CASE:002-2 きさらぎ駅
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
2-1. 甘露
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、外の世界のざわめきが遠ざかる。
柔らかな間接照明が、天井からふんわりと降り注いでいた。壁は淡い木目調で統一され、椅子やテーブルも同系色でまとめられている。窓際の席には、淡い影が差し込み、ほんの少しだけ揺れていた。
まるで、時間がゆっくりとほどけていくような空間。
美優はその静けさに自然と呼吸を合わせ、窓際の席に腰を下ろした。手元のメニューを開くと、写真映え抜群のスイーツたちが視界に踊る。
「パンケーキ……絶対食べる。カフェラテも追加で」
調査中にもかかわらず、選択は即断だった。この香りに抗える人間がいたら会ってみたい。カウンターから漂ってくるバターと小麦の甘い芳香が、すでに胃をゆるませはじめている。
けれど、心の底では別の思考も動いていた。
──きさらぎ駅。
(地元の人が誰も知らないって、やっぱりおかしい)
遠州鉄道はこの地域では生活の一部であるはずだ。そんな密着度の高いインフラに、都市伝説が結びついているのなら、地元で噂が広がっていてもおかしくない。
にもかかわらず。
(ネットの噂が先行しすぎて、浜松の人は「よそ者のネタ」くらいに思ってる? それとも、本当に「存在しない」ものとして処理されてる?)
わずかな違和感が、美優の中でしこりのように残っていた。
──カラン、と小さな音が響いた。
「お待たせしました。ふわふわパンケーキとカフェラテです」
店員の手によって静かに置かれた皿。その中央に乗っていたのは、芸術とも言えるほどのふくらみを持ったパンケーキだった。ナイフではなく、フォークでそっと押しただけで、ぷるりと揺れる。表面を覆うバターの光沢が、溶け落ちる寸前の夢のようだ。
「わぁ……すごい!」
思わず声が漏れる。
ひと口運ぶ。
ふわっ、と軽やかに歯が通り、しゅわ、と音もなく溶けていく。
(……なにこれ)
「これはすごい。ベスト・パンケーキ・オブ・ザ・イヤー受賞です……」
誰に向けるでもなく、美優はぽつりと呟いた。
甘さの奥にほんのり塩味が立ち、舌の上で溶けながら、まるで"幸福"という名の細胞に直接染み込んでいくようだった。外の世界の喧噪も、きさらぎ駅の気配も、この瞬間だけはまるで遠い場所の出来事のように感じられる。
(調査も大事だけど、こういう息抜きも必要だよね)
カフェラテをひと口。泡立ったミルクの柔らかさが、さらに思考を曖昧にしていく。ただひとつ確かなのは──この一皿が、今日という日の疲労をすべて慰めてくれるという事実だった。そんな穏やかな午後の中で、美優は再び、これからの調査の計画を頭の中に浮かべはじめた。
だがこの街が彼女に用意した"異常"は、まだ、その輪郭すら見せてはいなかった。
2-2. 境界
パンケーキの余韻を名残惜しみながらも、美優は再び足を動かしていた。
今度の目的地は、本命──遠州鉄道さぎの宮駅。
乗り込んだのは、小さなローカル私鉄。四両編成の赤い電車は、都市の中心からわずかに外れただけで、すぐに住宅街の風景へと移り変わる。乗客はまばらで、車内には静かな時間が流れていた。
(……これが"現実"の景色か)
窓の外には、白い壁の二階建て住宅や、ガードレールに囲まれた保育園、古びた商店の看板が点々と並んでいる。何の変哲もない郊外の風景。どこにでもある、穏やかな日常の風景。
だが、その平穏さこそが──妙に引っかかる。
きさらぎ駅。
