CASE:011-1 とりまがいの姿見
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
1-1. 望影荘
夏の夕暮れはどこか奇妙だ。山間に沈んだはずの日差しは、名残惜しそうに青灰色の空をいつまでも照らし続け、宵の訪れを微妙に狂わせる。
そのぼんやりとした光の中に、貸別荘『望影荘』は静かに佇んでいた。築百年とも言われる古い洋館は、まるで山の闇が形を成したかのような重厚な陰影を落としている。濃緑の蔦が石造りの外壁をびっしりと覆い、窓枠や屋根瓦の一部まで飲み込みそうなほど勢いを伸ばしていた。正面玄関の扉は鉄製の飾り彫刻が施され、その錆びついた細工はかつての威厳を辛うじて留めているものの、今は古びた印象ばかりを強調している。
外観だけではない。館全体に漂う重苦しい静寂が、この場所が通常の宿泊施設とは異なる性質を持っていることを訪れた者に否応なしに悟らせた。入口の側に立つ立札には、仰々しい筆跡でこう記されていた。
『望影荘へようこそ。ゆめゆめ館内の品に触れることなかれ。壊したる者は、この世に在らざる者となるべし。』
この館のオーナーは骨董蒐集家として一部で知られた人物だった。彼は全国各地から曰く付きの品を蒐集することを趣味とし、この館はそのコレクションを飾るためだけに建てられたと言っても過言ではなかった。客室や食堂、廊下、そして洗面所に至るまで、オーナーが収集した不吉な逸話を抱える骨董品が所狭しと並べられている。そしてこの館のオーナー自身が、ある日を境に突如として消息を絶っていたことも、伝聞に一層の真実味を与えているのだった。
オーナーの消失後も館は閉鎖されることなく、管理会社を通じて貸別荘として細々と営業を続けていた。訪れる客は少なく、もっぱら物好きな旅行者やオカルト趣味の者たちが、噂の真偽を確かめようと宿泊する程度だった。だが、『望影荘』の名はそうした噂好きの間でも次第に忘れ去られつつあり、最近ではほとんど客も訪れず、山奥にただ寂しく置き去りにされたまま、時の流れに静かに埋もれていくように存在していた。
そんな『望影荘』を、久しぶりに借りる者たちがいた。大学時代、同じミステリー研究会に所属していた男女五人。彼らは卒業から数年を経て、思い出作りの同窓会を企画したのだという。彼らは、館が抱える陰鬱な伝説など気にも留めず、軽薄な好奇心と懐かしい友人との再会の喜びに胸を弾ませて山を登ってきた。
だが、彼らはまだ知らない。蔦に覆われ、時に忘れられ、ただ静寂を抱いて佇むこの館に足を踏み入れた時点で、既に運命の歯車は静かに狂い始めているということを。
1-2. 邂逅
午後の穏やかな日差しがまだ残るうちに、四人は『望影荘』に辿り着いた。彼らを運んできたタクシーが山道の埃を巻き上げながら去っていくと、館の周囲は再び物憂げな静寂を取り戻した。
館を見上げる四人の中で、白洲環奈だけが微かに顔を強張らせていた。彼女は一見しただけでは冷静に見えるが、その眉がひと呼吸の間だけ引きついたことに気づく者はいない。彼女の傍に立つ清水拓巳は、どこか落ち着かない表情で、彼女に視線を送ったり逸らしたりを繰り返している。二人は恋人同士ということになってはいるが、その距離感はどこかぎこちなく、歩く時も不自然な間隔が空いていた。
そんな二人の微妙な空気に全く頓着しない男が、宇津木誠だった。彼は四人の中で最初に館の前に立ち、大げさなほど感嘆の声を上げていた。
