CASE: EX 禍髪
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
1. 虫嫌
また休日出勤。しかも行き先は山奥の廃寺だ。特対室のオフィスならエアコンが効いているのに、わざわざ山の中の湿った場所へ怪異を調べに出向くというのは、なんとも気の滅入る話だった。
窓の外を流れていく風景は、既に見慣れた都市部のビル群から次第に緑深い山間部へと変わっている。山に入るにつれ、空気が変わった。窓の外の木々は雨上がりのように艶やかで、葉の重みに空気まで湿って見えた。私──南雲美優はふうっと小さく溜め息をつきながら、シートにもたれ掛かる身体をわずかに動かした。
(あーあ。向こうからオフィスに来てくれればいいのに)
ちらりと視線を横に向けると、運転席の創次郎さんはハンドルを握りながら淡々と前を見据えている。彼の口からは数分前から、今回の怪異に関する説明が続いているようだった。だがその声は私の耳を滑るようにして通り抜けていき、ほとんど意識の外に流れていった。
「……つまり、肝試しに訪れた大学生の一人が何かに首を絞められたと訴えていてね。その被害者は重度の精神混乱状態で、今も話せない状況だ。透真が事前に偵察を済ませているけど、廃寺の本堂に安置されている人形の髪が人毛──それも、亡くなった誰かの遺髪を使ったものらしい。何らかの呪いや怨念の媒介になっている可能性がある」
彼の話は、私にとっては遠くで鳴る虫の声のようなものだった。むしろ、虫というキーワードが脳裏をかすめ、さらに気分が沈んだ。きっとその廃寺にも虫がたくさんいるのだろう。想像するだけでぞわっと背筋が寒くなる。
(虫とか絶対出るじゃん。カブトムシでさえ無理だし。特にあのお腹のところとか……気持ち悪っ)
勝手に想像し勝手に身震いする。口に出さずにいる愚痴ばかりが頭の中でぐるぐると回り、怪異に関する具体的な説明などはますます遠ざかっていく。もはや完全に注意を逸らした私は、バッグに手を突っ込みスマホを取り出した。特対室の机の上に置きっぱなしにしてきたはずのエアコンのリモコンがなぜかバッグの中に紛れ込んでいることに気付き、そういえば温度設定18℃にしてたっけ、灯里先輩寒がってないかなぁ、などとぼんやりと考える。
その時、創次郎さんがちらりとこちらを見やり、小さく肩をすくめた。
「美優くん、聞いてる?」
「あー、はい、えっと……呪いのお菊人形、でしたっけ?」
ぼんやりとした答え方だったが、彼は特に気にするでもなく頷いてみせる。
「そう。髪が伸びるという都市伝説自体は珍しくないが、今回は実際に被害が出ているからね。あまり良くない部類ってやつだ」
人形、髪、遺髪、呪い──。彼が淡々と挙げた不吉なワードの数々に、私はふと背中のどこかがひやりと冷える感覚を覚えた。特対室に入ってから、この手の怪異がどれだけ面倒で不快なものか、身に染みて理解している。だが、まぶたは次第に重くなり、シートの心地良い揺れと車内の空調に導かれるまま、美優は深い思考を避けるようにゆっくりと意識を落としていった。
───
2. 蠢動
廃寺に足を踏み入れた途端、私は思わず眉をひそめた。空気がひどく重い。息を吸うたび、古布のようなぬめりが喉に貼りつく。濡れ雑巾を煮しめたような空気が、肺の奥まで染み込んでくる。足元の苔むした敷石はところどころ欠けており、崩れかけた墓石が数基、まるで行き倒れた旅人のように無造作に横たわっている。生い茂った下草の合間から伸びる雑草は長く伸びきっており、足首に絡みついてくる感触が気持ち悪い。
