CASE:013-1 オゲンキデスカ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
1-1. 埋没
それはまるで世界が死ぬ瞬間のようだった。
刹那、全てを引き裂くかのように目の眩む光が空を走り抜ける。視界全てを呑み込む熱量が世界を灼き焦がし、破砕した。無数の塵が流星雨のように降り注ぎ、やがて大地は大きく震え、うねり、悲鳴をあげながら砕け散った。やがて、ただ無音という名の巨大な壁に圧し潰されたような濃密な沈黙だけが世界を支配した。
その渦巻く混沌のなか、一つの破片が深く、ひどくゆっくりと、地の奥底へと沈んでいく。それは自らが砕け、裂け、粉々になりながら、やがて周囲の異物と絡まり、侵入し、ひとつに溶け込んでゆく感覚を捉えていた。
硬い殻の中に紛れ込んだそれは、穏やかな熱と規則的な振動を宿すその場所を心地よく感じていた。あまりに馴染み深い温もりと、微かな律動。それは静かに鼓動する母胎のようでもあり、悠久の眠りを約束する繭のようでもあった。ここでならば、自らの欠片を休ませ、再びひとつに融合し、時間を超えてただ存在することができる。
荒れ狂う光も、焼き尽くす熱も、世界を覆い尽くした黒い雲も、すべてが次第に凪いでいった。大地は深い傷痕を抱えながらも、少しずつ息を吹き返し、変化を始める。凍りつく寒冷の季節が長く続き、その後に穏やかな温もりが訪れる。無数の生命が消え去り、また新たな生命が生まれ、消え、世界はその姿を絶え間なく変えていった。
だが、それはただ、見つめ続けているだけだった。自らが休むその場所で、膨大な時間が濃縮されたかのようなゆっくりとした変化を、無機質で静かな観察者として記録し続けていた。
やがて意識は薄れ、休眠状態に入る。その存在にとって時間という概念は、すでに何の意味も持たなくなっていた。
世界がどれほど姿を変え、どれほどの生命が生まれては消え去ったのか、それは知る術もなく──ただ、自らが再び目覚める日が来ることを、眠りの中で微かに予感しながら、果てしない闇の底に沈み込んでいった。
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1-2. 指先
2013年1月の東京は、真冬の透明な空気に包まれていた。通勤通学の人波は今日も途絶えることなく流れているが、その群衆の多くは手のひらに収まる画面に意識を囚われている。
駅前のカフェでも、若者たちが無言でスマートフォンを覗き込んでいた。表情は一様に薄く、指先だけが絶えず動いている。そこに映し出されるのは、たった今、彼らが感じている退屈さや虚しさを一瞬だけ和らげる刺激的な話題ばかりだ。
『小惑星2012 DA14、来月地球最接近!』 『NASA発表、小惑星は地球をかすめるが衝突の可能性はゼロ』
カフェの店内に響く小さなざわめきは、危機感とは程遠い、どこか他人事のような緩やかさだった。
SNS、ツブヤイタッター。『地球オワタ』『もうこれで人類滅びてくれ』『会社に落ちて潰れろ』──指先が淡々と画面を撫でて、無機質な呟きが並んでいく。画像や動画リンクが目まぐるしく流れ、地球滅亡を描いたパニック映画の予告画像や、NASAの軌道シミュレーション、あるいは陰謀論を囁くオカルトサイトへの誘導が入り混じっていた。
それらを見つめる人々の瞳には、興味半分、退屈半分の色が浮かんでいた。本当に地球が終わるなんて、誰もが心の底から信じているわけではない。ただ、一瞬でも退屈を忘れられるネタにすぎないのだ。
その群衆の中に、南雲美優の姿もあった。制服姿の彼女は、電車の吊革につかまりながら、ぼんやりとスマホの画面を眺めている。画面上に飛び交う馬鹿げた文言を鼻先で笑い飛ばしながらも、その心のどこか奥深いところで、小さな棘のような不安が微かに疼いていた。
──本当に、落ちたりしないよね?