「見ろよ、こんな山奥にいかにも幽霊が出そうな洋館! たまんないよなあ、こういう雰囲気」
彼の声は妙に軽く、口調もわざとらしく明るかった。その瞳は好奇心というよりも、むしろ他人を刺激して反応を楽しもうとする悪趣味な期待に濡れていた。
「拓巳、お前もそう思うだろ? お前は昔からこういうの好きだったじゃないか。あ、いや違ったか。こういう幽霊屋敷が好きなのは環奈の方だったっけ?」
わざとらしい問いかけに、拓巳がぎこちなく環奈の顔色を窺う。彼女は唇を引き結び、無言で館の玄関を見つめていた。宇津木はそれを見て、ますます楽しげに口元を歪ませる。
「まあいいか、どうせ今夜はゆっくり昔話ができるんだし。あの頃の面白い話もたくさんあるだろ? ほら、卒業旅行で起きたあれとかさ──」
「やめてよ、宇津木くん」
口を開いたのは山野理沙だった。彼女は小柄でおっとりとした女性で、大学時代からいつもトラブルを嫌い、控えめな態度で周囲をなだめて回っていた。彼女は少し困ったような、それでいてどこか寂しげな微笑みを浮かべ、宇津木の冗談めかした口調を柔らかく遮った。
「せっかく久しぶりに集まったんだし、楽しく過ごしましょうよ」
宇津木は大袈裟に肩をすくめ、「まあ、それもそうだな」と笑ったが、その目には諦めきれない悪意の光が宿っていた。拓巳は再び環奈の横顔を盗み見た。宇津木の言葉に触れるたび、彼女の目元が僅かに歪むことを彼は敏感に察していた。理紗は拓巳と環奈の微妙な距離を気遣うように努めて明るい声を出し、「それじゃ、入ろうか」と提案した。だが館の扉を開けた瞬間、四人は皆押し黙り、足を踏み入れることを躊躇った。
開かれた扉の奥に広がる暗いエントランスホールは、外からの光を拒絶するかのように重く沈んでいた。かすかに埃の混じった空気が、喉を刺すように彼らの肺へと入り込んでくる。壁に飾られた古い肖像画や骨董の数々が、薄闇の中でぼんやりと浮かび上がり、四人をじっと見つめ返しているような錯覚に陥らせた。
「何だか、すごく重い雰囲気……」
理紗が思わず呟いた声は、広々とした空間に微かに反響して消えた。誰もが動くのをためらう中、宇津木だけが妙に陽気な態度を崩さず、率先して中へ踏み入った。
「何、怖気づいてんだよ。せっかく借りたんだろ? さっさと楽しもうぜ」
館の中へ消えていく彼の背中を見送りながら、環奈は目を細め、唇をかすかに噛んだ。その表情には憎悪と恐怖、そして隠し切れない後悔が複雑に入り混じっていた。
この館で何かが起こる──環奈の心のどこかが、予感を通り越して確信めいた警鐘を鳴らしている。だが彼女はその内なる声を振り払うように、ゆっくりと館の中へ歩き出した。拓巳もまた、そんな彼女の背中を追いかけるしかなかった。
山の奥に取り残された館の扉が、鈍い音を立ててゆっくりと閉ざされる。外の光は完全に遮られ、四人は館の吐息とも呻きともつかない微かな音が満ちた空間に、飲み込まれるように姿を消した。
1-3. 境界
館の中は外観以上に重苦しかった。空気には古い木材と埃、そして何か得体の知れないものが混じり合い、呼吸する度に胸を圧迫した。歩くたび軋む床板は、館そのものが彼らの侵入を不愉快に感じ、軋んだ声で囁いているかのようだった。
幹事の環奈は、努めて落ち着いた表情で館内を案内した。気丈で冷静を装いながらも、その指先は微かに震えている。彼女がゆっくりと一つずつ案内していく部屋はどれも薄暗く、陰鬱な骨董品がそこかしこに無造作に飾られていた。
「これはオーナーが京都で手に入れた仏頭の置物だそうよ」
