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CASE:012-4 笑み女

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

4-1. 密約


 夜の路地裏に再び立った蜘手は、指先で弄ぶ煙草に火をつけた。乾いた音を立てて燃え始めた煙草は、灰色の煙を細く昇らせながら、彼の指先に微かな熱を伝える。今日は灯里の代わりに透真がその隣に控えていた。透真の表情には相変わらず感情の波がなく、どこか透明な水面のような静けさを湛えている。

 やがて、JAWSONの自動ドアが軽い音を立てて開いた。出てきた癒雨はその姿を街灯の淡い光に晒すと、穏やかな笑みを浮かべながら二人に近づいてくる。その微笑みには緊張や警戒はなく、むしろ久しぶりの友人と会うかのような親しげな色が混じっていた。

「今日はイケメンさんと一緒なのね、緊張するわ」

 癒雨の軽い冗談に透真は一瞬だけ眉を動かしたが、特に何も言わず視線を静かに彼女に注いでいる。蜘手は口元の煙草をゆっくりと吹かし、その煙が薄く宙に溶けるのを眺めながら、静かな声で問いかけた。

「透真、どうだ?」

 透真は目を細め、まるで空気の流れを見るように静かに癒雨を観察し、淡々と答えた。

「食欲を『害意』と言わないのなら、他に害意らしい害意の色は見当たりませんね」

 癒雨はその言葉を聞いて満足げに微笑んだ。彼女の微笑みはいつもと変わらぬ柔らかさを保っていたが、その瞳の奥には、やや警戒心の滲む興味深げな輝きが宿っていた。蜘手は煙草を指の間でくるりと回し、ゆっくりと吐き出した煙が、夜の空気に溶けていくのを見届けてから、静かな声で切り出した。

「──あんたに、提案がある」


 その言葉を聞いた瞬間、癒雨の表情がわずかに引き締まった。彼女の柔らかな微笑みはそのままだったが、その下に隠された内心の動きが、微かに透けて見えるようだった。彼女は無言のまま、小さく頷くことで蜘手に先を促した。

 蜘手はゆっくりと一歩近づき、彼女の耳元に向かって何かを囁くように小声で話し始めた。彼の声はあまりにも静かで、透真ですら内容を拾うことは難しかった。その言葉の意味を完全に理解できるのは、今この場に立つ癒雨だけだろう。透真は黙ってその様子を見つめていたが、彼自身もまた、この交渉の微妙な綾を理解しようと静かに観察を続けていた。

 蜘手の言葉が途切れ、再び沈黙が訪れた。癒雨の表情は動かず、ただ彼女の瞳の中にだけ、何かを慎重に計算するような冷たい光が揺れた。数秒間の沈黙が流れた後、彼女はゆっくりと小さくため息をついた。それは諦めというよりも、現実的な判断を下した者の落ち着いた反応に近かった。


「悪くない提案だけれど──例えば私が力をつけすぎて反故にしたときのことは考えてあるの?」

「心配するなよ、お前さんはまだ知らないが、こっちにはとっておきが居る。ちなみにな、お前さんは気づいていないだろうが、この間の時に『目印』を付けてある。どうにも手癖が悪くてね。姿を消したとしても追跡できる」

「まるでストーカーみたいね……まあ、いいわ。あなた達の『対処』って死んじゃうくらい痛そうだもの」

 癒雨の言葉には微かな皮肉が混じっていたが、その裏に彼女なりの危機感が見え隠れしていた。だが、彼女はそれをすぐに冗談めいた口調で覆い隠す。

「でも、役者として有名になったら、『それ』はできなくなるよ?」

 蜘手はその言葉を聞いて唇の端を持ち上げ、小さく笑った。その笑みには癒雨に対する好奇心と、彼女が本当にそんな夢を追っていることへの奇妙な感心が混ざっていた。

「お前さん、本気で役者目指してるのかよ」

 蜘手の問いかけに、癒雨はすぐには答えず、しばらく彼の顔を静かに見つめていた。それから、ふと肩の力を抜くようにして柔らかく微笑んだ。

「当然。多くの人間に癒しを与えれば与えるほど──私の利になるんだから」

 その言葉には、何の偽りもためらいも感じられなかった。むしろ彼女の瞳には、役者としての未来を本気で見据えている真剣な輝きさえ浮かんでいるようだった。


 蜘手は煙草を再び口元に運び、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。その吐き出された煙が、夜の空気に消えていくのを見ながら、彼はこの奇妙な怪異が持つ人間じみた夢に、どこか冷笑とも同情ともつかない複雑な感情を抱いていた。

