CASE:013-4 オゲンキデスカ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
4-1. 終焉
特対室のオフィスには重苦しい緊張が立ちこめていた。張り詰めた空気は肌を刺すような鋭さを帯び、誰もが息を殺してモニターを凝視していた。美優だけは耐え切れず、苛立ちに駆られて蜘手が仕掛けた霊糸を指先で乱暴に『分解』しながら叫んだ。
「道路の補修費なんて国から出せばいいじゃん! 今さら気にすること?」
彼女の苛立った声が、重い静寂の中に無駄に響き渡った。その瞬間、机の上の通信端末が唐突にノイズ混じりの声を吐き出した。雷蔵だった。
「おい、一気に来てヤベェかと思ったが……いや、待て。止まるぞ、これ」
雷蔵の言葉が終わるか終わらないかのうちに、それまで都市の地下を震わせ続けていた不気味な振動が、嘘のように消え去った。モニターに表示されていたΔf≈30Hzの規則正しいビートも、まるで最初から存在していなかったかのように完全に途絶え、ただ平坦な線だけが残った。
異常が大きく顕著化してから僅か二十秒ほど。静まり返ったオフィスに響くのは、時計の針の音だけだった。
透真は微動だにせず、凍りついたようにモニターを凝視している。そこには微かに──本当に一瞬だけ──心臓の鼓動と同じリズムで揺れる微弱なノイズが映し出された。しかし、それもすぐに掻き消えていった。灯里が緊張に張り詰めていた肩をゆっくりと落とし、小さく息を吐いた。
「……行ったわ」
その呟きは、張り詰めていた空気を溶かすかのように穏やかで、それ故にひどく寂しげに響いた。美優は不安げに唇を震わせ、小さな声で問う。
「……終わったの?」
誰も答えない。だが蜘手は深々と溜息をつき、椅子に深く沈み込むように座り込んだ。彼は疲れ切った表情でポケットから煙草を取り出し、無造作に咥えて火をつけた。煙が薄く青白く立ち上り、そのゆらめきをぼんやりと眺めながら、小さく独り言のように呟いた。
「被害なし。結構じゃないか」
しかし、その言葉に安堵を感じる者は誰もいなかった。誰もがこの現象の終息を理解できずにいた。ただ唐突に訪れた沈黙と平穏に、不気味な居心地の悪さを感じるばかりだった。
モニターの向こう、まるで宇宙の深遠に目を向けかのような透真の表情だけが、未だに緊張を緩めていない。彼だけは、まだ何かを見続けているようだった。
4-2. 忘却
世界は相変わらず、チェリャビンスクで起きた隕石の爆発とその後の騒動に夢中だった。DA14は予測通り地球をかすめ、何事もなかったかのように宇宙の闇へと再び去っていった。ほんの十数秒、DA14と砕石の間で交わされた何らかの信号も同帯域の衛星通信や雑多なノイズに紛れ、ログに埋もれていった。東京の深夜の静けさを揺るがしたあの現象は、誰の記憶にも強く刻まれることなく、時間の流れの中に薄れてゆく。SNSに投稿された僅かなコメントも、興味本位の雑談や冗談でしかなかった。
『起きたらまた仕事な件』『DA14、やっぱスカか』『地鳴りおさまったけど、関係あったのかな』
すべてが日常の些細な一コマとして忘れ去られ、瞬く間にタイムラインの彼方へ流されていった。
特対室のオフィスでは、透真だけが一人、静かに残ったデータを整理していた。彼はモニター上に表示された波形データをじっと見つめている。その眼差しには、好奇心を超えた何か切実な想いが浮かんでいた。
「……やはり、これは人間でいう感情に近い波形としか思えません」
彼の独白に、蜘手が軽口を叩いて返す。
「人間がギャアギャア騒ごうが、向こうには関係なかったってことか?」
透真はそれに答えることなく、ただ黙ってデータを保存した。彼の胸には、解けない謎が静かに澱のように沈んでいる。
誰も、この現象の正体を明確に理解できなかった。あの低周波の鼓動も、砕石の微かな脈動も──そして何より、その背後に感じられた微かな意志も。遠ざかっていった小惑星は、もはや宇宙の彼方に消えてしまった。