環奈が示した黒ずんだ木彫りの仏頭は、壁際の棚に鎮座し、訪問者たちを悲しげに見つめているようだった。半ば剥げ落ちた金箔の下から覗く木肌は不気味に黒ずみ、その目は、あたかも生きているかのような湿った光を帯びていた。
理紗が息を飲む音が聞こえた。環奈は気づかないふりをして、次の品へと案内を続ける。
「これは鉄製の香炉ね。確か江戸時代のものだとか。何でも、以前の持ち主は突然消息を絶ったそうよ。もちろんただの噂でしょうけど……」
環奈は敢えて軽い口調で言ったが、その言葉は薄闇の中に浮かび上がる鉄の香炉の威圧的な佇まいによって、説得力を失ってしまった。古びた鉄肌の表面は錆び、何かが焼かれたような跡が残り、その周囲だけ空気がわずかに焦げ臭く感じられた。
一通りの案内を終えると、環奈は足を止め、深呼吸を一つしてから廊下の奥に目を向けた。そこには館の奥深くへ続く暗く狭い通路があり、突き当たりには木製の扉が立ちはだかっている。
彼女は逡巡したが、意を決したように扉を開いた。そこは浴室に繋がる洗面所だった。無駄に贅沢な造りで、白い大理石の床や壁が橙色の光を鈍く反射している。台の上には間接照明も兼ねているのだろうか、重厚な作りの卓上燭台が設置されている。そして中央には巨大な姿見が壁に掛けられ、全ての視線を無意識に引きつけていた。
鏡の周囲には精緻な細工が施された黒檀の縁取りがあり、それ自体が異様なまでの存在感を放っている。鏡面は静謐な水面のように澄み切り、その奥は、どこまでも深く──底知れぬ闇が広がっているようだった。
「これが噂の『境界の鏡』よ」
環奈は淡々と言ったが、その瞳には微かな怯えが宿っていた。
「……境界の鏡?」
拓巳が思わず呟くと、理沙が妙に高揚した様子で割り込む。
「オーナー自身が、この鏡に囚われて行方不明になったって噂よね。調べたの、この鏡やっぱり変わってるよね」
言葉はそこで途切れた。四人は鏡の前に立ち尽くし、それぞれが映る自分の姿を見つめた。鏡に映る彼らの顔は奇妙に歪んでいるようにも見え、それが鏡の歪みなのか、自分自身の内面が映し出されているのか、誰にも分からなかった。
「馬鹿馬鹿しいな」
宇津木のわざとらしい笑い声が沈黙を破ったが、その声もどこか空虚だった。彼らは無言のまま洗面所を出て、足早に食堂へと向かった。
1-4. 波紋
食堂の大きなテーブルを囲み、四人はやっと安堵のため息をついた。だがそれも束の間で、宇津木が場を和ませようと軽口を叩き始めると、場の空気は再び重苦しく歪んだ。
最初は何気ない思い出話だった。サークルで行った旅行の話、ゼミの教授の悪口、大学時代の恋愛話──それらは微笑ましい記憶を引き出すはずだった。しかし宇津木は、次第に会話をわざとらしく歪め、彼らが触れたくない記憶を掘り返し始めた。
「そういえば環奈、お前あの卒業旅行のとき、やたらと機嫌悪かったよなあ。拓巳と何か揉めたんだっけ? ああ……あの頃の環奈、やけに尖ってたからなぁ」
拓巳の顔色が微かに青ざめる。環奈は下唇を噛み、感情を抑えるように拳を握りしめている。理紗はただおろおろと宇津木と環奈の顔色を交互に伺い、何か言いたげに口を開きかけては閉じていた。
「あ、もしかして拓巳が金に困ってた頃か? あの時の拓巳、せっかく俺が持ちかけた投資話で失敗して色んな奴に声掛けまくってたもんな。みんな迷惑してたけど、俺はむしろ可哀想に見えたぜ。俺はだいぶ儲かったもんな、あれ」
