CASE:011-2 とりまがいの姿見
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
2-1. 亀裂
再び食堂に集まった四人は、僅かな近況報告をしながら夕食の準備を始めた。窓の外は藍から群青へと沈み山影がそのまま館の壁に染み込んでいくようで、館の内側には照明の橙色が頼りなく広がるばかりだった。
環奈が野菜を刻み、拓巳が調理器具を揃え、理紗が不器用ながらテーブルを整えている。透真は食器棚から取り出した食器を、黙々とテーブルに並べていた。だが透真の視界の端に時折映る環奈の姿には、微かな違和感があった。
彼女の指は、切った野菜を集めようとした瞬間に空を掴むように彷徨い、再び刃に触れたときにはごく僅かに力を入れすぎていた。それらのかすかな動作を透真は見逃さなかった。彼女は時折、俯いて深く息を吸い、何かを押し殺すように自分を保とうとしているようだった。その震える指先や、時折瞳孔が拡張する様子からは、単なる緊張以上の、もっと深刻な感情の波が感じられた。
透真は周囲に気づかれぬよう視線を巡らせた。拓巳は環奈を何度も気にかけているようだが、その視線が環奈とぶつかりそうになると、慌てて目を逸らす。理紗は作業に集中しようとしているが、彼女もまた時々思い出したように妙に廊下の方を気にしている。
透真はまだ姿を見せない宇津木のことを思った。彼は昔から空気を読まない男ではあったが、このような状況でいつまでも戻らないというのはさすがに不自然に感じられた。館内は静まり返り、どこかにひそやかな緊張が漂っている。その不穏さを一人の人間が欠けているだけで済ませるには、何かが決定的に不足しているように思えた。
環奈が微かに息を乱した。彼女はそれを誤魔化すように急いで水を飲んだが、その動作はどこか不自然でぎこちなかった。透真はそれを見ながらも、何も口には出さない。ただ状況を静かに観察し、目の前に積み重なる細かな違和感を心の中で整然と整理していた。
ふいに館のどこかで、床板が軋むような微かな音が響いた。透真以外の三人は同時に身を竦ませ、音がした方向を見つめた。しかし、誰も現れる気配はない。透真はその沈黙を破るように小さく息を吐き、再び手元の作業を再開した。
夕食の準備は続いているが、その空間に満ちる沈黙は重く深く、まるでこれから訪れる何かを息を潜めて待っているかのようだった。
2-2. 破響
食堂に満ちる沈黙を追い払おうとするように、無理矢理な雑談がぽつぽつと続いていた。昔のこと、最近のこと、しかし会話は途切れ途切れでどれも心ここにあらずといった調子で空中を漂い、形を結ばぬまま消えていく。誰もが微かな不安を隠し切れずにいるのは明白だったが、その原因をはっきり口にすることはためらわれた。
透真はそんな彼らを冷静に観察しながら、心のどこかで一抹の違和感を覚えていた。その違和感はまだはっきりと形を成さないまま、胸の奥底に沈み込み、微かな波紋を生じさせている。
その瞬間だった。
突然、館のどこか奥まった場所で重く鈍い音が響いた。それはまるで、大きな家具が倒れ、床に激しく叩きつけられたような、暴力的な響きだった。四人はほぼ同時に身体を硬直させた。
音は廊下の奥から響いたように聞こえた。透真はすぐに立ち上がり、躊躇うことなく音の方向へと視線を投げる。他の三人も顔を見合わせ、動揺を隠しきれないまま席を立った。
環奈は青ざめ、震える指先を隠すように両手を握りしめている。拓巳は口元を引き結び、警戒するように目を細めている。理紗はわずかに混乱した様子で、戸惑った表情のままおろおろと彼らの動きを追った。
透真が廊下へと踏み出すと、他の三人も慌てて後を追った。廊下の空気は一層冷たく、濃密な湿気が息を詰まらせるほどに漂っている。透真はその異常な湿気に僅かながら眉をひそめたが、立ち止まることなく音のした場所──洗面所へと急いだ。
扉には簡易錠が掛かっていたが、外側からもコインで回して開けられるタイプのものだった。鍵を開け扉を開けると、姿見が無惨に横倒しになっていた。ラグには赤黒い血が飛び散り、まだ乾ききらないままの赤黒いシミとなっていた。
だが、誰もいなかった。
「これは……宇津木か? 無事では済まない血の量だが……」
透真が呟き三人が呆然と立ち尽くしたまま、互いの顔色をうかがい、言葉も出せずにいる。何か恐ろしい出来事がここで起きたことは明らかだったが、肝心の当事者がそこにいない。その矛盾が彼らの理解を拒絶し、空白の沈黙が冷たく広がった。
2-3. 困惑
その静寂を破ったのは背後からの声だった。
「なんだよ、どうしたんだ?」
