CASE:014-2 コチノワ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 追跡
週末の早朝にも関わらず、特対室のオフィスには照明がついている。美優はその片隅でエナジードリンクをちびちびと飲みながら、PCに向かっていた。
彼女はSNSや近隣自治体の掲示板、特対室の内部ログ、そして自分でまとめたエクセル表を並べている。『#鉄棒ドーナツ』のハッシュタグで拾われた写真を見ていくと、件数自体はそれほど多くない。噂とは裏腹に、鉄棒ドーナツが現れるのは、決まって神社の境内に隣接した公園ばかりだ。模倣犯と思われるもの以外、普通の街中の公園にはその痕跡すらなかった。ネットの熱狂が過剰なだけで、実際の現場はひどく静かで、どこか拍子抜けするほど現実味がない。
美優は目撃現場のひとつ、杉並区の住宅街の小さな神社へ向かった。午前中にもかかわらず、もう日差しは強い。公園の鉄棒は、昨夜の雨のせいでまだ少し濡れている。痕跡はなにもない──と、思いきや、鉄棒の中央あたりに薄茶色の染みが残っていた。
(やっぱり、そこなんだ)
鉄棒の近くには、子どもたちが自転車を停めてゲームに夢中になっている。彼らはドーナツについてはまったく関心を示さない。近くのベンチで休んでいた高齢の男性に声をかけると、
「そういえば今朝まであったねえ。子供のいたずらかと思ったけれど、さっき見たらもうなくなってたよ」
と、首をかしげる。別の母娘連れに話を聞くと、
「SNSで見ましたよ。うちの子は見てないけど、なんか最近公園の匂いが甘ったるいって言ってました」
美優は小さく頷き、データベースに甘い匂いの報告と記入した。いくつかの現場を巡っても、ドーナツが実際に残っていることはなかった。その場の空気だけが、ほんのり甘く湿っている。都市の公園の匂いに混じるその違和感は、美優以外にはほとんど気づかれていないようだった。
都市伝説と現実の境界が曖昧になり、誰もが無関心なまま怪異は静かに痕跡を残し続けている。
2-2. 連鎖
美優はオフィスに戻ると、現場ごとに報告書をまとめ始めた。写真、証言、SNSのスクリーンショット──どれも、決定的な証拠にはならない。記録されたのは、すぐ消える怪異と微かな甘い匂いだけ。だが、美優の心には、どうしても無視できない連鎖が引っかかっていた。
──些細な不運。
たとえば、ある神社公園で鉄棒ドーナツの写真が投稿された日。周辺の自販機が五台続けて釣銭切れになった。飲料を買おうと歩き回る人たちの苛立ちが、どこかいつもより強く空気を満たしていた。
また、コンビニのコーヒーマシンが一斉にミルク切れになった。業者の納品ミス、店員が牛乳パックを落として在庫が駄目になってしまった──理由は様々だが、なぜか全店で同じタイミングでストップしていた。「朝の一杯を楽しみにしてたのに」とぼやく会社員の列が、レジ前にできる。
駅の改札ではICタッチが原因不明のエラーにより一時的に読み込めなくなり、渋滞が起きる。舌打ちの音が響き、苛立ちの空気が伝染する。
どれも偶然と言ってしまえばそれまでだ。しかし、立て続けに起こるとなると話が変わる。しかも、こうしたさざなみが立つ範囲を調べてみると──その中心は、必ず鉄棒ドーナツが目撃された神社公園の半径1km圏内に集中していた。
美優はモニターに映し出した地図の上で、各トラブルの発生地点を一つずつマッピングした。薄い赤い円が、都市の地図の上でじわじわと重なっていく。
「……これ、やっぱり偶然じゃない」
画面の隅には、『#鉄棒ドーナツ』の新着投稿が流れている。そのほとんどが、『笑える』『珍しい』などの軽いコメントばかりだ。しかし、投稿と前後して必ず軽い不運が周囲で発生している。美優は指先でリストをスクロールしながら、小さくため息をついた。
「これ……見たら何かが起きるタイプの怪異かも」
