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CASE:015-1 踏切向こうのドッペルゲンガー

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

1-1. 青の湿度


 湿った夜の匂いが、肺の奥にまでしみ込んでいく。微かな鉄とカビのにおい。井の頭線の軌道沿い、住宅街の隙間に沈むこの夜は、どこまでも薄い青に覆われていた。時刻は午後二十二時七分。私──南雲(なぐも)美優(みゆ)は帰宅の途についていた。予報では梅雨の中休みと言いながら、昼の雨の跡がしつこく地面に居座っている。アスファルトはまだ濡れて、運動靴の裏がぬちゃと静かに音を立てた。

 街灯の白い光が、遮断機の支柱やレールの銀色に、不自然なくらい鋭く突き刺さる。光の輪郭は少しだけぼやけて、空気の底に青白い澱を作っていた。誰もいない道。家々の窓からはカーテン越しに、あたたかそうな明かりが漏れている。


 唐突に、踏切の警報音が街を切り裂く。何もしていないのに、全身の筋肉が緊張する。踏切の赤ランプが、律儀に、間延びしたリズムで点滅する。

 上、下、……また上。

 私は制服の襟をきゅっと握った。湿った髪が首筋に張りついて気持ち悪い。手にはさっきコンビニでもらった袋。冷えたペットボトルの感触が、指先をじんわりと痺れさせている。ただ、家に帰るだけなのに──この道も、この踏切も、もう何度も通っているのに。どうして、こんなに胸が重い? 今夜は、どこかが決定的に違う気がした。


 夜の住宅街は、音すら消えていく。遠くで車のエンジン音。猫の鳴き声が一瞬だけ空気を震わせる。でも、そのすべては遠ざかり、私を包むのは、

 ──赤い点滅だけ。

 遮断機のランプが、瞼の裏に焼きつくように明滅する。昼間なら犬の散歩をしている人や、近所のおじいさん。なのに、今は。

 私は自分の脈を、首筋に触れて確かめた。指先が微かに震える。夜は、すべての物の輪郭を曖昧にする。自分がどこまで自分なのか、どこから誰かになるのかも。こんな夜は、境目がうすくなる。




 そのとき──

 線路の向こう側で、何かが動いた気がした。


 ほんのわずか。私の影か、夜の錯覚か。でも、確かにそこに誰かがいる。私は反射的に一歩、踏切の縁に近づいた。踏切の赤ランプが私を照らし、電車の車両が鋼鉄の質量を全身で主張しながら、轟音とともに横切る。レールが軋み、地面が細かく震える。その振動が足の裏から、ひざ、腹、喉まで這い上がってきて、思わず息を呑む。電車の通り過ぎる風が、生ぬるく、どこか埃っぽく私の顔を撫でる。視界の端で、電車の最後尾が夜に溶けた。


 静寂。

 私は、そこで硬直していた。

 まるで、世界から切り離されたような感覚。

 いつもなら、このまま歩き出す。

 でも、今夜は違った。


 ……視線の先。

 遮断機の向こう側。

 そこに、『私』が立っていた。


 制服も、髪の長さも、持っているコンビニの袋も。違うのは、ただ向こう側にいることだけ。その私は、同じようにこちらを見つめ返していた。私は、心臓が大きく跳ねるのを感じながら、その私を見つめ返した。静けさの中で、夜は一層青く、深く、沈んでいった。



1-2. 対岸


 髪型も、制服も、スカートの丈も、スニーカーの色も。

 額にかかった髪の癖すら、コンビニ袋の先のくたびれ方まで。

 向こう側の『私』は、何から何まで──完璧に私だった。

 あまりに滑稽なくらい、そっくり。なのに、全身を覆うのは、素肌の下に直接流し込まれるような強烈な違和感だった。


 私は、ごくりと息を呑んだ。すると、遮断機の向こうの私も同じように、胸を震わせる。ただの偶然にしては、呼吸のタイミングすら、あまりに一致しすぎている。一瞬──自分がどちら側に立っているのか、どちらの視線が本当の私なのか、ぐらりと意識が揺れた。


