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CASE:012-2 笑み女

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

2-1. 陶酔


 翌日も渋谷の午後は相変わらず、けだるさをどこかに置き忘れたかのように騒々しかった。しかし、その喧騒から数歩踏み入った駅南のコンビニだけは、外の世界と違った鈍い静けさを纏っていた。

 自動ドアが静かに閉まる。店内に足を踏み入れた蜘手は、まず並べられた雑誌や飲料を眺めながら、視線だけをさりげなく店内に巡らせた。日常的な商品棚が並ぶ店内はごく普通の光景だったが、蜘手が感じたのは明らかな異質さだった。買い物をする客の表情に、どこか浮世離れしたような柔らかな満足感が張り付いている。それはさながら、短い夢のなかでさまよい続けるかのような──あるいは麻薬じみた依存のような陶酔の表情だった。


 レジには二人の女性店員が立っている。一人は年季の入ったベテラン風の中年女性。もう一人は、頼谷癒雨だった。レジに並ぶ行列は癒雨の方に集中している。

 蜘手はあえてベテランの女性店員が立つ方のレジに並び、癒雨を斜めから観察することにした。彼女は写真で見た通りの中性的で整った、しかしごく平凡な印象の顔立ちをしている。見た目には特段の魅力や華やかさも感じられない。けれど、彼女と短いやり取りを交わした客たちは、湯気の中でまどろむような陶然さを帯びてレジを離れていく。その様子は、彼女が持つ穏やかな笑顔と、ごく自然で丁寧な言葉遣いだけでは到底説明できないものだった。

 買い物を終えた蜘手は、内ポケットから警察手帳を取り出すと、店の奥で棚の整理をしている若い男性に歩み寄った。美優を除く特待室の面々には表立った活動をする時の為のカバーとなる所属が与えられている。捜査一課とだけ身分を告げ店長を求めると、若い男性店員は少し慌てたようにバックヤードに向かって声を掛けた。


 ややあって、柔和そうな中年の店長がバックヤードから姿を現した。その表情には微かな緊張が浮かんでいる。警察手帳を見るなり、彼は「どうぞこちらへ」と丁寧に誘導し、店の奥の小さな事務室へと蜘手を招き入れた。狭い事務室は段ボール箱や販促資材の入った箱が積み上がり、書類棚が所狭しと並び、コーヒーと紙の混ざった匂いがこもっている。向かい合うように座った二人の間には小さな事務机が一つ置かれていた。店長は遠慮がちに、しかし率直に言った。

「あの……この前の事件の件ですよね? 警察の方も何度かいらしてましたが、うちの子が関わってたとはとても思えないんですが……」

 蜘手は軽く手を上げてそれを制止した。

「ああ、いえいえ、そこはあくまで確認程度の話です。実際、警察としても因果関係はまだ明瞭じゃないんですよ。ただ、少し気になる点があってね……」

 そう言いながら、蜘手は軽く笑みを浮かべ、話の流れを変えるように声の調子を柔らかくした。

「ところで──繁盛してるようですね。このあたりの店舗の中でも群を抜いているように見えますが」

 店長の肩から明らかに力が抜けたのがわかった。彼の顔に浮かんだのは安堵と誇らしげな笑みだった。

「ええ、おかげさまでね……実は、最近入った子が大当たりでして」


 店長の言葉には妙な熱が宿り始めていた。まるで宝物を人に見せびらかす子供のように、その瞳には無防備な光が宿っている。

「接客が丁寧で、気遣いもできる。何より見た目も綺麗で、まあ、お客様からの評判がとにかく良いんです。彼女のシフトには必ずと言っていいほどリピーターが多くてね」

 彼は一度言葉を切ると、ふと自嘲めいた笑みを浮かべた。

「彼女、役者志望らしいんですよ。今は小さな劇団に所属しているとかで、空いた時間にアルバイトを、って話なんです。本当にいい子で……」

「もう今から、彼女に辞められたりしたらと思うと、心臓が痛くなるんですよね……いや、すみません。変なこと言ってますよね」

 彼は我に返ったように軽く頭を掻いたが、その目はまだどこか焦点を失ったような熱っぽさを残していた。蜘手は動じることなく、ただ軽く相槌を打ちながら、その姿を注意深く観察していた。この男の陶酔したような表情と口調──それはまさに先ほど店内で見かけた客たちと同じ種類のものだった。


「なるほどね……売れる前の逸材、ってやつですかね」

 蜘手がそう呟くと、店長は大きく頷きながら再び自慢げに語り始めた。しかし蜘手の内心は、決して彼のその言葉に共感しているわけではなかった。むしろ、薄ら寒い違和感がじわじわと胸の奥を満たし始めていた。頼谷癒雨という女──その存在が及ぼしている影響力に、蜘手の心は鋭く警戒を研ぎ澄ませ始めていた。


