CASE:015-3 踏切向こうのドッペルゲンガー
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
3-1. 帰還
湿った夜の空気が薄れ、踏切一帯は夜明けに包まれはじめた。アスファルトにこびりついた雨の匂い、レールを伝う金属の冷たさ、すべてが静かで、けれどどこかざわついていた。
私は、片手に鉄パイプを握りしめ、物陰に身を潜めていた。額に貼りついた髪から、汗と雨と、見えない不安がぽたぽたとしたたり落ちる。制服の袖はもう、腕にべったりと張りついている。遠くの街灯が、水たまりの光を跳ね返す。その鈍い反射すら異様に鋭く目にしみた。
(ここで終わらせる。偽物は、きっとまたここに来る──)
自分の息づかいがやけに大きく、喉の奥で震えている。
掌に滲んだ汗が、鉄パイプの冷たさにじっとりと染みていく。
おあつらえ向きに、パイプの先端はねじ切れて尖っている。
この踏切──私の夜が壊れた場所。
すべてが歪みはじめた、あの最初の瞬間に帰ってきた。
ふと、周囲の静寂がひどく不自然なものに感じる。車の音がどこか遠くで切れていく。だが、その沈黙の底に、何か別のものがじわじわと混じっている。姿も形もないまま、じっとりと背中に貼りついてくる気配。
(ここなら分かる。ここなら、私が私だと証明できる)
ポケットに指を突っ込む。指先が触れたのは、昨日の朝、コンビニでもらったレシート。誰にも見せたことがない。あれには絶対に知り得ない、私だけのもの。私はゆっくりパイプを握り直し、喉の奥から声を絞り出す。
「来いよ……」
呟きは、思ったよりも小さく、震えていた。でも、それでよかった。自分の中の弱さを認めたほうが、妙に冷静になれる気がした。
ふと腕時計を見ると、午前四時四十七分。早朝だというのに、空気はさらに重くなっていく。街灯の光は失われ、まるで世界そのものが色あせていくみたいだった。鉄パイプを持つ手が、さっきからじんじんと痺れている。
『私』が来る。
私が怪異の発生地点に戻っていると見越して、必ずまた現れる。
たとえあれが私の顔をしていても、あれは私なんかじゃない。
(全部、私の中に詰まってる。朝のあくびも、昨日の嫌な夢も、誰にも言ってない心の中身も、私だけのもの──)
世界の音が、一度すべて消えた気がした。
心臓の鼓動だけが耳の奥で跳ねる。
湿気を吸った踏切のレールが、ほんの一瞬だけ脈打ったように見えた。
気配が、すぐそこに近づいてくる。
私は、パイプを持った手にぐっと力を込めた。
息を詰め、もう一度だけ呟いた。
「来い……今度こそ、全部終わらせる」
それは祈りではなく、決意だった。
3-2. 包囲網
ふいに、路地の奥から足音が響いた。
湿った空気を引き裂く、乾いたリズム。
私は思わず呼吸を浅くする。
視界の先、三つの影が浮かび上がる。
空気全体がじっとりと緊張感を孕んで染まっていく。
創次郎さん──
飄々とした気配は消え、鋭い目つきであたりを見据えている。
その隣、透真先輩は、どこまでも静かで冷ややか。
その後ろに、『私』。
まっすぐ、何のためらいもなく踏切に歩みを進めてくる。
まるで──二人を従えた儀式の執行人のようだった。
私は、胸の奥をぎゅっと鷲掴みにされる。
手の中の鉄パイプが、汗で冷たく重い。
(来いよ……)
心の中で叫ぶ。声にならない怒りが、湿った夜気に吸い取られていく。
三人の影が徐々に迫り、静けさを押しつぶす。
自分だけが異物で、都市のあらゆる光や音が敵になったように思えた。
物陰から飛び出すタイミングを探ろうとした、その時──遮断機が下りた。
「カン、カン、カン」
始発電車──赤いランプがじりじりと点滅し、プラスチックの棒が明け方の空間を横切る。世界が二つに分かたれる。
戦うための、想定していたルートが、ぱたりと消えた。
これでは袋小路だ。心臓が喉の奥で跳ねる。
制服の下の肌に、雨がさらにしみこむ。
静寂の中に、鋭い声が落ちてきた。
「そこだ」
透真先輩の声。その一言で、世界の温度が一段下がった気がする。
創次郎さんの目が、獲物を見据える獣のように細められる。
静かに口角を上げ、何かを見透かしたような気配を漂わせていた。
もうひとりの私が、真っ直ぐにこちらを見つめている。その視線は、憎しみも迷いもなく、ただ『正しいもの』の仮面をつけて、私を消そうとしている。
一歩、二歩──夜の空間を割って、『私』が近づいてくる。足音が、雨に濡れたアスファルトに低く吸い込まれる。
