CASE:011-5 とりまがいの姿見
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
5-1. 錯覚
薄暗い洗面所の中に立つ偽宇津木は、つい先ほどまで見せていた冷笑を消し去り、強い口調で透真に言い放った。
「『俺』が『俺』じゃないなんて、お前に決めつけられる筋合いはない! 記憶も、感情も、全部ある。俺が宇津木じゃないなんて言える理由はどこにもない!」
その言葉は強気に響いたが、どこか切迫した焦りがその端々に滲んでいた。彼自身の言葉の中に確かな自信はなく、むしろ自らを説得するような虚勢の響きが透真には聞き取れた。透真は、静かな表情で偽宇津木を見つめ返す。その眼差しには非難も怒りもなく、ただ淡々とした憐れみと静かな確信が滲んでいるだけだった。
「それは錯覚だ」
彼は静かに告げた。その声は低く抑えられ、確かな響きを持って鏡に満ちる静寂の中に染み渡った。
「お前が持っている記憶も感情も、すべては鏡が映したものに過ぎない。鏡が虚像を生み出したように、お前自身の存在もまた、虚ろな幻影だ」
彼の反論に、偽宇津木の表情が僅かに歪んだ。それは理解できないことへの怒りであり、自らの存在が否定される恐怖でもあった。
5-2. 動揺
偽宇津木は追い詰められた獣のように鏡の前へ歩み寄り、その拳を乱暴に鏡面へと叩きつけた。硬質な音が冷たく反響する。
「虚像がどうだろうが、生きていることが事実だろう! 実体なんて、そんなものはどうでもいい!」
彼の叫びは洗面所の壁に虚しく反響する。だが、その激しい怒りと苛立ちが虚勢であることを、透真は冷静に見抜いていた。透真は微かに目を細め、相手の動揺を慎重に観察しながら、静かに言った。
「だが、お前は結局、鏡という枠の中から一歩も外に出られない。お前がどう感じようとも、それが揺るぎない真実だ」
その冷たくも穏やかな指摘に、偽宇津木は唇を噛み締めた。彼の肩が小刻みに震え、拳は力なく鏡面に押しつけられたまま動かない。その背中からは、自らの置かれた状況を認めざるを得ない敗北感がにじみ出ていた。
沈黙が束の間続いた後、偽宇津木は鏡からゆっくりと拳を離し、低い声で問いかけた。その声は先ほどの激昂とは打って変わって静かで、どこか虚ろに響いた。
「なら、教えてくれ。俺と『本物の宇津木』に何の差がある? 俺のこの感情、この意識は、何が違う?」
その問いかけは哲学的でありながら、同時に切実な叫びにも似ていた。彼は本当にその答えを求めているように見えた。透真は微かに息を吸い込み、慎重に言葉を選んで告げた。
「差はないかもな。だが、もし真実を知れば誰もお前のことを『宇津木』とは呼ばない。それが答えだ」
透真は言葉を選ぶように、続ける。
「お前は宇津木が死んだ時に生成された、ただの反転した写しだ。姿も、利き手も、記憶さえも。お前が感じている感情や意識も、鏡が忠実に模倣しただけのものだ。記憶も──いや、記録と言ったほうがいいな。先程の記憶の齟齬もただ合宿というキーワードからサーチしただけで、匂いや感覚の伴った本物の記憶じゃない。だから齟齬が出る。本物を超えることも、本物になることも、決してできない。お前自身が、そのことを一番よく理解しているはずだ」
その言葉に、偽宇津木は息を詰まらせる。微かに肩が震え、目を閉じると、深く重い吐息をついた。その吐息には明らかな諦念が滲んでいた。
「俺は……ただ、俺でいたいだけだ」
その呟きは微弱で震えていたが、そこには初めて人間らしい弱さが宿っていた。怒りや虚勢ではなく、ただ純粋な願望が静かにこぼれ落ちた瞬間だった。透真はその姿を黙って見つめ続けた。姿見のひびに乱反射する虚像が、自らの実存の限界を理解し、絶望と諦念に揺れているのを、静かに、しかし確かな目で見届けていた。
鏡の割れ目が放つ微かな光が部屋を青白く染め上げていた。透真は穏やかな視線を、鏡の前に佇む偽宇津木に向けた。彼の声は静かでありながら、その言葉には鋭い真実が込められていた。
「この鏡は昔から、人間の願望や後悔を映し出してきたのだろう。そして虚像は常に『こうでありたかった自分』を演じているだけだ。その演技を続けるうちに、自分自身が誰なのかさえわからなくなっていく」
透真の言葉に、偽宇津木は眉をひそめ、否定しようと口を開きかけた。だが声は出ず、唇は虚しく震えるだけだった。その表情には、自らが否定できない事実を突きつけられた者特有の苦渋が滲んでいた。鏡の中に見えていた理想の自分、叶えられなかった願望が自らの実体となっていたという真実に、彼は動揺を隠しきれないままだった。その動揺が極点に達したとき、偽宇津木は唐突に叫び声をあげ、狂ったように透真へと殴りかかった。
「黙れ!」
その怒声は、虚像が抱える哀しい怒りに満ちていた。透真は冷静にその一撃を回避し、次々と浴びせられる拳を捌いていく。短い攻防が続き、二人の荒い息遣いが狭い空間に響く。
