"として、ではなく、"本質"として染み込んでくる。
──世界のヴェールが剥がれる。
剥がれた先にあるのは、理性ではない。
理解してはいけない。
知覚してはならない。
しかし、共有してしまった式神の記憶が、美優の精神をその向こう側へと連れ去ろうとしていた。
──詩が響き渡る。
宇宙の根源を、輪郭のない"言葉以前の何か"で編み上げる、言語化不可能な調べ。
身体がついてこない。
皮膚が波打ち、骨が軋み、指先がほどけていく。
無数の糸が、肉を離れ、空間へと散らばっていく。
鏡に映る自分の顔が、粘性を帯びた塊へと変貌していく。
その内側で、管のようなものが脈打つたびに不快な気泡を吐き出している。
──自分が"溶けている"。
蛇口に絡みついた指先の糸が、固い感触を伝えてくる。
それは、骨の感触。ざらつきと冷たさを持った、"何かの構造物"。
触覚が変質していた。
水は、液体ではない。
ぬめりを帯び、体温を持った"肉"の感触だった。
(やばい、やばい、やばい──!)
鼓動が狂い、肺が空気を吸うことを拒絶する。
鉄と腐敗の匂いが鼻腔を満たす。
洗面所だと思っていたもの全体が、開腹された生き物の内側のように湿り気を帯びた臓物の臭いで満ちる。
血のにじむ壁面。
生き物の内側のような湿り気と熱気。
まるで自分自身が、巨大な肉塊の内部へ呑み込まれているようだった。
だが──馴染む。
理解してはいけないはずの"それ"が、美優の中に静かに根を張りはじめる。
恐怖を通り越した"適応"。意識の奥底で、何かが「納得」してしまう。
──その瞬間、美優は自分が叫んでいることにも気づけなかった。
言葉にならない悲鳴を、心の中で、何度も何度も上げ続けていた。
4-5. 還光
その時──
「チチッ──!」
耳の奥に確かに響いた、小さく、けれど鋭く、どこか切実な音。
次の瞬間、視界の端に光が走った。
一直線に迫る、一筋の輝き。
ネズミ式神だった。あの小さな身体が、疾風のように空間を切り裂く。そして、その身は光の粒となり、迷いなく美優の額へと飛び込んできた。
──眩い光が弾けた。
肉に似た壁が崩れ、溶け、剥がれ落ちる。歪みきった視界の中で、粘つく構造体が煙のように散っていく。無数の眼球が沈んでいた液体は、何の痕跡も残さず消えた。耳の奥に響いていた"詩"の残響も、遠ざかっていく。まるで、"理"という名前の光によって焼かれ、消毒され、削り取られていくようだった。
意識の底──
どこか遠く、深い場所で。
ネズミ式神がいた。
あの小さな存在が、美優の精神を必死に引き戻していた。細く、確かに繋がれた糸が、堕ちかけた心をこちら側へ引き上げる。光が、悍ましい記憶を焼き尽くす。
(……っ!)
歪んでいた世界が、反転する。
ねじれた洗面所の空間が元の形を取り戻し、照明の色が白く戻ってくる。天井、壁、床──日常という名の箱が、ようやく再構築される。
美優は、がくりと膝を折った。
崩れ落ちるように床に手をつく。
全身が冷や汗に濡れ、呼吸はひゅうひゅうと掠れている。
まだ心臓は早鐘を打っていたが、意識は──確かに"こちら側"にある。
──ネズミは?
その名前を思い出した瞬間、指が無意識にポケットを探る。
そこにあった。
だが、それはもう動かない。
焦げた紙片。
小さな四つ足を模していた折り目は、黒ずみ、崩れかけていた。
元はネズミの形をしていたはずのそれは、今は、ただの依代に戻っていた。
命を使い果たし、燃え尽きるように。
「……バカだなぁ……」
震える声が、かすれた笑いを含んで漏れた。
視界が滲み、鼻の奥が熱くなる。
この小さな式神は、自分のすべてを差し出して、狂気に囚われた自分を助けてくれたのだ。
誰にも命令されず、誰に褒められるでもなく、
ただ、当然のように──
そっと、焦げた紙片を胸に抱いた。
指先に、微かに残る温もり。
それはたしかに、最後の一瞬まで"生きていた"証だった。
「ありがとう、ネズミさん」
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