CASE:012-3 笑み女
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
3-1. 変異
夜はすでに深く、渋谷の路地裏には静けさが広がっていた。風ひとつなく、そこはまるで空気そのものが凍りついてしまったかのような静寂に包まれていた。周囲の建物の影が黒々とした濃淡を作り出し、薄く灯る街灯だけが、その不自然な沈黙をかろうじて照らし出している。
路地の中央で、蜘手と灯里は一歩も動かずに立ち尽くしていた。その視線の先には、穏やかな微笑みを浮かべたまま佇む癒雨の姿は、夜の闇の中でぼんやりと白く浮かび上がっているように見えた。
蜘手の肌を包む空気には、奇妙な透明さがあった。それは灯里が施した『境界』の力で、精神を外部からの干渉から守る薄い膜のような防護壁である。まるで澄んだ水の中にいるような、不自然に落ち着いた感覚だった。蜘手は短く息を吐き、軽く唇を開いた。
「あんた、何者だ?」
それは淡々とした口調だったが、明らかに詰問の響きを帯びていた。癒雨は蜘手の問いを聞くと、二人をゆっくりと見比べ、口元に柔らかな笑みを浮かべた。その笑みは美しくも不気味で、わずかな皮肉を含んでいた。
「妙な力を持ってるのね。あなたたち」
彼女の声は穏やかで、夜の沈黙を乱さない程度に静かだったが、その口調にはどこか人間を見下ろしているかのような響きが混じっている。蜘手は動じず、肩をすくめるようにして応じた。
「まあな……あんたみたいなのに人知れず対処する組織ってやつさ」
蜘手のその言葉を聞くと、癒雨の表情に微かな驚きと興味が混じり合う。その目には、初めて見る珍しい玩具を見つけた子どものような光が宿っていた。
「漫画みたいな話でにわかには信じられないけれど、本当にあるのね。そういう組織って」
「あんたみたいなのにそう言われるとはな」
そのやり取りを聞きながら、灯里はゆっくりと目を細め、慎重に問いを投げかけた。
「あなたは『何』なの?」
その声は静かだったが、彼女の視線には鋭く冷たいものが宿っていた。癒雨は再び微笑み、軽く肩を竦めて見せる。その仕草はごく人間的だったが、彼女の瞳には冷たく人間離れした輝きが隠れていた。
「そうね、あなた達の正体を教えてくれたお礼に私も明かしてあげるわ」
癒雨はそこで一瞬言葉を切り、まるで自分の正体を語ることに迷うかのようにわずかに視線を揺らしたが、すぐに決意したように再び口を開いた。
「ええと……あなた達の言う『サキュバス』とか──日本では『川姫』なんてのもいたわね。ああいう存在の……突然変異よ。言ってみれば新世代ってところかしら。旧世代とは反りも合わなかったし、はぐれ者ってわけ」
その説明は淡々としていたが、蜘手にはその内容が持つ重みがすぐに理解できた。古い伝承に生きる怪異が、現代の人間社会のなかで新しい姿を得て適応しつつある──その事実は静かな恐怖と共に彼の胸をかすめていく。彼は意識を集中し、密かに指先から霊糸を解き放った。透明で細い霊糸は静かに空気を伝い、癒雨に接触した瞬間、彼は思わず眉をしかめた。
──花の香りのような何かが霊糸を逆流して、蜘手の精神に滑り込んできた。
「……っ!」
彼は即座に霊糸を断ち切り、自分の内部に侵入しようとする甘い感覚を強引に振り払った。鼓動がわずかに早まる。彼の内側で警告が鳴り響いた。普通の霊糸では相性が悪い──その認識が脳裏に焼きついた。
蜘手のそんな逡巡を見透かしたように、癒雨の笑みが深まった。どこか挑発するように、彼女は静かな声で囁く。
「それ、今やるの? ふふ、やめてよ。私、これから劇団で『物語の稽古』なの。役者って人間の心を奪う仕事でしょ?」
その言葉が終わると同時に、彼女の姿がふっと闇に溶けるように消え去った。蜘手が瞬時に放った先ほどとは異なる色の霊糸は空しく宙を滑り、路地裏の虚空を掴むだけに終わった。
「逃げ足も速えな……」