その名を持つ異界の駅は、ネット上では「非現実的な空間」として語られていた。けれど今、自分が座っている電車は、その入り口に限りなく近い場所を通っているはずだ。
何もないという事実が、逆に何かを予感させる。
(……この周辺が、"境界"になっている可能性はある)
助信駅、曳馬駅、上島駅。
近年高架化が進み、近代化改修が次々と進行している一帯。
高架橋が伸びていく様子は、まるで"現実"が、"異界"の皮を少しずつ剥いでいくかのように見えた。
電車が高架をゆっくりと走る。眼下に広がるのは、整備された道路と、どこか取り残されたような旧い民家たち。この街の"更新"と"遺物"が交差する場所。
そのコントラストに思わず笑いがこみ上げた。
(もし……もしも、きさらぎ駅が本当に存在してるとしたら……それで高架化が進んだとしたら……)
美優は脳内で、ふざけた未来予想図を描いてみる。
「いらっしゃいませ、新きさらぎ駅へ!」
高架駅のピカピカの駅舎、見やすい電光掲示板、液晶で流れる地域イベント情報、制服の駅員が笑顔で案内する、完璧に"整備された"異界。
──そのシュールさに、思わず声が漏れた。
「いや、それはそれでシュールすぎるでしょ……!」
我ながら間の抜けたツッコミに、くすっと笑ってしまう。車内にいたご年配の女性が一瞬こちらを見るが、すぐに目を逸らして窓の外に視線を戻した。
電車は次の駅に向けて、のどかな住宅地を抜けて走っていく。
揺れる線路のリズム。誰も気に留めない日常の通過点。
だが美優は知っていた。
この場所が、何かの"切れ目"にある。
目に見えないものほど、往々にして強い。
異界は、派手な演出とともに現れるのではなく──こうして、静かな風景に溶け込むようにして、すでにそこに"ある"。
現実は、気づかれないまま歪んでいく。
そしてその歪みの縁に、彼女の足は確かに触れはじめていた。
2-3. 空振
夜の帳が降り、街の喧騒が沈静していく頃。
美優は静かにホームに立っていた。
新浜松駅、22時40分発、西鹿島行き──目的の電車が、滑るようにホームへ入ってくる。
(調査初日……さて、どう出るか)
制服姿のまま、長い一日を締めくくるように電車へ乗り込む。座席はまばら。乗客はほとんどが仕事帰りの会社員か、スマホに視線を落とす若者たち。そのなかに混じる少女の存在は、少しだけ異質だった。
ポケットの内側から、依代の紙片をそっと取り出す。
ネズミ式神。
まだ静かに沈黙を保ったままのその紙片を指で撫でながら、美優は吐息をついた。
(さぎの宮駅手前……このあたりが“境界”のはず)
だが、車窓に映る景色は何も変わらない。街灯に照らされる住宅の影、交差点に止まる車のテールランプ。電光掲示板の案内は正確で、乗客の誰もが当たり前のように、この現実に順応している。
気配もない。兆候もない。
「……まぁ、そんなに簡単にはいかないか」
諦めにも似た笑みを浮かべて、美優は静かに立ち上がった。
電車がさぎの宮駅に到着すると、ためらうことなくホームへ降り立つ。
すぐにホームを渡り、新浜松行きの上り列車に乗り換える。
帰りの電車も、静かだった。
夜の鉄路を淡々と滑るように進む車体。窓の外には、静まり返った街の光が点々と浮かぶ。まるで"何も起きない"ことを前提に作られた夜の景色だった。
ホテルへ戻った頃には、時計の針がすでに日付をまたごうとしていた。
二日目。
昼の街は、昨日と変わらず穏やかで、平凡で、しかしどこかつかみどころがなかった。美優は歩き回りながら、地元の住人に再度話を聞く。
「きさらぎ駅って……いやぁ、聞いたことないねぇ」
「都市伝説? ああ、ネットの噂だら?」
どの反応も、まるで事前に申し合わせたかのように薄く、遠い。浜松の人々にとって、"きさらぎ駅"という単語は、口に出すことすら意味を持たないもののようだった。
