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CASE:013-3 オゲンキデスカ

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

3-1. 静夜


 2013年2月16日。深夜の東京は、まるで誰もいなくなった舞台のように静まり返っていた。ほとんどの家の灯りはすでに消え去り、街灯が凍えた空気の中で虚しく白く輝いているだけだ。遠くの大通りを配送トラックが音もなく滑るように通り過ぎていくが、その姿はまるで都市に忍び込んだ幽霊のように淡々としていた。


 コンビニの明るすぎる照明の下で、若いアルバイトの青年が新しい雑誌を無表情のまま棚に並べていた。彼は眠気と倦怠感でぼんやりとした目をして、ガラス越しの夜の闇をただ漠然と眺めている。そのガラスが微かに低い振動音を立てていることに、彼はまったく気づいていない。彼の心は、退屈と無関心の深い霧に覆われていた。

 駅の構内では終電後の清掃員が、薄暗いホームの上で長く重い溜息をついていた。広大で静まり返ったホームにはただ一人しかいない。その孤独の中で、ふと耳の奥に微かな耳鳴りを感じ、眉をひそめて頭を振った。しかし、それ以上は気にも留めず、彼は再び清掃作業に戻った。何も起きていないのだ──彼にとっては。


 深夜、ほんの一部の世界だけが、奇妙な熱を帯びてざわめいていた。天文愛好家のブログやSNS上では、小惑星『2012 DA14』がついに地球へ最接近するという興奮が静かな盛り上がりを見せている。

『ついに来た!』『DA14、日本では夜明け前に最接近』『みんな、さよなら。地球終われ』

 どこか冗談めいた、しかしほんの少し不安を隠しきれない陰謀論じみた投稿も散見される。

『会社を吹き飛ばしてくれ』『どうせなら世界ごと潰れてもいい』

 不安と諦めが入り混じった呟きは、だが結局、巨大な都市の静寂を揺らがせるには至らなかった。世界の終わりは、こうやって誰にも気づかれることなく静かに近づいてくるのかもしれない。目に見えず、音も立てず、日常の隙間にじわじわと忍び寄っていくのだ。


 特対室では透真が青白く光るモニター画面を無言のまま凝視し、何度もデータをスクロールしていた。指先は正確にキーを叩き続けているが、その横顔には言葉にならない緊張が浮かび上がっている。

 室内の隅で蜘手は、慎重な手つきで通信端末を操作し続けていた。彼は公安や国交省の裏側を動かし、水面下で最悪のシナリオに備えた手配を淡々と進めている。表情は静かだが、深く刻まれた目尻の皺はいつもより僅かに深く、その背後に潜む緊迫した状況を匂わせていた。


 灯里は部屋の隅に立ち、目を閉じて何かを感じ取ろうとしていた。薄い唇が微かに動き、小さく囁くように呟きを漏らす。

「異界の反応はない……でも、何かが呼んでいる感覚は消えない」

 その声は誰に向けたものでもなく、ただ漠然と室内の空気に溶け込んでいった。現場の雷蔵からの通信が静かな室内に響く。

「異常は間違いなく広がってるが、直接の物理的な被害はまだねぇ。ただし、範囲が広がりすぎだ。早く手を打たねぇと、もし何かが起こるとしたら不味いな」

 彼の低く掠れた声には、微かな焦燥が滲んでいた。部屋に漂う沈黙はさらに濃密になり、誰もが押し黙ったままだ。


 そんな中、美優だけが焦りを抑えきれず、苛立たしげに唇を噛んだ。彼女は周囲のメンバーの沈黙と冷静さが、逆にひどく不自然で理解できないことのように感じられてならない。

「結局、これって何? 何が起きてるんですか?」

 彼女の問いは空虚な部屋に響き渡り、誰からも答えは返ってこなかった。自分だけが異常に怯え、不安に駆られているのではないかという疑念が、美優の心を静かに蝕んでいく。

 彼女の知らないところで、深い夜の底では、確実に何かが息を潜めてその訪れを待っている。都市の静けさは張り詰めた糸のように脆く、次に起こる何かを予感させる圧迫感だけが、重い毛布のように特対室を覆っていた。



3-2. 同調


 時計の針が刻む音が、沈黙に包まれた特対室の室内でやけに響いていた。それはまるで、世界の終わりへ向かう静かな秒読みのようだった。透真が眉を寄せながら、低い声を絞り出す。

「……波形が変わりました。これまでの低周波ノイズじゃない。パターンが収束してきている」

 画面には複数の地点で捉えられた低周波ノイズが表示されている。数時間前までは、それぞれが無秩序に乱れ、ばらばらなパターンを描いていたはずだ。だが今、それらがまるで何か見えない意思に導かれるように、ゆっくりとひとつの流れにまとまり始めている。