蜘手は小さく舌打ちをして呟いた。静まり返った路地には、癒雨が残したかすかな甘い花の香りが漂っているだけだった。それは確かに心地よい香りだったが、同時に、胸を締め付けるような奇妙な息苦しさも伴っていた。
(──そうか、この匂いは娘が使っていたシャンプーの)
灯里は心配そうに蜘手を見つめている。その視線を感じながら、蜘手はただひたすらに警戒心を強めた。
自分たちが今対峙しているもの──それは古い時代の怪異が現代の歪みによって姿を変えた、『新たな脅威』だった。そしてそれは、人の心の奥底に深く浸透することのできる、甘く危険な存在だった。
夜の闇はますます深まり、路地裏は再び沈黙に包まれていく。その闇の底に溶け込んだ『新世代』の怪異は、静かに次の行動を待っているのだろうか──。
3-2. 依存
特対室オフィスの空気は、いつもよりわずかに張り詰めていた。淡い蛍光灯の下で葦名透真は黙々とPCに向かい、画面を睨みながらキーボードを叩き続けている。彼の瞳には疲れが滲んでいたが、その奥には事実を丹念に拾い上げて整理する、分析者特有の鋭い光が宿っていた。
昨日、蜘手と灯里が頼谷癒雨と接触した件について、透真はストーカー事件に関する聞き込みという体裁で、彼女と頻繁に接している客たちの心理傾向を探っていた。その報告書を仕上げるため、録音データを聞き返す彼の耳には、さまざまな年齢層の人々が語る『癒雨』への奇妙な執着が生々しく響いていた。
『……あの子がレジに立ってるときだけ、妙に店内の空気が柔らかいというか……』
四十代の男性会社員の声は、どこか恥ずかしげでありながらも、その奥には隠しようのない熱意があった。
『つい余計な買い物までしてしまうんです。しかもまた来たいって気持ちになる。正直、俺の家の近くにもJAWSONあるのに、毎日遠回りして通ってます』
その証言をタイプしながら、透真の指先が僅かに躊躇った。それはただの買い物習慣の変化を超えて、生活の一部を彼女に依存してしまっていることを示していた。
続いて流れるのは、二十代女性の学生の、細く震えるような声だった。
『正直、人間関係で疲れてたんです。でも、コンビニであの人とちょっと話すと、なんか全部どうでもよくなる感じがして……泣きそうになったこともあります。名前も知らないのに、癒されたいってだけで通ってました』
その声には確かな救いを求める切実さが滲んでいたが、同時に、癒雨への執着が自分自身の生活の軸を蝕んでいくような怯えも感じられた。
さらに六十代男性の落ち着いた声が静かに語る。
『なんていうか……孫に会ったような気分になるんですよ。安心して、つい財布のヒモが緩む。つまらない話にも相槌をくれてね。あの店に行くのが一日の生きがいになってました』
老人の声は優しく穏やかだったが、その穏やかさが逆に透真を不安にさせた。彼女の存在は、老人の孤独を利用してその心に入り込み、静かに寄生しているように思えた。
最後に流れた接客業を営む女性の声は、焦りと恐怖に震えていた。
『癒されるって、あんなに怖いものなんですね。あの人が笑ってくれると、どんなミスも許された気になる。でもそれが続くと、自分で考えるのが馬鹿らしくなって、ただ彼女に会いたくなる……これ、やばいですよね?』
透真は録音を止め、ゆっくりと溜息をついた。報告書の作成を進めながら、彼の脳裏には、これらの証言が示す共通の心理傾向がくっきりと浮かび上がった。
──異常なまでの安堵感、そして無根拠な信頼感。
癒雨の周囲では、人々が自分から進んで心を差し出し、彼女に心理的依存を寄せている。影響は軽微なようでいて、確実に人々の日常の核にまで入り込んでいる。しかも、当人たちはそれを『幸福』だと感じて疑いもしない。
透真は冷静に結論を打ち込んだ。
『接触者の生活に直接的な破綻は見られないが、他者への関心の減退、心理的依存など軽度の悪影響が認められる。しかし、不眠の解消、心身の安定など、短期的にはむしろポジティブな影響すら確認される』
