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CASE:012-1 笑み女

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

1-1. 微笑


 退勤時間が近づくにつれ、世界はゆっくりと沈黙へと傾いていく。渋谷という街にとってそれは錯覚のようなもので、通りの喧騒は夜を追い越してますます加速していくのだけれど、この小さなコンビニエンスストアの中だけは違った。

 冷蔵ケースの低い唸り音、ピッと弾けるバーコードを読み取る電子音、床をかすめる靴底の音──そのどれもが、箱庭のような店内で働く私の存在を背景音楽のように縁取っている。


 私に向けられる視線は決して長くはない。けれどそれは、疲れを重ねた人々が何かを求める視線だ。数秒間のやりとりの中で、一瞬だけ相手の心に触れる。すると、ふっと眉が緩むのがわかる。

 「ありがとう」という言葉を口にさせるのは、私の接客の丁寧さや営業用の笑顔などではない。その人が言葉にすることを躊躇っている心の内側を、ほんの少しだけ撫でてあげるだけのことだ。私はその感覚を密かに楽しんでいた。


 ──背後に気配を感じたのは、店を出てすぐ、湿った空気に包まれた裏路地に踏み込んだ瞬間だった。今日は何十人分くらいだったかしら、なんてぼんやり思い返しているとき、ぎこちない足音が背後で止まった。

「……あの、ちょっと、待って」

 振り返ると、男が一人、街灯のぼんやりとした灯りの中に立っていた。その顔には、まるで素肌をさらしたように剥き出しの感情が、無防備に貼り付いている。緊張と欲望が混ざり合った、どこか痛々しいほどの視線。

 覚えている──この人は何度も私のシフト時間を確かめ、おでんを買った日も、雑誌を立ち読みした日も、何度も何度も視線を送ってきていた。


 男は必死だった。もっと話したい、もっと仲良くなりたい、俺だけを見てほしい──そんな願望が透けて見えるようで、私は内心で小さく笑った。人間というのは、どうしてこんなに単純でわかりやすいのだろう。

「帰り道、一緒に……」

 声が途切れ、男の手が急に伸びてきた。乱暴に腕を掴まれそうになった直後、吐息一つで意識の壁に触れた。

「あら……あなた、少し疲れているみたいですね」

 その言葉はやわらかな吐息のように私の唇から漏れ、夜の湿った空気に溶け込んでいった。男の動きがぴたりと止まる。心の防壁は一瞬で崩れ去り、彼の瞳にかすかな怯えと混乱が浮かび上がる。


 だめね、加減を間違えた。これ以上やれば、きっと壊れてしまう。私は優しく微笑んで、小さく囁いた。

「あなたの癒しになれて、よかったです」

 湿った夜気を踏みしめ、私は足早にその場を離れた。


───


1-2. 恍惚


 雨水の膜にネオンが滲み、路地が薄紅に揺らいでいた。街全体が、何かの予兆を静かに待っているようだった。そんな静寂を破ったのは、近隣の女性の短い悲鳴だった。その通報で駆けつけた警察官たちが見たものは、狭い通路の片隅でぐったりと横たわる男の姿だった。

「こ、この人……倒れてて……顔が……変で……笑ってるのに、涙を流してて……」

 通報した女性の混乱した様子の震える声が耳に残る。警察官がライトを当てると、その男は確かに不気味なまでに恍惚とした表情を浮かべていた。大きく見開いた目は虚空を捉えたまま動かず、口元には微笑が貼り付いている。だが、頬を伝う涙だけが彼の無表情な喜びを否定しているようだった。

「意識がないわけじゃないのか?」

「わかりません。ただ、まったく動けないようで……」

 即座に男は救急搬送され安否確認がなされた。警察官たちは薬物を疑ったが、その後の検査ではいかなる薬物反応も検出されなかった。


 男の手に握りしめられていたスマートフォンには、ある女性の姿が無数に記録されていた。コンビニエンスストアの制服を着たその女性の写真は、店内外、あらゆる角度から撮影されている。

 写真を眺める警察官の一人がぽつりと呟いた。

「まるで何かに憑かれたみたいに、この子を追ってるな……」

 彼らの背後では、警察車両の回転灯が無言で濡れたアスファルトを赤く染め上げている。その赤い光に照らされた男の顔には、変わらず不気味な恍惚が浮かんでいた。


───


1-3. 密談


 渋谷の街の奥、細い路地を数本抜けた先に忘れられたように佇む小さなバーがある。入口の上には古びた木製の看板が掛かり、『Old Gold』という名がくすんだ真鍮文字で記されていた。ドアを押し開けると、琥珀色の照明が店内をやわらかく満たし、耳馴染みのある古い洋楽が低く響いている。ダークウッドでまとめられた内装は、落ち着いた隠れ家のようでもあり、同時にどこか場末のような寂寥感をも孕んでいた。


 カウンター席の端、灰皿に煙草を軽く押し付けながら、蜘手(くもで)創次郎(そうじろう)は隣の男に気だるげに話しかけた。

「最近どうよ、渋谷のほうは」

 男の前に置かれている煙草が目にとまり、蜘手の脳裏に過去の記憶が横切る。昔から変わらない銘柄だ──公安時代の相棒だったその男、高木(たかぎ)(けい)はグラスの中でゆっくりと回る琥珀色の酒を眺めながらふっと口元を緩める。高木は昔から、こんな風に言葉を選ぶ間を取る癖があった。あえて相手を待たせるように、じらすように。