 この夜、一人と一体の間で交わされた『密約』の詳細は、誰にも知られることなく、ただ微かな余韻だけを残して闇の中に溶けていった。ただ、この場所に立ち会った透真だけが、そのやり取りの結果、『何らかの取引が成立した』ことだけを静かに理解していた。



4-2. 指の指し方


 地下階にある特対室のオフィスには時計の針が指し示す時刻以外に昼夜の区別がない。白い壁は蛍光灯の明かりに照らされ、常に一定の色彩を保っていた。人間の感情や事件の残滓が染み込んだ空気は、どこか沈殿したような重苦しさを伴って、静かに室内を満たしている。

 ホワイトボードの前には、特対室の全員が集められていた。蜘手は、いつもの軽薄な笑みをわずかに抑え、手にした報告書を静かに眺めている。彼の脳裏には、昨夜交わされた頼谷癒雨との密約の余韻がまだ微かに残っていた。


 蜘手はゆっくりと視線を上げ一同を見渡した。静かに彼が話し始めると、室内の微かなざわめきがすっと消え、皆が一斉に耳を傾けた。

「──昨日、頼谷癒雨との間で約束を取り付けた。奴は特定の個人への過度な干渉を行わないことを約束した」

 蜘手の声はいつになく落ち着いており、重く響く。

「店での勤務はこのまま継続させる。ただし、特対室の監視対象として正式に登録し、月に一度、面談を行う」

 美優は、その言葉を聞くや否や、椅子に座ったまま眉をひそめ口元を尖らせた。彼女はまだ納得がいかない様子で、足を不機嫌そうに揺らしている。蜘手は美優に軽く視線を向けて微笑んだが、その笑みはわずかに硬かった。彼は続けて説明を加える。

「その代わり、頼谷癒雨には都市の異変や噂、微細な社会の兆候についての情報を集めて提供してもらうことになった。もちろん、もし奴が約束を破り、誰かに過度な干渉を行った場合には──」

 彼はそこで一旦言葉を止め、視線を鋭くした。

「特対室が直接処理する」


 最後の言葉は静かだが、オフィスの空気を震わせるほどの重みを持っていた。一同が沈黙した中、美優がいかにも納得いかない様子でつぶやく。

「ほんとに……放っといていいんですか? 怪異ですよ?」

 美優のその問いには、純粋で真っ直ぐな正義感が滲んでいた。彼女の正論は確かにその通りであり、オフィスの誰もがそれを心の隅で理解していた。しかし、蜘手は敢えてその問いに答えず、隣に立つ透真へと目配せした。透真は眼鏡を軽く押し上げ、静かな口調で言葉を引き取った。その声はいつものように淡々としていたが、背後には緻密な分析に裏打ちされた重みが感じられる。

「本来、決して他者に話さないはずの『心の奥』を、彼女の前では自然に口に出してしまうようです。『癒し』というより、『心理的開錠』と言った方が正確ですね。正直、情報源としてはかなり有用だと考えます。もちろん、こちらが彼女の行動を徹底して管理することが前提ですが」