呟きが空気の隙間に溶けていく。都市のノイズにかき消されそうなほど小さな声。だが、美優の心には、不穏な確信がじっと根を張り始めていた。
甘い匂い、消えたドーナツ、連鎖する不運。すべてが、ただの偶然の皮を被って、都市の底で静かに繋がっていく。誰も気づかないうちに、怪異はじわじわと範囲を広げている。
机の上の書類の山が、ひそやかな重みで美優の腕にのしかかる。照明が瞬き、都市の日常の隙間に微かな影を落としていた。
2-3. 食侵
ネットの世界で、鉄棒ドーナツは完全にネタとして消費されていた。日曜の昼、人気YouView配信者「ぽんこつまんじゅうZ」が、その話題に飛びついた。彼のチャンネルは登録者十数万。普段はゆるい検証や食レポ、時々ドッキリ動画がバズっている。この日はタイトルからして煽っていた。
【検証】鉄棒ドーナツのドーナツって本物なのか!? 食ってみた!【閲覧注意】
サムネイルには、鉄棒にしっかりと刺さったドーナツと、誇張気味な驚き顔のぽんこつまんじゅうZ。公園は平日の朝、人影も少ない。自撮り棒の先のスマートフォンの前で、ぽんこつまんじゅうZは高揚した声を張り上げた。
「キタコレ! やっば俺、持ってる! これ、マジでした。バズってたやつ、見つけちゃいました!」
鉄棒のバーには、きれいにドーナツが嵌っている。
「えー、これオイドのメープルディップじゃない? ガチで本物?」
彼は周囲をキョロキョロと見渡し、何度も笑いながら実況を続ける。
「じゃあ早速──引っこ抜きます!」
ドーナツは、驚くほど簡単に鉄棒から外れた。断面は、まるで揚げたてのドーナツ生地。湯気が立つような錯覚。香りも、驚くほど甘く芳醇──ぽんこつまんじゅうZは、スマートフォン越しにその匂いを嗅ぐふりをして、「ヤバ、普通にうまそう」と言いながら齧りついた。食感は、ふわふわ。けれど味は──
「あれ?」
彼はほんの数秒、表情を曇らせる。
「……味しねぇ? いや、マジで味しねぇわ……ん? 草っぽい?」
舌の上に甘さはほとんど残らず、ドーナツの生地らしい食感だけが広がっていく。そのままもう一口。カメラがぐっと顔を捉える。
そこで異変が起きた。彼は眉をひそめ、腹部を押さえる。
「……う、うわ、ヤベ……腹、いて……!」
画面はブレて、急にピントがずれる。
「ごめん、これ……マジ無理……配信切るわ」
カメラはぐるりと回り、公園の青空と鉄棒の映像を最後に、急にブラックアウトする。
翌日の夜。ツブヤイタッターには「ぽんこつまんじゅうZ」が投稿したメッセージが流れた。
「昨日の動画、ガチで腹壊しました……病院行って点滴。菌とかは出てないって言われたんだけど、マジ怖ぇ…… #鉄棒ドーナツ」
リプ欄には、『自業自得w』『食べるなよw』『ネタでも無理』『オイドの案件じゃない? でもこれじゃ逆効果か』といった反応があふれる。その裏側で、『無味だったって、逆にやばくね。誰が何のために?』『甘い匂いだけってこと?』と、うっすらとした不安も漂っていた。
特対室のオフィス。美優は報告書の合間に、その投稿を見つけていた。
「……食べるやつが出た……あれ、食べられるんだ……」
小声の独り言が漏れる。ふざけたネタに見える現象の裏に、確かな異物の重みがある。美優の中で怪異への警戒がひとつ、段階を上げていた。
2-4. 監視
夕暮れ、特対室の面々が集まる。蛍光灯の下、オフィスの空気はいつもより少しだけ張りつめていた。ミーティングの最中に、美優が担当している鉄棒ドーナツの話も挙がった。
「なあ、美優くん。SNSのやつ、全部追いきれた?」
蜘手創次郎が、半分冗談まじりに声をかけてくる。美優は資料の束を机に押しやり、首をこきっと鳴らした。
「まあ、ざっとですけど……でも件数自体は少ないですよ。大半がネタだし。実際に現場まで行くと、ほぼ消えてるし」
「本当に怪異化した都市伝説としては、ちょい地味ってわけだ」