透真は外の空気を吸いに出ると、空を見上げた。夜明け前の空は深く黒く、薄く広がる雲の隙間から微かな星明かりがちらちらと瞬いていた。その遥か彼方に、誰も気づかない何かが潜み、無言の対話を交わしたのかもしれない。世界はそれを無関心に受け流し、そして日常へと還ってゆく。
宇宙の深い孤独が、彼の心を静かに満たしていた。
4-3. 忘却
翌朝、東京の街はいつもと変わらない喧騒に包まれていた。薄く曇った空の下、駅へと向かう人波は一定のリズムで動き続け、車道を走る車の音が淡々と響いている。ここしばらくの夜の間に起きた異様な振動も、それに伴う恐怖も、まるで最初からなかったかのように消え去ってしまっていた。
テレビやネットニュースは相変わらずチェリャビンスクで起きた隕石爆発のニュースを繰り返し伝えている。専門家がその規模と影響について興奮気味に語り、得意げな顔で解説を続けている。一方で東京の地下を揺るがしたはずの低周波騒動については、一部のサイトが小さく報じたのみだった。それも『地盤の一時的な共振』『小惑星接近と騒音の偶然の一致による集団ヒステリー』といった曖昧で無責任な言葉に片付けられ、公式発表すら出されなかった。
特対室のオフィスでは、面々が淡々と報告書をまとめている。無機質な照明が、何事もなかったかのような日常を演出するかのように明るく室内を照らし出していた。
美優は未だに納得がいかないような表情で、報告書に記された平凡な文言を見つめていた。その胸の内には、薄い紙切れに印刷された事務的な説明では到底処理しきれない違和感と、昨夜自らの肌で感じた生々しい不安が燻り続けている。
「あれは何だったんですか?」
彼女はついに耐えきれず、向かいに座る透真に問いかけた。声には微かな焦りと苛立ちが滲んでいたが、透真はすぐには答えを返さない。彼自身もまた、その答えを見つけ出せずにいたのだろう。透真は無言でモニターを凝視し続けるだけだった。
その沈黙を破ったのは灯里の柔らかな声だった。彼女は窓際に立ち、外の何でもない風景を静かに見つめながら微笑んでいる。
「少なくとも悪意のある何かとは思えなかったわ」
その言葉はあまりにも穏やかで、むしろ美優には不安を増幅させるものにしか聞こえなかった。
──じゃあ、一体なんだったというのだろう。彼女の胸の奥には、昨日まで確かに感じていたものとは別の、曖昧で掴みどころのない不安だけが残っていた。
4-4. 会話
事件から数日が経った後も透真はオフィスにこもり、膨大な記録データと向き合い続けていた。蛍光灯のジジジという微かなノイズが、壁に染み込んでいく。無機質な空間の中で、モニターの青白い光が彼の表情を浮かび上がらせている。
モニター上には、事件中に記録された複雑な波形が次々と流れていた。微かな周波数の揺らぎ、非線形に変調する振動、繰り返される符号化の痕跡。透真はそれらのデータを一つずつ、丁寧に解析しながら眉を寄せていた。
何日間も続いた解析作業の末に、彼の目が一点に止まった。その波形パターンは人間の感情の起伏に酷似していた。それはまるで、会話のような──いや、会話そのものの形をした波動だった。透真はその波形に心を奪われるように引き寄せられ、無意識のうちに指先で画面をなぞった。
心拍数が僅かに上昇し、冷たい汗がこめかみを伝う。透真は、その波形パターンを強引に人間の感情に当てはめ、半ば無理矢理に言語に当て嵌めた。気の遠くなるような作業を越えモニターに表示された解析結果は、次のようなものだった。
発 DA14『オゲンキデスカ?』
発 砕石『ハイ。コチラハ、カイテキデス』
発 DA14『ナニヨリデス。ソレデハ、マタ』
彼は思わず画面を二度見し、息を呑んだ。これは一体どういうことだろう。まるで何気ない挨拶のようにしか見えない。
「これは……どういうことだ?」
透真の呟きに、背後で資料整理をしていた美優が顔を上げ、不思議そうな視線を向ける。
「……はぁ?」
美優の声にはあからさまな戸惑いがあった。当然だろう。巨大な怪異現象かとまで疑われたあの恐怖の夜を作り出した波動が、こんなにも平凡で、無意味で、肩透かしな会話をしていただけだというのか。