 小さなバックヤードの事務室は、外の世界から切り離されたように妙に静かだった。店長の陶酔した声だけが、どこまでも続く不安な余韻のように響き続けていた。



2-2. 侵蝕


 特対室のオフィスでは蛍光灯の光が白い壁を褪せさせ、いつ訪れても時間が止まったように感じられた。空気は少しばかり黄ばみ、埃を孕んだような重さを帯びていて、誰かの溜息がそのまま溶け込んでいったような気配が残っていた。

 南雲(なぐも)美優(みゆ)は、事務用の回転椅子を斜めに傾けるようにして座り、スマートフォンの画面を見つめていた。画面の明かりが彼女の無表情な顔をぼんやりと照らし出している。そのまましばらく何かを考えるように黙っていたが、ふいに椅子を回して、隣のデスクにいた蜘手に向けて画面を見せた。

「創次郎さん、これ。たぶん例の人に関する投稿ですけど、結構話題になってますよ」


 美優のスマートフォンには、ツブヤイタッターというSNSの匿名投稿が並んでいた。短い文章の羅列に込められた熱気は、蛍光灯の光さえ打ち消してしまいそうなほど奇妙な熱量を放っていた。

『渋谷のコンビニ、夕方いる店員さんが癒しの化身すぎてつい寄ってしまう』

『一回あの人の「いらっしゃいませ」を聞くと、もう普通の声じゃ満足できない』

『渋谷のJAWSON通ってる人ならわかるでしょ? あの人の「いらっしゃいませ」で一日分のストレスが消える』

『なんでこんな気持ちになるのか、自分でも説明できない』

『気づくと笑顔で財布開いてる。怖い』

 蜘手は画面をざっと目で追った後、唇の端をわずかに持ち上げた。

「バズるバイト……なるほどねぇ」

 その言葉には感心も驚きもなく、ただ目の前の現象を淡々と受け止めているだけの響きがあった。美優は唇を尖らせ、少しばかり困惑した様子で言った。

「ガチ恋とかじゃなくても、この手の熱狂って始まるとヤバいですよね……」

 美優のその呟きには、どこか危険なものを目の当たりにした者特有の生理的な嫌悪感がにじんでいた。彼女は椅子を元の位置に戻し、再びスマートフォンを凝視する。見つめていると、自分の心のどこかがその狂気めいた熱量にじわじわと侵蝕されていくようで、彼女は小さく身震いした。


 蜘手のデスクに近づいてきた久世(くぜ)灯里(あかり)が、美優の背後からその画面を覗き込んだ。灯里の瞳はいつも柔らかく澄んでいるが、今だけはその色がわずかに濃くなったように見えた。

「『癒やし』という言葉にしては、投稿の中にある感情が少し……濃すぎる気がしますね」

 灯里のその言葉は静かだったが、彼女が抱いた危惧を明確に伝えていた。その投稿からは、普通の人間が持つべき癒しの感覚を超えた、何か異質で粘り気を帯びた感情が滲み出していたのだ。蛍光灯の微かなノイズが再び静まり返った部屋を満たす。三人の間には、何とも言えない気持ちの悪い沈黙が流れた。



2-3. 境界


 沈黙を破ったのは蜘手だった。彼は椅子の背もたれに軽く寄りかかり、視線を虚空に向けて独り言のように言った。

「明日、晩にもう一度店の裏手を回ってみるか」

 その言葉には決意というより、静かに職務をこなそうとする者の諦念のようなものが込められていた。灯里が静かに一歩前に出て、落ち着いた口調で言った。

「念のため、私も同行しますね。精神の境界を強めておきます。ちょっと機微には鈍感になりますが、その分入り込まれにくくなりますから。こんな風に」

 灯里はそう言って微笑むと、静かに手を伸ばし、蜘手の手首に軽く触れた。その瞬間、部屋の空気が一瞬だけ凝縮されたように、妙な『間』が生じた。蛍光灯のノイズが薄れ、部屋を満たす黄ばんだ空気がわずかに澄んでいくのがわかった。灯里の異能『境界』が発動し、蜘手の精神と外界、その二つを区切る境目を丁寧に強化していくのがわかる。それはまるで透明な薄い膜が身体を包み込むような感覚で、外界の不確かな影響から心身を護る繊細で確かな防壁だった。


 灯里の指先が離れると、部屋は再びいつもの日常を取り戻した。だが、蜘手には自分の周囲だけが不思議に静かで澄んだ領域になったように感じられた。これが彼女の持つ特異な力であり、彼らがこれまで幾度となく助けられてきた防衛線だった。