 透真のその言葉を聞き、蜘手は小さく頷いた。彼が煙草を取り出し、指の間で軽く弄びながら口を開く。

「月を指す指のようなもんさ。指の指し方にこだわってばかりいては、その先にある栄光──『月』を見失ってしまう」

 その瞬間、(とどろき)雷蔵(らいぞう)の眉がピクリと動いた。微妙な動きだったが、それは明らかに蜘手の言葉に対する反応だった。美優は怪訝そうに首をかしげる。

「何それ?」

 蜘手は彼女の無垢な問いかけに、どこか楽しそうに目を細め、静かに答えた。

「有名な映画のセリフさ、知らない?」

 美優は唇を尖らせて首を横に振る。蜘手はそんな彼女の反応を楽しむように笑った後、再び静かに続けた。

「ま、使えそうなもんは拘らずに使わないとな」


 その言葉には、深い現実的な諦念と、状況を柔軟に受け入れることを選んだ特対室の覚悟が含まれていた。美優はまだ不満げだったが、轟は黙って腕を組み、透真は冷静に頷いている。久世灯里は何も言わず穏やかな微笑を浮かべていたが、その瞳の奥には微かな不安が揺れていた。

 オフィスの蛍光灯は、今日も変わらず微かなノイズを響かせながら淡々と輝き続けている。その一定の明かりの下、特対室のメンバーたちは、それぞれの胸の内にある複雑な感情を静かに抱えながら、新たな『共存』の形を受け入れようとしていた。


 頼谷癒雨という怪異は毒でありながら薬でもある。その曖昧な境界を、彼らはこれから慎重に渡り歩かなければならないのだ――。



4-3. 微毒


 頼谷癒雨は確かに怪異だった。人間の心の隙間に入り込み、わずかな毒を与えながら生きている。しかしその毒は、日常に疲れた人間にとっては癒しにもなり得る微毒であった。そして何より彼女自身も、日々の生活や夢を持ち、社会という網目の中に巧みに溶け込んでいた。善悪で断じることはできない、複雑な存在。法や規則だけでは裁けない、曖昧で繊細な領域に彼女は生きていた。


 蜘手が交わした『取引』は、その曖昧さを認める代わりに、彼女を『情報屋』として利用することだった。決して正義とは言えないが、現実的な選択。特対室という組織の存在そのものが、こうした微妙な均衡の上に成り立っているのだということを、彼は深く理解していた。そもそもで言えば腹の中の全く読めない室長の方が大分危うい。あれは明らかに平穏の維持の為には動いていない、いわば劇薬だ。


 数週間後の夜、再び訪れた渋谷の路地裏には初夏の気配すら漂い始めていた。湿り気を帯びた生暖かい風が肌を撫で、どこからか漂うかすかな花の香りが、かえって闇の濃さを引き立てる。路地裏は季節が変わっても変わらず、ネオンの光から取り残されたままの場所だった。そこに立つ癒雨は、少し疲れた様子を見せていたが、相変わらず穏やかで隙のない微笑を浮かべている。仕事帰りのためか、コンビニの制服から着替えた彼女の私服姿はシンプルで目立たず、それがかえって彼女の持つ異質な存在感を浮き彫りにしていた。


 蜘手はゆったりとした足取りで彼女に近づき、ポケットから煙草を取り出しながら立ち止まった。そのまま静かに火をつけ、薄い煙を吐き出す。吐き出した煙は闇に溶けて淡く消え、彼女との距離に慎重な境界線を引いているかのようだった。

「なにか、面白い話はあるか?」

 蜘手の問いかけは静かで、会話というよりは独り言のような響きを持っていた。彼の声が消えると、再び周囲は沈黙に包まれる。癒雨はその沈黙を楽しむかのように数秒間、言葉を返さず、ただ静かな微笑みを浮かべていた。その間にも彼女の瞳は、どこか深いところで揺らめいていた。

 彼女は自らを食物連鎖の頂点にいる捕食者として認識しているが、その捕食は微かで巧妙であり、誰も傷つけずに行われる。少なくとも、目に見える傷は誰にもつけない──彼女は常に慎重に『餌場』を選び、その場を決して荒らさない。


 蜘手は内心、静かに苦笑した。彼女の存在は特対室にとって確かに役に立つ。役に立つどころか、彼女が掬い取る人間の無意識の感情や社会の微細な変化は、組織が最も必要とする情報だった。微毒を含んだこの関係性──それは決して理想的ではないが、現実の中で最善とも言える。

「そうね。あなた達が好きそうな、こんな話があるわ──」


 夜の路地裏は闇に沈み、癒雨の言葉だけが薄く広がる霧のように静かに染み渡っていった──。



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