「元々ここは、人形供養をするための寺だったらしい」
先を歩く創次郎さんが、抑えた声音で呟くように告げた。私は改めて辺りを見回し、小さく肩を震わせた。供養という言葉とは裏腹に、この場所はまるで何かが溜まり、淀んでいく一方の場所のように感じられた。
本堂へと近づくと、腐りかけた木の臭いがいっそう強まる。扉は半ば朽ちており、わずかな隙間から暗い内部が垣間見えた。創次郎さんが慎重に扉を押し開けると、まるで長い眠りから覚めるかのように、重苦しい匂いが外へ溢れ出してきた。
「……うわ……」
思わず漏れた私の呟きが、湿った空気の中に沈んでいく。獣臭い油臭さ、生乾きの布団を凝縮したような生々しい女の匂いがむっと鼻をつく。
(なに、この臭い……)
本堂の床は一面、黒々とした髪の毛に覆われていた。床だけではない。柱にも、壁にも、天井にすら、黒々とした髪が吸い付いていた。雑巾のように垂れ下がった束は、じっとりと水分を含んで重く、まるでどこかから生えてきているようだった。光がほとんど届かない薄暗がりの中で、髪の束が微かにうごめいているようにも見えた。風などどこにもない。なのに髪だけがゆらゆらと、独自の呼吸を持つかのように揺れている。嫌悪感に背筋が寒くなった私は、唇を噛み締めてその場に立ち尽くした。
ずりっ……ずりっ……
耳の奥底に直接響くような、何かを引き摺るような湿った音が床下から響いてきた。それは何か生き物が這い回るような、いやな音だった。
「これは……ちょいと面倒そうだな」
創次郎さんの声に、普段の軽妙さはなかった。普段彼が扱う霊糸と、この髪には何か共通するものがあるのだろうか──彼は鋭く、警戒した視線を髪の毛の海に向けている。不快な、湿った熱気が場に満ちている。よく見ると髪の束の間を、クモやムカデが這っている。まるで巣のように、髪そのものが棲み処であるかのように、虫たちは隠れることなく動いていた。まるで共生関係を結んでいるように。
「ぎゃっ! 虫、虫!」
私が叫んだその時だった。一房だけ、他の髪とは逆に流れている……ように見えた。それが勘違いではなかったと気づくのに、数秒かかった。それはまるで、水面を逆流する水泡のように、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへと這ってくる──。
(動いてる……?)
言葉にはならない囁きが、耳元にまとわりつくように這い寄ってきた。意味は取れないのに、何か悲痛な訴えを感じさせる、不気味な声音だった。
「俺たちがここに入ったことを認識したな──気をつけろ、構造に侵蝕してくるかもしれん」
創次郎さんの緊張した声に、私は胸の中で、さらに濃厚な不安が膨れ上がるのを感じていた。
───
3. 解髪
一本の髪がふいに持ち上がり、まるで蛇の舌先のように震えながら私の頬にぴたりと張り付いた。そのままぬめりとした感触を残して滑り落ちる。ぞわりと背筋に鳥肌が立ち、反射的に身体を引くと、今度は足元で妙な抵抗を感じた。見下ろせば、スニーカーの靴紐に幾筋もの髪が絡みついている。
(え、うそ……なにこれ……!)
ぞっとして慌てて後退りすると、背後の柱に思わず手をついてしまった。その瞬間、手のひらにねっとりとした感触が広がる。柱にまとわりついた髪の束が指を絡め取るように蠢いていた。
「え、キモ……」
嫌悪感が全身を貫いた。指先を引こうとしても髪は容易に離れず、じわじわと皮膚を這い上がろうとする。それを伝って虫たちも迫ってくる。呼吸が速まり、脈が高鳴った。こんなところで髪の毛と虫まみれになるなんて、冗談じゃない──!