「頼りにしてるぜ、『境界』の女神様」

 蜘手は軽口のように言ったが、その声には明らかな敬意が滲んでいた。灯里は困ったような、それでいて満更でもないような微笑を浮かべ、静かに頷いた。


 特対室を照らす蛍光灯は、何も知らないように淡々と光を放ち続けている。だがその下にいる彼らの心には、これから起きるであろう不可解な出来事への緊張と、わずかな恐れが静かに忍び寄っていた。



2-4. 甘毒


 夕焼けの朱色はすでに消え去り、空は深みを増した群青色に静かに染まっている。駅南に位置するコンビニエンスストア『JAWSON』の周辺には、まだ人々のざわめきが絶えなかったが、それでも昼間ほどの活気はない。静かに帰路を急ぐ足音が、夜の帳が降りるにつれ次第に少なくなっていった。

 蜘手と灯里は、あえてその人波の隙間を選ぶようにして、店舗の裏手にそっと回り込んだ。街灯の乏しい薄暗い路地裏に足を踏み入れると、昼間の喧騒が嘘のように音が遠ざかり、世界の音量が一桁落ちたような気がする。


 しばらくすると店の裏口が小さく音を立てて開き、私服姿の頼谷癒雨が静かに姿を現した。その佇まいは昼間店内で見た時とまったく変わらず、ごく普通の女性のそれに見える。しかし、蜘手の目には、どこかこの世界に馴染まない違和感が、彼女の輪郭をなぞるように揺らめいているように感じられた。

 癒雨は外に出ると、習慣的に周囲をぐるりと見回した。そしてすぐに、路地の影に控える蜘手と灯里の存在に気付いたようだった。だが、彼女の顔には動揺の色はなく、むしろ微かに楽しげな笑みが浮かんでいる。

「あら……またストーカーさん?」

 彼女の声は、冗談を言っているかのように軽かった。だが、その冗談の裏側に潜む警戒と探りを、蜘手は敏感に感じ取った。蜘手は軽く肩をすくめ、緊張感を隠すように淡々と応じた。

「残念ながら、俺たちにそういう趣味はない。ちょっと君に聞きたいことがあるだけでね」

 そう言いながら、彼はさりげなく灯里の方へ視線を送った。灯里は穏やかな表情を崩さず、自然に微笑みながら一歩踏み出した。

「こんばんは。少しだけお時間をいただけますか?」


 その柔らかな物腰の奥には、異能『境界』によって強化された精神の防御壁がしっかりと存在している。灯里の微笑みは慈愛に満ちているが、同時に決して揺るがない芯の強さをも秘めていた。

 癒雨はそんな灯里の眉間をじっと見据え、瞳孔が僅かに開いた。彼女の瞳には微かな驚きが映ったが、それはほんの一瞬で、すぐにいつもの平静な表情に戻った。彼女の声は穏やかなまま、わずかに興味深げな色を帯びていた。

「……ふうん。普通の人、じゃないのね」

 その言葉は、二人がただの人間ではないことを見抜いているかのように響いた。蜘手は彼女の言葉に動じることなく、静かな声で問いかける。

「……『癒す』ってやつも、度が過ぎると毒になる、って話、聞いたことあるか?」

 彼の声は低く、街のざわめきに溶けていきそうなほど静かだった。だがその言葉には、鋭く彼女の本質を突こうとする力が秘められていた。


 癒雨は表情を崩さず、静かに頷いた。彼女の瞳の奥には、どこか冷ややかで淡い哀れみのようなものが浮かんでいる。その視線は、自分たちの前に現れた二人の人物が、決して好奇心や軽い疑念でここにいるわけではないことを見透かしているようだった。

「ええ、知ってる。でも……『毒になっても癒やされたい』人間って、意外と多いんですよ?」

 その言葉はまるで蜜のように甘く、同時に刃物のように冷たく蜘手たちの耳に響いた。彼女は薄く微笑んだまま、静かに二人の反応を待つように立っている。周囲の空気が一瞬で重みを増し、路地裏は不穏な緊張感に包まれた。


 蜘手は視線を逸らさず、じっと彼女の目を見つめ返した。その瞳には、彼女が放つ『甘い毒』に対する鋭い警戒心と、何かを確かめようとする鋭い探求心が絡み合って揺らめいていた。

 彼ら三人が対峙するその路地裏は、いつの間にか外界の喧騒から完全に隔絶されてしまったかのように静まり返っていた。まるで、この場所だけが現実から切り離され、誰も触れることのできない空間に取り残されたような錯覚を覚えるほどに──。



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