CASE:014-4 コチノワ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
4-1. 巡環
都会の喧騒はまだ遠く、世界はまだ完全に目覚めていない。公園は、澄みきった空気と遠くに聞こえる鳥の声に包まれていた。境内の片隅、昨日まで子どもたちの笑い声が響いていた鉄棒が、今は静かな鳥居に見立てられている。その下に、コチノワが丁寧に配置されていた。和紙の形代、淡く白い砂。全てが、過剰な演出を避け、慎ましく、しかし本質的な配置で整えられている。
美優は少し息を吸い、わずかに湿った朝の空気が胸に広がるのを感じた。街の底を流れていた不穏な空気は、今ここに集まり、ただ静かに息を潜めている。
美優は深く息を吐く。灯里が一歩前へ出て目で合図すると、美優は形代を持ちコチノワの前に立つ。灯里がそのまま小さな声で唄を口ずさむ。その声音は、まるで早朝の空に溶けていく祈りそのものだった。
水無月の 夏越の祓する人は 千歳の命 延ぶと云うなり
思ふこと みな尽きねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな
蘇民将来 蘇民将来
朝日がわずかに鉄棒の輪郭を染め上げる。美優は唄にあわせて形代を導く。
まず、左回り。白砂の上、形代を持った手が輪の外縁をなぞる。
ついで右回り。コチノワの中を形代がすべるように通過させるたび、目に見えぬ澱みが、少しずつ朝の空気に溶けていくようだった。
再び左回り。灯里の唄が、いっそう柔らかく響く。
空気がわずかに温かく、そして軽くなった気がした。
灯里はそっと美優の手を持ち、手を添えて合わせながら囁く。
「この輪は巡り、めぐるもの。
くぐり、通ることで、厄を祓い、縁を繋ぐ。
あなたが本来の姿に戻れますように──」
その言葉は、都市に微かなさざなみを生む。言葉に合わせ、美優も祈る。鳥たちの囀りが響く中、輪の中央には静かに祈りの温度が満ちていく。
朝日が、静かにコチノワと鉄棒を照らす。境内の空気が澄みきり、夜に溜まった澱みはゆっくりと溶けていく。儀式は、誰の目にもつかぬまま都市の底に、小さな清浄で正常の輪郭を取り戻していく。
4-2. 消散
儀式の終盤。朝の光が次第に濃くなり始め、公園の芝生と鉄棒、形代を柔らかく包み込む。境内の空気はまだ静かに緊張していた。灯里が静かに詠唱を終えた瞬間だった。
「巡り、巡るもの──くぐり、祓い、縁を結ぶ。さあ、戻りなさい」
ふいに、境内の空気がふわりと動いた。コチノワが、淡く輝き始める。それは目の錯覚のようにも思えるが、誰もがはっきりとその変化を感じ取っていた。
鉄棒の下、輪の内側から、うっすらと淡い光が滲み出る。続いて、まるで甘いお菓子のような香りが、霧となって空気中に立ち上る。白砂の上、形代の周りを、細かな粒子──粉砂糖に似たきらめきが舞い上がる。
光の中で、コチノワはそっと震え、表面がほんのり透明になっていく。美優は息を呑んだ。
「……消える?」
その囁きの直後、輪は淡い朝日の中で、きらきらと崩れていった。角砂糖が水に溶けていくように、あるいは微細な風にさらわれる花びらのように。粉砂糖のような霧が朝の空気を一面に包み、次の瞬間コチノワは音もなく、跡形もなく消えてしまった。
風が一筋、境内を渡っていく。美優の頬を、ひんやりとした気流が撫でる。舞い上がったきらめきの粒子が、ほんのり甘い香りとともに空気に溶けていった。灯里が、小さく微笑む。
「……終わった、わ」
しばし誰もが声を失い、ただ立ち尽くしていた。コチノワのあった場所には、白砂に小さな渦の跡が残っているだけだった。鳥居に見立てた鉄棒も、今はただの遊具へと戻っていた。
4-3. 解放
境内を包んでいた緊張が、ゆるやかに解けていく。空気が明らかに軽くなった。朝のざわめきが、しずしずと日常へ戻っていく。
美優は気づかぬうちに肩の力を抜き、ゆっくりと深呼吸をしていた。胸の奥に、新鮮な朝の気配がすうっと満ちてくる。透真が、そっと鉄棒を見ながら言う。
「詰まりが解けて、ようやく流れが戻ったんだろう……都市のノイズもリセットされたようだ」
雷蔵は大きく伸びをし、そして不敵な笑みを浮かべる。
「さて、後始末だがな。偶然が重なってコチノワが現れたんだろ? なら、その偶然のひとつでも消しちまえばいい」
雷蔵はポケットから小さな鑢を取り出す。鉄棒の根元──富嶽金属工業の九字護身陣に似た刻印がうっすらと朝露に光っている。
「ま、メーカーにとっちゃイチャモンみたいなもんだが」