雨粒がランプの赤に照らされ、きらりと弾けた。私は、歯を食いしばり──踏切の金属の匂い、遠くの電車の唸り、全てを受け止めた。
もう後戻りはできない。
3-4. 封鎖
創次郎さんが、淡々とした声で言った。
「詰みだよ」
その一言が、夜の空気をさらに重たくした。彼の右手が、何かを摘み上げるようにふわりと動く。まるで、空中に見えない糸を操るような──そう、『操糸』。私の左右、空気がひんやりと重くなり、目には見えない壁が編み込まれていく感覚。
どこにも、抜け道は残されていなかった。
「やめて……やめろ!」
私は叫ぶ。声は自分でも驚くほどかすれて、涙混じりの喉の奥で小さく震えた。だが、誰一人、表情を動かさない。創次郎さんは、ほんの少しだけ眉を上げただけ。透真先輩は、最初から最後まで冷静で、微動だにしない。『私』──もうひとりの私は、沈黙のまま、じわじわと距離を詰めてくる。
私は震える手で、鉄パイプを持ち上げる。雨水と汗でぬるついた手のひらに、冷たい鉄がどこか現実離れして感じられる。その重みだけが、自分が「まだここにいる」と教えてくれていた。
けれど──『私』は無言でさらに一歩近づき、そのまま、まっすぐに私のパイプに手を伸ばしてくる。
「来るな! ……来るなッ!」
思わずパイプを突き出す。だが、『私』はわずかに手のひらを返し、その動きだけでパイプの軌道を外した。瞬間──「ザラ……」鉄パイプが、『私』の指先に触れた瞬間、何の抵抗もなく音も立てずに、『分解』されていく。あっという間にパイプは細かい粒子のようになり、風に紛れて消えた。
私は鉄パイプを失った勢いで体勢を崩し、片膝を地面についた。
その隙に、『私』の手のひらが、まっすぐに私の肩に伸びてくる。
自分自身のぬくもりに似ているのに、どこか冷たく、拒絶の気配に満ちた手。
もう逃げ場は、どこにもない。
3-5. 崩壊
……『私』の掌が、肩に触れた。
その瞬間──
すべてが、決定的に変わっていった。
皮膚の感覚が、まず溶けた。
自分の身体が、薄い霧になって、夜気にふわりと溶けていくようだった。
何かがこぼれる、どこかが壊れる。
目に見えるもの、耳に届くもの、指の先で確かに触れていた世界が、
ひとつ、またひとつと、静かに消えていった。
空気が冷たくも熱くもない、ただの無に変わる。
自分の中身が一枚一枚、薄いセロファンのように剥がれていく。
痛みも寒さも、最後は重さすら、もう感じない。
指先──
肩──
頬──
視界の端が白く霞み、目の奥で光が跳ねる。
自分の肉体が急激に透明になっていくのが、
驚くほど冷静にわかった。
ああ、消えるんだ──
指先から、腕から、
制服の袖も、泥のついたスカートも、
雨に濡れた髪も、
全部、夜に溶けていく。
ほんの一瞬、
「私は、ここにいた」
その実感だけが、胸の奥で弱く、ぽつりと灯る。
でも、その灯りも、次第に薄れていく。
鼓動の音が遠くなる。
雨の冷たさだけが、やけにくっきりと残る。
景色が、どんどん遠ざかる。
踏切の赤いランプが、小さく点滅している。
でも、その音すら、水中で聴くみたいにぼやけていく。
(消えたくない)
私は、どこかで必死にそう叫んだ気がした。
でも、その声は口からこぼれる前に、夜に散っていった。
誰かが、何かを叫んでいる気がする。
創次郎さんの声か、透真先輩か、
それとも私自身の叫びか──
もう何も、はっきりしない。
音も、形も、全部ぼやけていく。
身体が、世界が、
どんどん崩れていく。
心の中に、ぽっかりと空洞が空いていく。
自分が何者だったのかも、だんだんと消えていく。
雨の踏切──
その奥で、遮断機のリズムだけが静かに響いている。
カン、カン、カン……
赤い光のなかで、私は薄れていく。
制服の端、泥のついたスニーカーのかかと、
それらさえ、霧のように空気に溶けて消えた。
誰もが、ただ無言で、その光景を見つめていた。
声も、動きも、何もない。
雨だけが、静かに降り積もる。
私は、消えたくなかった。
でも、抗う力も、願いも、もう残っていなかった。
(あ、伯母さんに帰れないって言──)
最後の最後、
私であった何かが、夜に滲んでいく。
(さよなら──)
それすらも、誰にも届かない。
感情も、記憶も、やがて彼方へ流れていく。
遮断機の音だけが、遠い遠い現実の証として、雨の踏切に静かに残った。
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