それを書き終え、彼は小さく首を振った。幸福をもたらすことそのものが異常なのではない。その幸福が他者との関係を希薄化させ、彼女一人に収斂してしまうことが異常なのだ。蜘手が透真の背後からディスプレイを覗き込んで呟く。
「目立ちすぎないように、細く長く、ってわけかねぇ」
透真は頷いた。影響力は明らかに意図的に調整されている。彼女は決して『人を壊さない』程度に、その力をコントロールしているのだ。
「恐らく我々のように人間として変質した者だけが、彼女の癒しを異物と認識します。だがそれは、感受性の死と紙一重ですね」
オフィスの蛍光灯がちらつき、冷えた空気が背筋を走った。
3-3. 再訪
翌日、夕暮れの淡い光が街に降り始めた頃、蜘手と灯里、そして美優の三人は再び駅南のJAWSONの店内に立っていた。制服姿で笑顔を浮かべる癒雨は昨日の対峙などなかったかのように、いつものように接客を続けている。その周囲だけが柔らかな光で包まれているように見え、客たちの表情は穏やかで満たされていた。
「……なんか、理由ないけど気に食わない」
美優は苛立ちを隠そうともせず呟いた。彼女だけが、店内の穏やかな空気に溶け込めずに取り残されているようだった。
「第六感ってやつかね」
蜘手は軽く美優の肩を叩き、頃合いを見てカウンターへ近づくと癒雨に穏やかに話しかけた。
「昨日の今日で大胆だねぇ」
癒雨はその言葉にも動じず、微笑みを絶やさない。
「私にも生活があるもの。それにあなた達は表立って私になにかすることは出来ないもの。話があるなら退勤まで待ってて」
そう言い切ると、再び客の相手をする彼女の態度には余裕があった。蜘手はその様子を見て、苦笑を浮かべる。
美優は気分転換でもするかのように、蜘手に向かってからあげやポテトチップスやアイスを次々にねだった。
「俺にも生活があるんだけどねぇ……」
蜘手が諦め半分に支払いを済ませるのを横目に、美優はレジから戻りながら顔をしかめて小さくぼやいた。
「なんか、あいつのこといい感じに思えちゃったのがムカつく」
イートインスペースで商品を広げながらも、美優の心は店内の奇妙な幸福感に対する違和感を捨てきれずにいた。彼女だけが癒雨の『癒し』に抗っているようだった。その姿を眺めながら、蜘手は静かな警戒心を解くことはなかった。
3-4. 共生
夜の路地裏は冷たい水底のように静まり返っていた。ネオンの明かりが届かない暗がりの中、かすかに湿気を帯びた空気だけが重く肌にまとわりつく。そこは、何か後ろ暗い秘密を持った者が訪れるのに相応しい、街の狭間のような場所だった。
「あら、さっきの子は帰したの?」
蜘手と灯里が待つ前に、路地の奥からゆっくりと癒雨が姿を現した。制服から私服に着替えた彼女の足取りは軽く、夜の闇さえ友人のようにまとっている。その顔には余裕に満ちた微笑が浮かんでいた。
美優は灯里の境界操作により存在感を極限まで遮断し、物陰に潜んでいる。蜘手からの合図があった場合、即座に腕か脚か──戦闘能力を削ぐために『分解』を発動する段取りとなっている。
「で、今度こそ捕まえに来たの?」
癒雨の問いかけには、静かな挑発が込められていた。灯里が静かに一歩前に出るが、癒雨はその動きをまるで気にも留めないようだった。その姿はまるで、ここで何が起きようと自分が負けることなどありえないと信じているかのようだった。
上空を覆うネット、あらゆる高さに張られたワイヤートラップ──既に不可視の『精神非干渉』霊糸による罠が、蜘蛛の巣のように幾重にも仕掛けてある。蜘手は穏やかながら鋭い視線を癒雨に向け、口元を微かに歪めて言った。
「あんたのやってること、癒しの皮かぶった捕食行為だって自覚あるだろ」
癒雨は一瞬間を置いてから、その言葉に軽く頷いた。彼女の笑みはますます深まり、その目には不気味なほど透明な光が宿っている。
「ええ、もちろん。でもね、性的な接触なんてババアたちの時代でしょ?」
癒雨は軽い笑みを浮かべつつ、夜空に視線を投げるように言葉を続けた。