ふいに偽宇津木の拳が逸れ、拳は鏡の端を掠めた。その瞬間、鏡に新たな微細なひびが入る。鋭く乾いた音が耳をつんざき、偽宇津木は動きを止め、そのひび割れを呆然と見つめた。自らが殴った箇所を凝視する彼の瞳には、明らかな恐怖が浮かんでいた。
5-3. 終焉
透真は静かに、しかし冷徹に告げた。
「お前は鏡に囚われたままだ。そこから離れては生きられない」
その言葉を聞いた瞬間、偽宇津木は一瞬だけ悲痛な表情を見せた。しかしすぐに再び激昂し、透真へと襲いかかった。透真はそれを難なく避けると、冷静な目で彼を見据えた。
「お前、さっき鏡を殴った時、明らかに手加減をしていたよな。そして今、不意に鏡を殴ってしまった瞬間、恐怖に怯えた。自分でもわかっているんだろう、鏡が完全に割れてしまったらどうなるのかを」
その言葉に、偽宇津木ははっと動きを止める。その隙を透真は逃さなかった。彼はポケットから鍵束を取り出すと、しっかりと握り込み、その硬く冷たい金属の先端を拳の指の隙間から突き出した。
透真の動きは素早く、躊躇いのない一撃だった。狙いすましたように、鏡の微かなひびとひびを繋ぐ中心を鍵束の尖端で叩き割った。瞬間、激しい破砕音と共に鏡面が無数の亀裂を生じ、破片となって床に飛び散った。同時に偽宇津木の身体にも同じ亀裂が走り、その皮膚が硝子のように砕け散り始める。
「やめろ……!」
偽宇津木の叫びは割れた鏡のように歪んだ響きを伴い、空間に悲痛に木霊した。彼は両手を虚しく宙に伸ばし、自らを繋ぎ止めようとしたが、身体は粉々の破片となって崩れ落ちていった。
洗面所に再び静寂が戻った時、そこにはただ細かな鏡の破片と透真だけが残されていた。彼は深い息をつき、乱れた息を静かに整えると、ゆっくりと周囲を見回した。
砕け散った鏡の破片の中には、わずかな虚ろな青白い光が揺らめいている。その光は徐々に薄れ、やがて闇の中へと溶けていった。それは虚像が存在した唯一の痕跡であり、鏡に囚われた者が実在の世界から永遠に消え去ったことを示していた。
5-4. 余韻
鏡が砕け散った後の洗面所は、あまりに静かだった。それまで漂っていた緊張感も恐怖も、消滅した虚像と共に空気の中へ溶け込んだかのように跡形もなく消えていた。床に散らばった無数の鏡の破片だけが、何事かがここで起きたことを物語る唯一の痕跡だった。
透真は無言のまま、その破片を静かに見下ろした。粉々に砕けた鏡面は微かな光を浴びて冷たく煌めき、小さな星屑のように見えた。彼はやがて自らの手をゆっくりと見つめた。鍵束を握り締めていたその手には痛みが微かに残っていた。
彼の胸の内には複雑な感情が渦巻いていた。虚像とはいえ、自分の手で旧友の姿をした存在を終わらせたことへの微かな罪悪感、それを成し遂げたことへの安堵、そして一連の出来事を収束させたことへの達成感が入り交じり、心の奥底で静かに揺れていた。透真はゆっくりと深呼吸し、自分の中の感情を冷静に鎮めようとした。やがて彼の瞳に再び冷静さが宿ると、洗面所の静寂がより深く、より鋭く感じられるようになった。
一方、偽宇津木が去った後の食堂は、言葉を失ったままの重苦しい沈黙が支配していた。拓巳はぼんやりとテーブルの一点を見つめ、何を考えているのかすらわからないまま微動だにしなかった。理紗はその横で、視線を床に落としたまま唇を噛み締め、沈黙に耐えかねているように微かに肩を震わせていた。
そして、環奈は一人放心状態で椅子に深く座り込み、その瞳からはすでに感情の色が失われていた。彼女の表情はまるで何かを完全に諦めてしまったようで、その目に浮かんでいた動揺や焦りは消え去り、ただひたすらに空虚な無表情だけが残されていた。
誰一人、言葉を発することができないまま、食堂には薄暗い空虚な時間がゆっくりと流れ続けていた。
5-5. 諦念
内側に渦巻く複雑な感情を静かに収めた透真の瞳には、再び明確な冷静さが戻り、彼の中で次の行動が定まったことを静かに示していた。彼は静かな声で呟いた。
「後は、表の手で後始末をつけるしかないか」
その言葉には微かな諦念が宿り、彼の瞳にはこれから自分が踏み出す現実的な後始末への明確な覚悟が浮かんでいた。これから警察に通報し、この奇妙な事件を現実の秩序の中に収束させる──それは白洲の人生を狂わせることにもなる。しかし彼にはそれ以外に選択肢はなかった。
窓の向こう側で、夜空が淡い灰色に色づき始めていた。夜の闇が徐々に薄れていくのを、透真は静かに見つめていた。彼はゆっくりと息を吐き出し、慎重に破片を踏まないよう歩を進めた。
散乱した鏡の破片は夜明けの仄かな光を受け、夢の名残のように淡く光っている。その景色を目に焼き付けると、彼は静かにドアを閉め、廊下に向かった。
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