蜘手は苦笑いを浮かべる。
この日は、月に一度の『監視対象』への定例ヒアリングがある。対象は、怪異・頼谷癒雨。コンビニ店員の仮面をかぶり、人間社会に適応し溶け込み、ほぼ片利共生とはいえ共存している怪異。美優と蜘手は、渋谷駅南のJAWSON近くのカフェに向かった。
癒雨は先に席に座り、アイスコーヒーをストローで静かにかき混ぜている。相変わらず、誰にでもなじむ笑顔。だが、その奥には、人間には決してたどり着けない異物の静けさがひそんでいる。蜘手は、あくまでさりげなく本題を切り出す。
「ドーナツに関する妙な話、知らない?」
癒雨は一瞬だけ眉を上げ、それから唇の端で小さく笑った。
「あぁ、SNSのアレ? 鉄棒に刺さってるやつでしょ? あんなのまで調べるなんて暇人……いえ、大変ね」
美優はその間の取り方に少し苛立ちを覚えながら、会話の成り行きを見守る。癒雨はコーヒーのグラスに視線を落とし、氷が小さくカランと鳴る。
「ドーナツねぇ……関係あるかわからないけど、オイド、ドーナツチェーンのオイスタードーナツね、知ってるでしょ? 三ヶ月後にARで街中にドーナツ出す企画、立ち上げてるって話よ。広告会社経由で。アプリの開発がうまくいってないってぼやいていた客がいたわ」
蜘手は目を細める。
「ARで街中にドーナツ……」
美優も思わず声を漏らした。
「それって……鉄棒ドーナツと、偶然とは思えない……?」
癒雨は意味ありげに目を伏せる。
「世の中、偶然と必然の境目は曖昧よ。しかも今は何でも話題になれば勝ちだし。もしかしたら、現実がネットに引き寄せられたのかもね」
蜘手は軽く肩をすくめる。
「なるほどねぇ。だとすると、現代の怪異もネタ化するってわけだ」
癒雨は、涼しい顔のままグラスの氷を指で押し回す。
「私の知る限り、本物は案外地味で静かよ。現場の空気が甘い匂いに満たされたとき──それは、もう日常の一部になってる」
しばし沈黙。カフェの窓越しに、街の夕闇が静かに落ちていく。
「……結局、何も教えてくれないんだ」
美優がぼそりとつぶやく。癒雨は、ふわりと微笑んだ。
別れ際、蜘手は美優にだけ小さな声で言った。
「ARと怪異、変な偶然が重なる時代になったもんだな。……もっと掘り下げるぞ」
美優も無言で頷く。夜の都市の中に不安が静かに溶けていった。
2-5. 邂逅
日曜の朝、都内某所の小さな神社。夏の終わりの未だ強い日差しが、境内と公園を包んでいた。美優と透真は、報告のあった現場を静かに訪れていた。
石畳を踏みしめ、鳥居を抜ける。公園にはまだ誰の姿もない。空気はしんと静まり、ただわずかに──甘い匂いが漂っていた。それは人工的な砂糖菓子のようであり、土と草の濃密な香りとも混じっている。
鉄棒の中央に、それはあった。SNSの写真で見慣れていたはずの鉄棒ドーナツが、まるで誰かに供えられた供物のように鎮座していた。湿度を含んだ朝の空気の中で、まるで自ら光を放っているかのように見える。
美優は、ほんの一瞬だけ躊躇した。現場に足を踏み入れると、空気が静かに震えた気がした。
「……本当に、あったんだ」
彼女は小声でつぶやき、鉄棒に近づく。ドーナツは誰かが置いたものとは思えないほど自然に嵌まっていた。その輪郭はふわふわで、揚げたてのように柔らかそう。表面には細かい砂糖の粒が、朝日に反射してきらめいている。
透真も静かに近づく。彼の眼鏡の奥の視線は鋭い。手帳に何かを書き留めながら、彼は鉄棒のそばにしゃがみ込む。
「……空気が……動いているな。これは……穢れか?」
透真がぽつりと言う。鉄棒のまわり、半径数十センチほどの空間だけが、微かに揺れている。重力が僅かに緩み、湿度がほんの少しだけ高い。
「ケガレですか?」
美優の問いに透真は眼鏡を押し上げ、静かにうなずいた。
「普通の物質じゃない」