そう呟くと、雷蔵は無造作に刻印を削りはじめる。ギリギリ、と小さな音が響くたび、金属の表面にあった複雑な意匠が徐々に曇っていく。やがて、どこにでもあるただの鉄棒へと『戻される』。
透真は呆れたように言いかける。
「また、乱暴なことを……」
その瞬間、透真のスマートフォンが震えた。画面には、オフィスに残った蜘手からの新着メッセージ。
「別の区でまたコチノワ出現。現場へ急行してくれ」
特対室の面々は、顔を見合わせる。
「……同じ作業を、全部の影響エリアでやるのか」
雷蔵が苦笑まじりに肩をすくめた。
その日から、美優たちはひたすら地道な作業に追われることになる。出現報告のあった区域ごとに同様の儀式と、鉄棒の刻印を削る作業を繰り返していく。
町の小さな公園、古い神社の境内、住宅地の端にひっそり残る遊具のそば──早朝や夕方、人目を避けては同じ段取りを踏み続ける。
和紙の形代を用意しドーナツ型の怪異にくぐらせ、解放の儀を行い、痕跡を消す。雷蔵が、黙々と刻印を曇らせていく。
誰にも評価されることも、感謝されることもない作業。けれど都市の日常は、その誰にも知られない地味な仕事によって、少しずつ静かに守られていく。
数日が経ち、コチノワ出現が報告されていた地域には目に見える変化が現れ始めていた。「通信障害が直った」「体調が戻った」「家電の調子がいい」──それだけではない。小学生たちは、帰り道の公園で四つ葉のクローバーを見つけてはしゃぎ、いつもより少しだけ明るい声で走り回っていた。
ある会社員はいつものコンビニでふとクジを引くと、無料コーヒーが当たった。「そういえば最近、バスの遅延がなくなったな」と同僚たちが笑い合い、夕暮れの電車も妙に空いていて、誰もがささやかな快適さに気づかず微笑んでいる。
地域の猫好きのおばあさんは、ここ数日姿を見せなかった野良猫が元気に現れているのを見つけ、「今日は何かいい日ね」とつぶやいた。
いずれもささやかな幸運。誰もが、その理由を知ることはない。誰もが厄の存在など忘れたように、日常が静かに戻っていく。
美優は、仕事終わりに空を見上げた。都市の朝焼けにはいつも通り喧騒が混じり、どこかまぶしい。ただ一つ違うのは胸の奥にわずかに残る、空気の軽さ──それが、すべてが収束へと向かった証だった。
4-4. 残響
それから数週間が経った。コチノワは警視庁特異事案対策室の正式な記録として収束の判断が為されることとなった。SNSでは結局ただのイタズラだったという話に落ち着き、事件の痕跡は丁寧に消され、今や関係者以外はその存在すら知らない。
午後の陽が都内某所の小さな公園に斜めから差し込んでいる。鉄棒のバーは、今やどこにでもある鈍色の鋼に戻っていた。誰もそれに目を留めず、都市はゆっくりと秋の匂いを帯び始めている。
幼稚園帰りの少女が、ふと足を止めた。ランドセルを背負い、つま先で地面を擦りながら、鉄棒のそばにしゃがみ込み、じっと眺めている。鼻をひくひくと動かし、何かを探るように、
「……ドーナツのにおい、した」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
少女は次の瞬間、顔を上げると何かに誘われたようにぴょん、と跳ねて鉄棒の下をくぐった。その仕草には、無意識の遊び心と、見えない輪への無垢な親しみが宿っていた。
誰もそれに気づかない。けれどその時、公園に一陣の風がそっと通り抜けた。鉄棒の中央──何もないはずの空間に、ほんの一瞬だけ、輪の形をなぞるように白い靄が、ゆっくりと揺れた。それは、誰にも見えない。だが、確かに、都市のどこかに小さな残響が生きている。
──特異事案対策室。美優は淡々とした手つきで、コチノワ事案の報告書を書き終えた。蛍光灯の下、静けさの支配するオフィス。書類の束、パソコンのディスプレイ、かすかに冷めたコーヒー。
ふと、机の端に置かれたドーナツの包装紙が目に入る。あの、牛の体に人の能面を持つ式神が、もぐもぐと無言でドーナツを咀嚼しながら呟いた声が頭の奥で反響する。
『信仰は、形骸化し──やがて、形を変え、生まれ直すのである』
美優は思わず、小さくため息をついた。形代や祓いの言葉、都市のノイズに紛れる小さな祈り。厄災もまた、祈り損ねた願いが、どこかに歪んで残ったものなのか──ふと、そんな考えが胸をよぎる。ペン先が走る音だけが、静かなオフィスに響く。
──厄災とは時に、祈り損ねた願いの変形である。
その一文を書き加えたとき、窓のない部屋に、小さな風が舞い込んだ気がした。都市はまた何事もなかったかのように、次の朝を迎える。
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