振り向くと、そこには何食わぬ顔をした宇津木が立っていた。彼は明らかに困惑する四人の顔を順に眺め、最後に洗面所の惨状を目にすると、一瞬だけ微かに眉をひそめた後、軽薄そうな笑みを浮かべた。
「なんだ、大きな音がしたと思ったら大したことないじゃないか。姿見が倒れただけか?」
その声は驚くほど軽く、まるで何事もなかったかのように笑い飛ばしている。しかし透真は彼の笑顔の奥に、どこか説明のつかない奇妙なものを感じ取った。それは漠然とした違和感だったが、確かに胸に引っかかり微かな痛みのように刺激し、透真は目を細めた。
環奈は、表情を失ったような顔で宇津木を凝視していた。唇は微かに震え、言葉にならない動揺が頬の筋肉にうっすらと現れている。拓巳はわずかに眉をひそめ、無言のまま呆然と宇津木の姿を睨んでいた。その視線には警戒と戸惑い、どこか怖れている色さえ滲んでいた。
理紗は息を飲み、目を大きく見開いたまま立ちすくんでいる。不安と安堵、相反する感情が一度に押し寄せたような、整理のつかない表情を浮かべていた。まるで皆、夢でも見ているかのように、現実と認識の狭間で足を取られていた。
宇津木はそんな彼らの表情を愉快そうに眺め、再び場を和ませるように軽い笑い声を立てたが、その笑い声が不自然なほどに廊下に反響し、透真の胸に残る違和感をさらに濃くした。
四人は混乱したまま、誰のものかもわからない血痕をぼんやりと見つめている。誰も口を開こうとせず、状況を飲み込めないまま立ち尽くした。
宇津木は彼らの様子を横目で見ながら、どこか楽しげに唇の端を歪めている。その瞳の奥には微かな暗い輝きがあり、透真だけがその不可解な瞳の中に、自分たちがまだ知り得ない何か恐るべき秘密が隠されていることを直感していた。
2-4. 残響
何事もなかったとでも言うように振る舞う宇津木に促されるまま、透真以外はぎこちなく洗面所を後にした。透真だけがその場に残り、鏡の脇に転がっている燭台や血痕を見つめていた。
四人が立ち去ったあと、館内は再び息をひそめ、押し殺された静寂が広がった。橙色の照明が薄暗く光を落とす洗面所で、彼は周囲をゆっくりと見回した。鏡は床にうつ伏せの状態で倒れており、その巨大な黒檀の枠が、起毛の絨毯ラグの上に重々しい影を落としていた。
鏡の倒れ方にまず違和感があった。自然に倒れたにしては不自然に見え、その角度が何かを覆い隠そうとしているかのように透真には思えた。
鏡の脇に骨董品の燭台が転がっていた。それはおそらく、元々棚に飾られていたものだろう。まるで中世の城館にでも置かれていそうな、五灯式の重厚な卓上燭台だった。蔦状の意匠が絡み合い、煤けた真鍮色の表面は時の重みを纏って鈍く光を返している。脚部は獣の爪を模したように盛り上がり、土台をしっかりと支えていた。飾り物のはずが、そこには戦斧にも似た暴力性が潜んでいた。そして、その土台の縁には暗い色の染み──血痕が、かすかにこびりついていた。
彼は横倒しになった姿見の鏡面を少し起こしじっと覗き込んだ。倒れた時のものだろうか、隅が少しひび割れた鏡面に映る自分の顔は幾重にも歪み、まるで異なる人格を持つ者が背後から見つめ返しているような不穏な気配を放っていた。彼はわずかに息を吸い込み、反射光の下で鏡の表面を細かく観察した。そこにはかすかな皮脂の跡が残り、誰かの顔が確かにそこに押しつけられたことを物語っているようだった。
床に散らばった血痕も、多少の切り傷や擦り傷で出る量ではなかった。ラグを凝視すると、ラグの起毛の流れに圧迫痕がかすかに確認できる。誰かがそこに倒れ込んだか、あるいは横たわっていた可能性を示すような──明らかな痕跡だった。また、ラグの黒檀の縁取りが当たっていた部分の片側だけが傷のように特に強く抉れていることにも気がついた。まるで縁取りが片方だけ斜めに当たっていて荷重が集中したような──彼はしゃがみ込み、指先で軽く触れながらラグの傷を確かめた。その不自然な傷は明らかに最近できたものであることを示しており、何らかの出来事がこの場所で起こったことを強く示唆していた。
すべての状況を総合すると、ここで何か深刻な事態が起きたことは明白だった。誰も負傷すらしていない、という点を除けば。彼は立ち上がり、冷静に深く息を吐き出すと再び静かに扉を開け廊下に出た。
その背後で照明が微かに揺れ、鈍い羽音のような音を立てた。まるで館そのものが、誰かの真似をして吐息を漏らしたような──そんな、何かがこちらを見ているという錯覚が、空気に滲んでいた。
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