透真は、ごく浅く息を吸い、集中する。彼の『透視』の恩寵が発動する。物質の構造、流れるエネルギー、輪郭を成す霊的粒子の流れ──視界の奥で、ドーナツの組成がゆっくりと開示されていく。
「これは──」
透真は、言葉を選ぶように考えながら言う。
「小麦じゃない……この色は茅、か。茅をベースに、霊的な粒子が絡みついている。しかも、これは炭水化物様の物質化、厳密には炭水化物とは言いがたい。食べ物の形はとっているが、物質と異界の隙間に浮かぶ仮の存在……」
美優は、半信半疑のまま鉄棒を見上げた。
「茅? 茅って茅の輪の?」
透真は美優の言葉に何かに気づいたように続ける。
「そうか、茅の輪──つまり、夏越の祓や厄除けのための輪。鉄棒の形状が偶然にも擬似的な鳥居となっているのか。これは茅の輪だ」
「じゃあ……やっぱりこれ、食べられるものじゃないってこと?」
美優は思わず尋ねると、透真は首を横に振る。
「食べる行為自体は、祭祀や供物の一種として成立するかもしれない。けれど、物質としての栄養も味も、本質的には存在しない。しかも、理由はなんとなく推測できるが──穢れのようなものまで放っている。だからこそ、無味で腹痛を招いた。本質は厄の塊、あるいは祓いの道具が都市に妙な適応をして異物化したものだ」
美優は小さく肩をすくめる。鉄棒の上で、ドーナツは静かに存在を主張していた。
2-6. 錯綜
その日の夕方、特対室のオフィスには面々が顔を揃えていた。机の上には、美優と透真が持ち帰ったサンプル写真、現場の記録、SNSのログが並ぶ。美優が状況を説明する。
「鉄棒ドーナツは、まだ仮説ですが都市の中に生まれた茅の輪の精霊のような存在だと考えられます。実際に現場で確認できたのは、神社の境内公園の鉄棒にだけ、その都度自然消滅。その周囲では、甘い匂いと軽い不運の連鎖が続いてます」
透真は、解析メモを掲げて補足した。
「成分は、小麦ではなく茅。厄除けの茅の輪に都市の情報ノイズが混じり、霊的粒子の流れが物質と異界の境界を不安定にしていると考えられます。また、微弱な穢れというか──厄を周囲に放出していることが確認されました」
蜘手が指でレポートをつまみ、少し眉を上げる。
「つまり……都市の中に、偶然生まれた祓いの器が、都市生活者の厄を逆流させてるってことか。笑えないな」
雷蔵が腕を組みながらぼそりと呟く。
「都会の神社は信仰も形骸化してる。茅の輪だって形だけの行事になっちまってるしな」
久世灯里が、柔らかな声で補足する。
「信仰の意味が薄れても、土地や物には記憶が残る。たまたま現代の都市に新しい精が生まれてしまったのかもしれない」
美優は、皆の言葉を反芻しながら、自分なりの結論をまとめた。
「鉄棒ドーナツ──茅の輪はくぐるために生まれた輪なのに誰にもくぐられない状態で、ただ固定されてる。だから祓いとしての本分を果たせず、逆に厄を撒き散らしてる……儀式の失敗の代償みたいなもんですかね」
部屋には沈黙が落ちる。蜘手が軽く肩をすくめ、
「都市の怪異ってのは、本当に現代的で厄介だな」
と、皮肉混じりに呟いた。
2-7. 困惑
──静寂。誰もいない公園。夜の闇が落ちはじめ、最後に届いた陽が鉄棒を鈍色に染める。その真ん中、それの意識がそっと目覚める。形も、重さも、定かでない。ただ、輪であることだけが自分の本分。『くぐられるため』に生まれた。誰かの厄を肩代わりし、清めるためにここにいる。
けれど──自分はこの鉄の棒にしっかりと嵌まり、誰にもくぐられることなく、ただ都市の空気を吸い続けている。
じっと、じっと待つ。空気の流れが止まり、甘い匂いだけが膨らんでいく。
(誰も……くぐってくれない)
ただの供物か、飾り物か、厄介者か。輪の意識は、微かな困惑を滲ませる。
都市の闇に、また小さなノイズが積もる。誰も気づかない夜、それの存在理由は静かに揺らぎはじめていた。
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