「何者かが、ひとつにまとめあげているかのような……」

 透真の声には、自らの言葉に対する戸惑いと、それを否定しきれない確かな予感が混じっていた。通常の物理現象であれば、多重干渉によりパターンが無秩序に乱れるはずだ。しかし、この波形にはまるで生物的な、秩序あるリズムが生まれつつある。美優は思わず息を呑み、肌が粟立つ感覚を抑えることができなかった。

 蜘手の指が、無意識のうちに通信端末の上で止まった。その表情には、常にある余裕や皮肉な笑みが消え、どこか信じがたいものを見たかのような、硬く険しい色が浮かんでいる。

「……最悪、これは『誘発』か。いや、そんなバカな……」

 言葉の続きを飲み込むように、彼は唇を噛んだ。時刻は午前四時二十三分。小惑星DA14が地球に最接近するまであと1分を切っていた。


 その時、現場では雷蔵が明らかな異常を感じ取っていた。足裏に響く不気味な脈動、反応の途絶えた計測器に眉をひそめながらオフィスへと通信を繋ぐ。

「おい、今までにない反応だ。道路が脈打ってるような錯覚すら感じる。測定器が拾えねぇ変動だ。いや、待て……反応系が全部ダウンしかけてる」

 彼の声には珍しく焦りが滲んでいる。

「下手に打ち込むと反撃されるかもしれん。ただ、これは俺の直感というか──なんというか、妙だ。まるで気にもされてねぇって感じだ」

 透真は冷静さを装いながらも、自分の胸の鼓動が大きくなっていることに気づいた。

「轟さん、余計な刺激は避けてください。未知の振動です。小惑星の接近だけでこんな事態はありえない」

 灯里が静かに、しかし険しい表情で眉を寄せる。その瞳は目の前のモニターではなく、もっと遠く──見えない領域の何かを凝視しているようだった。

「異界ではない……でも、この『意識の輪郭』は、異質な何か……」

 美優は耐え切れず耳を塞ぎ、不快な振動に苛立ちを露わに叫んだ。

「もう無理! なにこれ、気持ち悪い! 道路、ぶっ壊してきます!」

 しかし、立ち上がろうとする彼女の動きを、蜘手が素早く霊糸で制止した。彼の口元には硬い笑みが浮かぶ。

「待て待て、美優くん。お前さんが道路をボコボコにしたら、怪異どころじゃない修繕費問題になる。そもそも世界が終わるなら何を壊しても無駄だよ。もう少し我慢して大人しく様子を見よう」

 美優は苛立ちと恐怖がない交ぜになったまま、じりじりとその場に拘束され、ただ苦しげに波形を睨みつけているしかなかった。時計の秒針はまるで運命の瞬間を告げるように無情な音を刻み続けていた。



3-3. 回答


 日本時間四時二十四分。その瞬間、全世界の観測システムが一斉に小惑星DA14の地球最接近を記録した。だが、特対室の室内では、別の現象が鮮烈に浮上していた。

 モニター上には、通常では決してありえない、Δf約30Hzという異常な共鳴が急激に増大し、砕石層全体がまるで生命を得たように律動し始めた。その波動は東京全域の地下で同時に起こっていた。特対室が収集していたサンプルの砕石群も、まるで共鳴に呼応するように同時に揺れ動き始める。

 透真の目にはその砕石内部に、まるで神経網を思わせる微細な結晶パターンが今までより強く浮かび上がった。その構造は精緻で複雑で、明らかに自然物の域を超えた秩序を宿している。

「これは……『考えてる』のか?」

 彼は自らの言葉に困惑し、目を逸らすことができずにいた。

 灯里が深い息を吐き出した。彼女は目を閉じ、その微妙な波動の性質を心の奥で確かめるように、じっと感じ取っている。

「これは……怒りでも悲しみでもない。ただ、もっとあっさりとした……」

 その言葉の続きはなかった。灯里自身、言葉では表現できない感覚に戸惑っているようだった。


 全員の視線が、再びモニターの前で釘付けになる。砕石層の内部では結晶が微かに光度を増し、規則正しく脈動し始めている。そのリズムは、まるで何かを待っているかのように一定だった。透真はかすれた声で小さく囁いた。

「次が……来るぞ」

 その予告めいた呟きが終わると同時に、砕石層の内部に隠された微小な結晶群が、さらに鮮明な波形を描き出し、波動を返してきた。それはまるで明確な意志を宿した応答だった。

 特対室の面々は言葉を発することも忘れ、ただその信号を見つめることしかできなかった。何かが呼びかけ、そしてその呼びかけに対する応答が返されたのだ。それは地球の地下から宇宙へ、あるいは宇宙から地球へ──どちらであったとしても、人間の理解を遥かに超えた現象だった。静かな室内には、時計の針が刻む乾いた音だけが虚しく響いていた。



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