その時、私の脳裏にふと、以前テレビで観た髪の毛の顕微鏡写真が鮮明に浮かび上がった。滑らかな表面に覆われたキューティクル、その下のコルテックス、そして芯をなすメデュラ、さらに毛根へと繋がるその構造──。
そのイメージを鮮明に思い出した瞬間、手に奇妙な感覚が走った。身体が無意識に恩寵を発動させたのだ。
(あ、まだ対処法とか全然──)
だが遅かった。『分解』の力はすでに髪の一本一本を伝い、波のように毛根へと流れていった。黒髪は、まるで紙が燃えるように内側から崩れ、まるで水面に垂らした墨汁が逆流するかのように静かに粉のように空気に溶けていった。その連鎖は人形の頭部から床、壁、柱へと広がり、瞬く間に本堂全体を飲み込み、まるで「恐ろしい何か」が最初からなかったような虚無だけが残る──。
「ああ……やっちまったな……」
創次郎さんが呆れたように呟いた。張り詰めていた緊張感は、すっかり抜け落ちてしまった。急に棲み家を失った虫たちが慌てて逃げていく。突入から、わずか三十秒。見渡せば、さっきまで恐ろしいほどに髪で埋め尽くされていた空間は、清々しいほど何も残らず、すっかり静謐を取り戻している。
私はぽかんと口を開け、その中央にぽつんと座り込んでいる人形を見つめた。黒々と伸びていたはずの髪はすっかり消え去り、人形は虚ろな目でこちらを見返すだけだった。ただ頭だけが、やけに清潔に光っている。
「ハゲてる……!」
私は、思わず率直な感想を口に出してしまった。
「……美優くん。怪異も多少は情ってもんがあるんだぞ? せめて泣く暇くらい与えてやれや」
彼がゆっくりと深い息を吐き出す。その声音には疲労と諦念が入り混じっていた。原因? 対処法? 将来の参考資料? そんなもの、ハゲた時点で全部吹き飛んでしまった。その後、彼は念の為という理由で完全に無害になったであろうその人形を霊糸で簀巻きにして特対室に持ち帰ったが、透真先輩の透視によれば人形には何も残っておらず、ただの空っぽの抜け殻だという結論が下った。
そのハゲた人形は今も特対室の本棚の上で、三本足のリカちゃん人形と仲良く並んでいる。髪はない。もう二度と、生えることもないだろう。
───
4. 即了
私──南雲美優の恩寵『分解』は、特対室の先輩たち曰く、ヤバい能力らしい。とはいえ、当の私からすれば、そう便利なものでもない。まず、対象をある程度理解していないと効力が薄い。たとえばこの前、透真先輩から預かったよくわからない結界札を分解しようとした時なんて、三十分かかってようやく紙の繊維がほどけただけだった。あと、存在が堅いもの、つまり存在性が高いものは、時間も集中力も必要になる。分解しようとすると、ものすごく疲れる。目の奥がガンガンしてきて、頭の中が空っぽになる。
つまり、けっこう面倒な能力なのだ。
……だからまあ、先輩たちが言うほどヤバいとは思ってない。でも──今回のように、構造がシンプルで連結性が高い相手なら、一撃で終わる。毛根から髪の毛、そして人形へ、さらに空間に広がっていた髪で構成されていた呪的構造そのものを一気にほどいてしまった時、私の中の何かもふっと軽くなった気がした。
なんというか、ただの掃除だった。絡まった髪を手で引き抜いて、さっとゴミ箱に放るような感覚。それ以上でも、それ以下でもない。実際、あのハゲた人形の虚ろな目よりも、休日出勤を当然のように命じてくる創次郎さんの顔のほうが、よほどホラーだと思う。
私はふと思い出し、まだカバンの中に入れっぱなしになっていたオフィスのエアコンのリモコンを取り出して、創次郎さんに向けて指でカチカチと温度設定を上げるボタンを押してみた。平気で休日出勤を命じるその冷徹な心の温度を上げるためだ。しかし彼の心にはセキュリティ設定がかかっているのか、効いている様子がない。
──「分解」は怪異だけじゃない。理不尽も、残業も、休日出勤も、ばらばらにできる──と、いいのになと思った。
これは私によって一瞬で終わらせられてしまった怪異案件たちの、ほんの断篇。次は、ちゃんと平日の放課後にしてほしい。
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