「まあ、ぼちぼちだ。だが──これ知ってるか?」

 高木はスマートフォンを取り出し、何かの写真を蜘手の方へと滑らせるように向けた。ディスプレイに映っていたのは、薄暗い路地裏に倒れた男の姿だった。画面の中の男は不自然な姿勢でぐったりと横たわり、その表情は異様に歪んでいた。大きく開かれた瞳はどこか虚ろで、唇には凍りついたような笑みが浮かんでいる。そして頬には、まるで異物のような涙の筋が刻まれていた。


「ふぅん……どこで倒れてたんだ?」

 蜘手は画面を見つめながら、軽く煙を吐き出した。

「駅南のJAWSONの近くだ。コンビニの裏手の辺りだよ」

「どんな風に?」

 高木はさらに画面を切り替え、別の写真と共に、簡略化された診断書の一部を示した。

吉田拓生(よしだ たくお)、三十代会社員。薬物反応もなし、目立った外傷もない。ただこの笑顔──第一発見者が『怖い笑顔』だと証言したが、写真で見ても確かに不気味だ。生きているのに全く動けない。恍惚というより、まるで何かに囚われてるみたいな……」

 蜘手は静かに相手の話を聞きながら、淡々と頭の中で情報を整理する。こういう時、高木がわざわざ自分に話を振る理由は一つしかない。

「なるほどな。それで俺に見せるってことは?」

「お察しの通りだ。そっち向きだろうと思ってな」

 高木はニヤリと不敵な笑みを見せると、さらに画面を切り替え、一人の若い女性の写真を示した。コンビニの制服姿で淡い笑みを浮かべたその顔は、一目見ただけではごく平凡なものに見えた。特別美人とも言えず、特徴的なパーツすらない。むしろ、性別さえ曖昧になるほどに中性的で、『平均顔』という表現が最もふさわしい。だが、高木は声をひそめて言った。

「吉田のスマートフォンから、この女の盗撮写真が大量に見つかった。所謂ストーカーだろうな。ところがだ。この女に関する目撃証言は面白くてな。何人かに話を聞いてみると、『ものすごく可愛かった』とか、『なぜか魅力的だった』とか、とにかく絶賛ばかりだ。面白いのは、みんな言うことが微妙に食い違ってることだ。印象がバラバラでな」


 蜘手は片眉を軽く上げ、グラスを傾ける。

「なるほどね──それじゃ今飲んでるその酒は?」

「情報料代わりだよ。文句あるか?」

 高木は楽しそうに口元を歪め、少し悪びれたようにグラスを揺らした。蜘手は軽くため息をつき、煙草をもう一本取り出しながら返した。

「どうりで高い酒頼んでんな……」


 琥珀色の光が店内をゆらゆらと揺らし続け、二人の男は言葉少なに、それぞれの思考を酒の中へと沈めていった。



1-4. 歪み


 翌日の午後、蜘手は問題の現場周辺をさりげなく散策していた。雑踏に溶け込みながら、付近のコンビニを順番に覗いていく。数件回った後、彼は自然な足取りで駅南のJAWSONにたどり着いた。

 蜘手は無意識に客数を数え、眉をひそめる。他の店舗に比べ立地が優れているわけでもないが──多すぎる。店内に一歩踏み入れた途端、空調がきいているはずなのに妙に肌が汗ばむ。それ以上に奇妙なのは客の動きだった。商品棚の前で何を買うわけでもなくぼんやりと佇む者、ただ店内を無意味にうろつく者、そして落ち着きなく腕時計を見つめ続ける者──まるで誰かを待っているような、不自然な雰囲気に満ちていた。


 ふと、店の奥にあるスタッフルームの扉が開く。その瞬間、店内の空気が目に見えて変化した。まるで劇場の幕が上がったように、客たちの表情が一斉に緩んだのだ。スタッフルームから現れたのは、写真で見た女性店員──頼谷(きりたに)癒雨(ゆう)だった。彼女がカウンターに立った途端、客たちは彼女のレジ前に列を作った。

 癒雨は穏やかな表情で客を迎え、一人一人に微笑みながら丁寧に商品を手渡している。彼女の視線を浴びた客たちは、それだけで安堵し、満足し、陶然とした表情を浮かべている。まるで日常の疲れや悩みを彼女に預けていくような、奇妙で濃密なコミュニケーションが繰り返されている。


 しかし蜘手だけは、その空気にまったく染まらなかった。彼女の微笑みが自分に向けられた時も、彼は心を微動だにさせず、その冷静な目で店内の異常を観察していた。

「見た目のいいバイトがいると売上が上がるって話はよく聞くけどな──」

 蜘手は誰にも聞こえないように独りごちた。

「──それにしてもお前さん、やりすぎたな」

 蜘手の視線の先には、柔らかな笑みを浮かべながら客を『癒し続ける』癒雨の姿が、不可解な歪みの中心として存在していた。



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