(これはもう……調査という名の観光を楽しむしか)
自分への言い訳のようにそう思って、美優は方向を変える。
浜松城。浜名湖畔の風。軽く体験してみたウェイクボード。
水飛沫を浴びて、風を切って、水面を滑った瞬間──確かに一瞬、全てを忘れそうになった。
だが、陽が沈めば思考は戻る。
調査の時間。再び、夜の電車へ。
新浜松駅から、さぎの宮駅へ。
そして、また折り返す。
「……やばい、また不発だ」
独り言が、車内の静けさに妙に響いた。
乗客たちは誰も気にしない。
それどころか、その姿すらもはや見慣れた気がする。
二日目の夜も、何も起こらなかった。
だが、彼女の中で何かが少しずつ削られていく。
期待は、焦りへ。
希望は、薄い苛立ちへ。
そして、その"隙間"こそが──怪異を呼び寄せる、最初の裂け目なのかもしれなかった。
2-4. 弛緩
三日目、四日目──。
美優の毎日は、規則正しく「乗って降りて、また乗って」を繰り返すだけの作業と化していた。
昼は聞き込み。
夜は電車に乗り、さぎの宮駅手前を通過する。
しかし、そのどちらにも実を結ぶものはない。
(これ、完全に私に押し付けられてるやつじゃん……)
そんな愚痴すら、すでにどこか擦り切れた感情の奥から出てくるだけだった。
気づけば美優の内心にあった"期待"は、静かに酸素を失っていった。
──特に何も起こらなかった。
起こらないという事実が、美優の感覚を鈍らせていく。
乗客の顔ぶれも、車内アナウンスのタイミングも、走行中の振動も、全てが規則正しく、変化なく、反復される。さぎの宮駅はいつもそこにあり、電車は寸分違わずその手前を走り抜ける。
"異界の気配"などどこにもない。
ただ、電車は走る。ただ、日常が続く。
(……これ、やっぱり作り話なんじゃないの?)
不意にそんな現実的な考えが頭をよぎる。
それは、特対室の一員としてあるまじき思考であるはずなのに、今の美優には否定する気力すら湧かない。
(むしろこのままでは、私が都市伝説になりそう……)
繰り返される調査、虚無のような車内。
「“繰り返される少女”──ってタイトルで怪談になりそう」
自嘲気味な呟きに、電車の窓が無言で返す。
そこに映るのは、思った以上に疲れた顔の自分だった。
やがて、緊張の糸が少しずつ弛んでいくのを自覚する。あれほど意識していた"異変の兆し"にも、いつしか無関心になっていた。
(……これ、結局なにもないまま終わるやつ?)
期待は、やがて惰性に変わる。
──そして、調査は最終日を迎えた。
「……もう、正直あんまり期待してないけど」
新浜松駅近くのカフェ。
ここのパンケーキもなかなかの品だった。ふわふわとした甘味に舌鼓を打ちながら、美優はスマホの画面をスワイプしていた。
浜松城の写真、浜名湖の夕陽、地元グルメの写真。
そのどれもが、"任務"というより"旅の記録"に見えてくる。
観光気分。
そう、もはや"観光"そのものが勝っていたのだ。
(きさらぎ駅が本当にあるなら、もっと分かりやすく出てきてほしいんだけどなぁ)
溜息まじりにカップを口に運ぶ。ラテの泡が舌の上に軽く広がる。
──視線が、ふと時計に向かう。
22:30。
「……最後、か」
もう感情もない。ただの確認。
次の電車が、調査の"締め"になる。
何も起きなければ、それで終わり。
そして起きたとしても──それがどんな意味を持つのか、今の美優には想像もつかなかった。
Xの作品アカウントでは告知の他、怪異の正体のヒントや140字怪異録等も発信しています。ご気軽にフォロー、交流をどうぞ。
https://x.com/natsurou3