 ……電車が通る直前、あそこには誰もいなかった。

 絶対に。

 私は見ていた。空っぽの踏切。

 けれど今、向こう側の私の口元が、わずかに弧を描いた。

 笑うでもない、泣くでもない。

 それは、自分にしかできない、癖のある皮肉な微笑みだった。


 その刹那、背筋を冷たい氷柱で突き抜かれる。

 足元からぞわりと悪寒が這い上がり、頭の芯まで貫いた。

 夜の空気が、静かに膨張し始める。

 雨上がりの湿度が重くなり、肺の奥で何かが凝固していく。


 呼吸が浅くなる。

 音が遠ざかる。

 警報音も赤い点滅も、すべてが透明な膜の向こうに遠のいていく。


 (──あいつ、『分解』を持ってる)

 その確信が、心の底で鐘のように鳴り響いた。

 他人じゃない。あれは、私だ。私の力、私の癖、私だけの記憶──すべて知っている。

 でも、それだけじゃない。

 向こう側の私も、私の『恩寵』を持っている──そうとしか思えなかった。

 ……だとしたら。

 真正面からやり合えば、どちらかが消えるだけだ。『分解』──その力が何を意味するのか、私は痛いほど知っている。


 瞬間、身体が勝手に後ずさった。乾いた夜風が背中を撫でる。

 遮断機のバーが、カン、と高く短い音を立てて跳ね上がる。その音が、やけに遠い。

 向こう側の私が、一歩、静かに踏み出した。まるで、青黒い闇に染み出してくる影のような動きだった。私の視線が、無意識にその足先を追う。アスファルトの上で、もうひとつの私のスニーカーが濡れた路面を踏みしめる音が、ぼそり、と夜の底に落ちた。


 心臓が小さく跳ねる。

 私は、思考よりも先に身体が動いていた。

 踵を返し、濡れた道を駆け出す。

 夜の住宅街に、私の息遣いだけが浮かび上がる。


 胸の中で、何かが壊れそうな音を立てている。

 背後の私の気配が、ねっとりと追いかけてくる。


 振り返れない。

 もし振り返ったら、私が私でなくなってしまう。

 そんな予感が、足に力を込めさせた。


 夜の空気は、なおも重く──

 世界のどこにも出口はないような閉塞感が、私を包んでいた。



1-3. 逃走


 夜の住宅街──。私は息を詰めるようにして、全速力でその闇に飛び込んだ。

 スニーカーの裏が、濡れたアスファルトを滑るたび、ぬち、ぬち、と湿った音を立てる。夜風は生ぬるく、なのに汗は冷えていくばかりだった。背中に、何か生温い視線が貼りついて、私の体温をじわじわ奪っていく。

 振り返ることはできなかった。一度でも後ろを見てしまえば、あれと視線が交わった瞬間、私は私でなくなる──そんな予感が、喉もとに棘のように突き刺さる。


 私はただ、濡れた舗道を踏みしめて走った。

 全身に回る血が、砂鉄みたいに重い。

 息が切れ、肺の奥がじりじりと焼ける。

 心臓は、胸の内側で暴力的な音を立てる。


 制服のポケットで、スマートフォンが太ももにぶつかる感触。特対室の誰かに連絡しなきゃ──それだけは理解しているのに、指がどうしても動かない。LINEのアイコンも、電話のアイコンも、頭の中でぐにゃりと溶けていく。

 住宅街の路地裏。壁沿いに並んだ猫避けのペットボトルが、電灯の白光で不自然にぎらついていた。ペットボトルの中のわずかな水が、夜の光に乱反射し、無数の鈍い目玉のように私を見ていた。郵便受けに突き刺さったチラシが、微かな風でひらり、ひらりと揺れている。


 息を吸うたび、空気が喉を刺した。肺の奥で痛みが広がる。鼓動のリズムが、住宅地の夜の静寂に吸い込まれ、何もかもがやけに遠く、平面的に感じられる。

(とにかく、特対室まで──)

それが唯一の指標だった。それ以外、何も考えたくなかった。自分が誰なのかさえ、もう判然としない。

 途中の自販機──。赤と白の灯りが、薄暗い路地にぽつんと浮かんでいる。私は無意識に足を止めた。自販機のライトはジジジ、と低いノイズを立て、缶ジュースの色とラベルだけが現実感を持って宙に浮かぶ。

 誰もいない夜の路地。けれど、空気の底で誰かが息をひそめている気配が消えない。背後から、肌の内側を撫でてくる視線が、いつまでも離れない。私は自販機の脇に身を滑り込ませ、肩で大きく息をした。額から汗がぽたぽた落ちて、呼吸がうまく整わない。胸の奥がざわざわと騒ぎ、指先がびりびり震える。