美優の指先が画面をスクロールすると、『もしこれで人類滅亡したらマジウケる』という呟きが目に留まる。その投稿は冗談じみた内容にも関わらず、多くの共感を呼び、瞬く間に「いいね」が増えていった。
彼女は視線を逸らしてため息を吐いた。馬鹿らしい。自分自身に言い聞かせるように美優は軽く首を振ったが、胸の奥で蠢くかすかな不安が拭い去られることはなかった。
指先だけが世界を願い、呪い、嘲りながら、明日も変わらぬ満員電車に揺られる人々。その軽薄さと無関心が、誰も予想できない事態への序曲になっていることなど、誰一人として気づきはしないまま──。
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1-3. 鼓動
街の夜はどこかぼんやりとして、真冬の澄んだ冷気が薄く青白い街灯の明かりを揺らしていた。道沿いの住宅は静まりかえり、所々の窓に滲む暖かなオレンジ色だけが、人々の営みをかろうじて伝えている。
美優はイヤホンを耳に差し、スマートフォンから流れる音楽を聴きながら、無意識のままに足を運んでいた。見慣れた帰り道は特に気を引くものもなく、心はどこか遠く、ただ無感動に音楽のリズムに揺られていた。
ふと、違和感が彼女の意識を引き戻す。それは微かな感覚だった。イヤホンの向こうから音楽の低音とは異なる重低音が響いている──いや、イヤホンを通しているのではない。美優はすぐさまイヤホンを外した。
無音に近い静けさが耳を包む。だが、数秒後、確かにその音は再び聞こえた。
──ゴォ……ブゥン……
低く、重く、耳の奥のどこかを圧迫するような響き。それは足元の舗装道路から直接、身体へと伝わってくるようだった。美優はじっと立ち止まり、地面に視線を落とした。何も異常は見えない。アスファルトは冬の乾燥した冷気に固く引き締まり、街灯に照らされた路面には僅かな凹凸以外は何もない。
音は、地下の奥底から微かに脈動するように続いている。周囲を見渡したが、道ゆく人も車も誰ひとり気付いていないように、淡々と無関心に通り過ぎていく。
その場に立ち尽くし、耳を澄ませるほどに、音はさらにはっきりとした輪郭を持ち始めた。重低音は静かだが、それ故に不気味で、まるで地面の奥深くで何か巨大なものがゆっくりと呼吸を始めたような、そんな錯覚さえ覚えた。
不安を抱えたまま帰宅した美優は、その夜なかなか眠りにつけなかった。
翌日、学校でその話をしてみると、意外にも何人かの友人から似たような反応が返ってきた。
「そういえば昨日、私も聞いたかも。三鷹の駅前」 「あれでしょ? 夜に道路の下からゴーって音。ちょっと気持ち悪かった」
しかし、誰もが最終的には軽く笑い飛ばし、「工事でもしてるんじゃない?」「気のせいでしょ?」と話題は簡単に流されてしまった。美優自身も、大したことではないのかもしれない、と心を落ち着かせようとした。
だがSNS上では、少しずつ似た報告が増え始めていた。
『道路が鳴ってる』 『夜になると足元が共鳴する感じがするんだけど』 『変な音、動画に撮ったけど再生すると何も聞こえない……』
不安はじわじわと拡がりを見せた。国交省が調査に動き出し、地下空洞や漏水、地盤沈下の可能性を探ったが、結果は異常なし。現象の正体は不明のままだった。
美優はその報告を見ながら、不安の正体を掴めずにいた。あの夜、足元に感じた異音は決して幻聴ではなかった。確かに、自分の身体がそれを覚えている。
──これは一体、何だというのだろう。
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1-4. 共鳴
特対室のオフィスは、いつも通り無機質で静かな雰囲気に満ちていた。壁に並んだ資料と冷たい蛍光灯の光が、日常とはどこか隔絶した印象を与えている。美優は学校帰りの制服姿のまま、扉を押し開けると勢いよく口を開いた。
「これ絶対怪異だって!」
突然の主張に、デスクに座っていた蜘手創次郎が軽く眉を上げ、美優の顔を一瞥すると、ふっと微笑を浮かべて首を振った。いつもの冗談半分の態度だが、その微笑には本気で取り合う気配が感じられない。だが、すぐそばで資料を広げていた葦名透真が、ふと顔を上げて真剣な表情で美優を見つめた。
「いや、……聞こえない音が鳴っているのは事実かもしれない」
透真の言葉に、オフィス内の空気が僅かに緊張した。窓際に静かに佇んでいた久世灯里が、まるで何か遠い世界を見ているように視線を中空に漂わせながら呟いた。
「道路の下、何かが目覚めてるのかもしれない」
灯里の静かな声が、美優の背筋をぞくりと冷やした。確信めいたその言葉には、日常を侵食する異質な響きがあった。
その夜、深夜の調査には透真と灯里、そして美優が同行した。特対室の戦力担当である轟雷蔵は、「ぶちのめさなきゃならない奴がいたら呼べ」と笑って留守番を申し出たが、その笑みはいつもよりほんの少しだけ固かった。
深夜の街は一層静かで冷え込んでいた。透真は音響測定機と振動計を設置し、自らの『透視』能力を駆使して舗装道路を凝視した。灯里は何かを感じ取るかのように目を閉じ、美優は息をひそめてその様子を見守った。
普段は何の異変もない道路が、23時を回った瞬間、まるで息を吹き返したかのように微かな低周波を発し始めた。機器のモニター上にはΔf≈30Hzの明確なビートパターンが浮かび上がる。そのリズムは規則的で、地盤が自然に出すはずのない人工的な律動だった。