「今の時代、人間自らストレスまみれの社会を作って自分の首を絞めてるわ。だから今の人間が欲しがるのは、純粋な『癒やし』なのよ。見返りを求めず、『話を聞いてくれるだけの誰か』が欲しいの。私はそれを与えて、人間から伸びてきた繋がりからほんの少しずつ『いただいてる』だけ。プラトニックな関係ってやつかしら?」
癒雨の声は滑らかで甘く、聴く者の心を掴んで離さない妖しさに満ちている。その言葉は夜の空気に溶け込み、次第に蜘手と灯里を静かに包み込んでいった。
「人間は癒されたがっている。そして私はただ応えているだけ。それだけで人間は勝手に『癒された』ことにしてくれる。だから誰も気づかない。これは搾取であり、捕食であり、甘い毒の流し込みだってことに」
彼女はそこで言葉を切り、くすりと小さく笑った。その笑いはまるで、彼女が人間を密かに嘲笑っているかのようだった。
「でも、たかが一日寝れば回復する程度よ。対象は何十人もいる。少しずつだけれど、いろんな味よ。それに──誰も壊してないわ」
蜘手は呆れたように煙草を一本取り出し、火を点けると深く息を吸い込んだ。吐き出された煙はゆるやかに宙に溶けていく。
「怪異に社会を説かれるとはな……」
癒雨は楽しげにその言葉を受け止めた。
「だって、現代って便利だけど孤独な世界でしょ? そんな世界、私にとって『癒やし』が一番流通する通貨なの。そしてコンビニは最高の餌場よ。向こうからやってきて、ちょっと笑顔でいるだけで勝手に人間が私に興味を持ってくれる。深く関わらず、でもたくさんの人間と顔を合わせられる。餌場を枯らすような馬鹿な真似はしないわ」
蜘手は静かに煙草をくゆらせながら、ふと問いかけた。
「……お前さん、人から相談とかはされるか?」
癒雨は怪訝そうに首をかしげ、それから小さく頷いた。
「……されるわよ。身の上話、愚痴、家族のこと。聞いてほしいって顔で話しかけてくる。でも、まあ──内心は全部どうでもいいけどね」
その冷淡さを隠そうともしない口調に、蜘手は思わず視線を落とした。深い思案が彼の心を包んでいた。数秒の沈黙が流れ、ようやく蜘手は顔を上げ、静かな声で言った。
「……わかった。行っていい」
癒雨の表情に初めて驚きが広がった。その驚きはごくわずかな時間だけ彼女の顔を横切り、すぐにいつもの余裕のある表情へ戻った。
「あら、予想外。てっきり縛られるかと思ってたのに。内心、戦う覚悟してたのよ?」
蜘手は彼女の言葉に淡々と応じた。そして、
「正直、対処するほどの影響じゃない。確かにあんたは毒だ。でも、それは──薬にもなる」
微かな笑みを浮かべて付け加えた。
「ねえ……あなたも、少しだけ疲れてるんじゃない?」
癒雨は一瞬だけ目を細め、それから何も答えずに静かに微笑むと、軽く頭を下げて路地の闇へと溶けるように去っていった。
3-5. 毒薬
帰り道、美優は明らかに不満を隠さず蜘手に食ってかかった。
「創次郎さん、何言ってんの! 操られてんの!? あれ怪異でしょ!」
蜘手は足を止めず、淡々とした口調で応じた。
「そうだよ。あいつは怪異だ。でもな、美優くん……怪異にも使い道ってのはある」
美優はその答えに唖然とした表情で蜘手を見つめた。彼は彼女の視線に気付いて小さく笑いながら言葉を続ける。
「毒もさ、少しずつなら──効くんだよ。むしろ、痛みに効くのは毒なんだ」
美優は不満げに頬を膨らませ、小さく吐き捨てた。
「納得いかないー……」
夜はまだ深く、彼らを取り巻く闇は重く濃い。蜘手は美優のその声を背中で聞きながら、自分が下した決定を静かに反芻していた。怪異と人間の共存。善悪の境界は曖昧で、完全な解決などありえない。彼ら特対室が存在する理由は、その曖昧な境界を慎重に渡り歩くことにあるのだ。そして今夜また一つ、『毒』との共生が始まったのだと蜘手は思った。
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