 早く、どこか安全な場所へ──そうだ、電車で特対室まで──いや、でも、もし電車の中で鉢合わせたら──。葛藤しながらも、ふと視界に入ったフェンスの扉へ手を伸ばした。とにかく駅まで行って様子を見てから考えよう。そう思い、ショートカットするために指先に意識を集中させる。

(分解、分解……)

 心の中で呪文みたいに唱えながら、南京錠に触れた。

 ……何も、起きない。


 鉄はひんやりと硬いまま、ぬるりと夜露がついている。どこにも、『分解』の手応えはない。私の指先には、何の感触も訪れなかった。

「まさか……『分解』を、奪われた……?」

 つぶやいた自分の声が、妙に遠いところから響く。口の中が、急にひどく乾いた。舌が、誰か他人のものみたいに重たく、うまく回らない。

 私は、ただ手を握りしめているしかなかった。指の関節がぎゅっと白くなるまで力を込めて、それでも何も起きない。しばらくその場で立ち尽くした。心臓の鼓動と呼吸だけが、耳の奥でどんどん大きく響いていく。世界が、どんどん狭くなっていくようだった。


 ……自分の体が、自分じゃないみたいだった。何もかもが他人事のように、自分という輪郭が、夜の空気に溶けていく。

 足元のアスファルトに、夜露が淡く滲んでいる。スニーカーの裏がじっとりと濡れ、靴紐がいつもより重たく感じる。制服の生地が、汗と夜気でべったり肌に張り付いて、自分の体重さえ分からなくなっていく。

 遠くで犬が一声だけ吠えた。誰かの自転車が、油切れのチェーンをきしませて通り過ぎる音。そのすべてが、現実のものじゃなくなったみたいに、薄い膜ごしに響いてくる。


 自分が狩る側じゃなく、狩られる側になった。

 その実感が骨の奥まで染みた瞬間、私は初めて震えた。

 指先には、もう何も残っていない。力も、熱も、ただの痛みも。


 夜の闇は、私に味方しない。どこかで、もうひとりの私が──まだ、こちらを見ている。荒く吐いた息が、夜の闇に吸い取られ、音も熱も輪郭も、すべて消えていく。私はそのまま、じっと動けなかった。足も手も、誰かのものみたいに冷たい。

 壁際のペットボトルが、風もないのにカタリと揺れる。その小さな音に、全身の神経がびくりと跳ねた。さっきから、夜の気配は微かに、確実に、何かを孕んでいる。


 ──自販機のガラスに、自分の顔が映る。さっき見た向こう側の私も、こうやって息をひそめているのだろうか。それとも、もうすぐ追いついてくるのだろうか。喉の奥がからからに乾く。その一方で、背筋に冷たい汗がつうっと流れ落ちる。頭のどこかで「逃げろ」と叫んでいるのに、足は鉛のように重い。

 世界のすべてが、灰色のガーゼに包まれたような鈍い質感になる。都市の深夜──いつもは自分の味方だったはずのこの街が、今夜だけはよそよそしく、どこまでも他人行儀だった。


(──どうして。どうして、こんなことに)

 息を整えようとしても、喉が詰まり、肺が膨らまない。ふと、背中の方で小さな水音がした。それは、誰かの靴音か、それとも自分の幻聴か。どちらにせよ、私は再び足に力を込めた。


 まだ、終わっていない。

 逃げなくちゃいけない。

 私に、追いつかれる前に。

 私は、自販機の陰を飛び出した。


 夜の住宅街は、まだ深いままだった。湿気を孕んだ空気が、髪を、肌を、服の裾を、まるで溶けかけたゼリーのように絡め取る。足音を消そうと気を遣うほど、逆にぬちぬちと路面の音が耳に残る。路地を曲がるたび、電灯の明かりと明かりの間に生まれる闇の帯が、伸びては絡みついてきた。


 どこまで走れば安全なのか──

 どこまで逃げても、本当に逃げ切れるのか──

 答えは、誰も教えてくれない。


 ただ、夜の街が静けさの奥で、こちらのすべてを知っているかのように冷たいまなざしを向けていることだけは、どうしようもなく分かってしまった。



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