だが透真の胸に湧き上がったのは落胆や怒りではなく、どこか切ない寂寥感だった。彼はふと、6600万年前に意図的なものなのか事故なのか、地球を訪れ偶然地中に取り残されたまま沈黙し続けていた何者かの存在を想った。長い時の流れを超えて、彼らが待ち続けた再会が、たった数秒の無意味なやり取りで終わったのだとすれば、それは途方もなく儚く、虚しいことのように思えた。
世界は彼らに気付かず、人々はその夜をすぐに忘れてしまう。透真だけが、この静かな会話の意味を理解し、ただモニターの前で立ち尽くしていた。
外はもう夕暮れに差し掛かっていた。薄く茜色に染まった空は、どこまでも無関心に街を覆い尽くしていた。
4-5. 残響
オフィスに流れる沈黙の質は変わり、まるであれほど張り詰めていた空気が嘘だったかのように、ゆるやかな安堵が皆の表情を和らげていた。
透真は再びモニターに視線を落とし、解析データを指で軽くなぞった。そこには、微細な衝撃石英の中に残された特殊なケイ素構造と、感情パターンとしか呼べない波形が無言のまま記録されている。そのデータの形状はあまりにも人工的で、彼の理性はそれを認めることを躊躇っていた。
「ケイ素生命体、か……。SFならいくらでも登場するが、まさかな……」
透真の声は小さく、まるで自分自身に問いかけるようだった。
彼の傍らで、美優は椅子の背にもたれ掛かり、眉間に寄せていた皺をほどいて、気の抜けた苦笑を浮かべた。全てがあまりにあっけなく終わってしまった今となっては、あの時感じた恐怖や焦りすら滑稽に思えてしまう。
「あれだけ騒いで……バカみたい」
美優の口調は軽かったが、そこには心底ほっとした気持ちが隠しきれず滲んでいた。透真はちらりと美優を見やり、再びモニターに戻る。
灯里はそんな二人を静かな笑みで見守っていたが、やがて穏やかな口調でそっと呟いた。
「でも、それってちょっと素敵じゃない?」
灯里の声音には静かな憧れのようなものが宿っていた。彼女の視線は、どこか遠くを見ているように透明で、それはまるでこの世界とは違う別の時間や空間を想っているかのようだった。
蜘手はその場の空気を和ませるように柔らかく笑いながら、短く返した。
「ああ、まあ……そうだね」
その何気ないやり取りの中に、小さな共感が満ちていた。
透真は黙って窓の外を眺める。彼の瞳には、夕陽の赤と影が微妙に揺れて映り込んでいる。その視線の向こう、見えないほど遠い宇宙空間を、静かに小惑星DA14が通り過ぎてゆく光景が思い浮かんだ。
──もし、本当にケイ素生命体がいたとして。彼らが遥か昔に地球に訪れ、その一部が偶然にも取り残されただけだったとしたら。たまたま近くを通りがかった同族は6600万年の時を、それこそ気軽な挨拶で済むようなほんの一瞬の感覚として受け取っていたのだろうか。人間にとって気が遠くなるほど長い年月も、彼らにとってはほんの少しの間の離別でしかなかったのかもしれない。
──結局、我々だけが、地球だけが、この時間の重みに取り憑かれていただけなのか。
透真の胸に湧き上がったのは寂寥感と同時に、どこか切ない安堵でもあった。宇宙の巨大な孤独と、その中で交わされたささやかな挨拶を前に、人間の存在があまりにも小さく儚いものに思えた。
街では、人々が何事もなかったように足早に家路を急いでいる。空には小惑星の姿もなく、誰一人として遠ざかっていく存在を見上げる者はいない。あれほど世界を騒がせた出来事も、結局は誰の記憶にも強く刻まれることはなかった。
特対室のデスクの上では、分析された砕石サンプルの一片が静かに置かれている。その内部で微かに脈動していた結晶体の共鳴も今では完全に消え去り、再び眠りに戻っていた。特対室の面々もまた、それぞれ無言で自らの日常へと少しずつ戻り始めていた。
誰にも知られず、何の意味も残さず、ただ宇宙的スケールで交わされた軽い挨拶。怪異の専門家たちに人類の脅威すら感じさせ、震え上がらせた出来事は、宇宙にとってはたったひと時の意味を持たないささやかな雑談に過ぎなかった。
小惑星の軌道を表示していたモニターがゆっくりと消え、残った静けさが室内を再び満たしていった。
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