透真はその波形をじっと見つめ、眉を深く寄せた。灯里もまた、小さく唇を噛みしめている。
美優は身体の奥底で静かに芽生え始めた恐怖を抑え込もうとしたが、機械的な低周波の鼓動はまるで彼女の不安と共鳴するかのように、じわりじわりとその存在を主張していた。
何かが、ここで確実に目覚め始めている──。
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1-5. 鼓動
夜の工事現場は、死者の街のように静まり返っていた。周囲を覆うフェンスに取り付けられた数基の工事灯だけが、薄暗く青白い光を放ちながら、規則的に点滅を繰り返している。その頼りない明滅は、夜闇を払うどころかむしろ闇を深く濃く染め上げ、辺りを一層不気味なものへと変えていた。
舗装工事の途中なのだろう。路面には新品のアスファルトが黒く艶めいており、まだ真新しい油分の匂いが、かすかに鼻を刺激した。現場には誰もいない。作業員たちの姿も、車両の影も、まるで潮が引くように完全に消え去っていた。ただ、あの音だけが密やかに、しかしはっきりと辺りを満たしている。
──ゴォ……ゴォ……。
低周波音は、まるで巨大な生き物がゆっくりと呼吸を繰り返しているようなリズムを刻んでいた。美優の耳の奥にその音が微かに響き、やがて自分自身の心臓の鼓動と溶け合って、どちらが自分の生理的な音であるのか、もはや見分けがつかなくなりつつあった。彼女は知らず知らずのうちに拳を握り締め、呼吸を浅くしていた。
ふと肩に柔らかな感触を感じ、美優ははっと我に返った。見ると、灯里が心配げな顔をして美優の肩に手を置いていた。灯里の瞳には、どこか別の世界を覗いているかのような、静かな緊張が浮かんでいる。
「……聞こえる?」
灯里の声は囁きにも満たないほど微かで、静かな夜の中に溶け込むようだった。
「これは、ただの音じゃない」
その言葉に、美優の背筋を冷たいものが這い登った。彼女が感じていた漠然とした不安が、灯里の言葉によって輪郭を持ち、確かな恐怖となって胸の奥に突き刺さったのだ。
透真はすぐ近くで測定機を見つめ、じっと黙り込んでいた。彼はふと画面から視線を外し、その瞳に薄く光を宿す。透視──見えざるものを"視る"恩寵。しかし彼の表情は晴れない。彼の視線は何かを疑い、何かを考えているように見えた。
「この音は……異なる超高周波の干渉で生まれるうねりだ。自然界で、こんな道路から出てくるはずがない」
透真の呟きは低く、苦々しさを含んでいた。その言葉が意味するものを、美優は考えたくなかった。
夜はどこまでも深く静かで、地の底から響く不気味な呼吸音だけが、途切れることなく彼らの心臓を震わせ続けていた。
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1-6. 暗雲
数日が経ち、異音は確実にその影響を広げていた。蜘手が公安の知り合いを通じて集めた情報によると、国交省、建設局、気象庁、港湾局──すべての機関が調査を行ったが、原因は一向に掴めないまま「原因不明」としか報告されていなかった。
それに反比例するように、SNS上では人々が不安と好奇心を掻き立てるような投稿を次々と拡散させていた。
『東京、これ地震の前触れじゃね?』 『地下に何か巨大な生き物いる説浮上』 『足元から声が聞こえるって言ってる人もいるけど、マジ?』
拡散された情報は錯綜し、人々の疑念と恐怖を増幅させるばかりだった。
特対室オフィスでは、蜘手が難しい顔で端末を閉じ、椅子の背に身体を預けて長いため息をついた。その表情にはいつもの飄々とした態度は影を潜め、どこか真剣な陰影が落ちていた。
「……これは特対室案件になるな」
誰も何も答えなかったが、部屋の空気が一瞬だけ凍りつくのがわかった。
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1-7. 応答
再び深夜、調査対象の道路は音もなく沈黙していた。しかし、美優はその静けさがひどく不気味で、不自然に思えた。灯里もまた同じ気配を感じ取ったのだろうか、じっと目を閉じ、深く呼吸を繰り返していた。
ふと気付くと、周囲の動物たちがいつもと違っていた。道路沿いの並木に止まったカラスが、じっと地面を凝視し、鳴き声一つあげない。路地裏を横切る猫は背を低くし、耳をぴんと立て、何かを警戒しているようだった。
透真が測定器の画面を凝視しているが、その表情は不満げに曇っている。確かに、彼らは「何か」の存在を感じ取っているのだ──だがそれを機器が捉えられない苛立ちが透真の中でくすぶっているようだった。
灯里がゆっくりと目を開け、美優の方を静かに振り返った。その瞳には、はっきりとした確信が宿っていた。
「これは……"応えている"気配がする」
美優は無意識に自分の腕を抱きしめ、灯里の言葉を繰り返した。
「……なにを、誰に、応えてるっていうの?」
その問いに答えるように、道路は再び低く震え始めた。それは呼吸しているように微かに膨張し、収縮を繰り返しているような錯覚すらある。美優は自分の足元が、まるで何か巨大な生き物の皮膚のように感じられてぞっとした。
闇の底から低い笑い声が響くように、微かな音が鼓動する。
──ゴォォ……。
その響きは、まだ見ぬ怪異の咀嚼音のようだった。
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