彼の言葉が胸に突き刺さり、拓巳は無言のまま目を伏せる。沈黙が重く食堂に広がった。
環奈は唇を震わせながら、宇津木に怒りのこもった視線を投げつけた。理紗が必死に場を和ませようと何か言おうとしたその時、宇津木は椅子を乱暴に引いて立ち上がった。
「煙草でも吸ってくるわ」
彼は館内禁煙など気にもせず、薄笑いを浮かべながら食堂を後にした。残された三人は押し黙り、互いの目を合わせることもできずにいた。気まずい沈黙の中で、拓巳がため息をつく。
「……俺達三人と透真の四人でって話だったろう?」
「……ごめん、私、宇津木くんに連絡しちゃって……環奈にちゃんと伝えなかったの……」
「もう、本当よ! 理紗! なんで勝手に……!!」
元々、過去にあったいざこざから宇津木にはこの集まりのことは知らされていなかった。しかし環奈達の知らぬ間に理沙が知らせてしまい、当日の駆け込みで急遽宇津木も参加することとなった。
「……みんな疲れたでしょう。一旦それぞれの部屋で休んだ方がいいかも。宇津木くんには私が伝えておくよ」
理沙のその提案に誰もが静かに頷き、無言のまま席を立った。誰もがそれぞれの後ろめたい過去を胸に抱き、静かに足音を立てて自室へと散っていった。
1-5. 応報
「……そんな顔するなよ。俺はただ、昔話をしただけだろ?」
宇津木の声が低く響いた。その口調は嘲笑的で、相手の感情を逆撫ですることを楽しんでいるかのようだった。相対するもう一人の人物は、肩を小刻みに震わせていた。息遣いは荒く、耐え難い感情がその胸の奥で渦巻いているのが見て取れる。
その瞬間だった。その人物の震えがぴたりと止まり、空気が張り詰めた。
次の瞬間──
鈍く重い打撃音が響き渡った。
真鍮製の重厚な卓上燭台が宇津木の後頭部を直撃する。彼は何が起きたのか理解できないまま、虚空を見つめて固まった。
「え……」
呟きか、呻きか──判別のつかぬ短い息が漏れたその瞬間、宇津木の身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。床に宇津木が倒れる音が鈍く響き、静寂が戻った。立ち尽くす影が膝を折り、震える手を伸ばして宇津木の首筋に触れる。しかし、脈動はすでに止まっていた。呼吸もなく、宇津木の瞳はただ虚ろに天井を見つめたまま動かなかった。
1-6. 遅参
陽は既に山の背後に隠れ、薄墨色の空が深い藍色へと溶け始めた中、葦名透真は荷物を肩に担ぎ、細くうねった山道をひとり歩いていた。電車が遅延したため、予定より二時間近くも遅れてしまったのだ。山道を歩く彼の足音以外には、鳥や虫の声すら聞こえず、ただ樹々のざわめきが時折思い出したように彼を包んだ。
足元は、不自然なほど湿っているように感じられた。雨が降った記憶はないのに、土は粘土質のぬかるみとなって靴底にまとわりつく。息を吸い込めば、山特有の湿った苔の匂いとともに、どこか錆びた鉄のような奇妙な香りが鼻孔を刺激した。
やがて、木立の隙間から薄暗い影が浮かび上がった。『望影荘』──その洋館は暗い森に押し潰されるように佇んでいた。到着したことに安堵する反面、館が放つ異様な雰囲気に胸がざわめく。何かが彼の内奥で警鐘を鳴らしていた。だがその直感の理由を掴みきれず、彼は慎重に玄関の扉を押し開けた。
館内は不自然なほど静まり返っていた。室内の空気は淀み、濃い影が至るところに絡みついている。彼は館が訪問者を歓迎していないことを感覚で悟った。重い木の扉を閉めると、錠が掛かるように鈍い音が響き、退路が絶たれたような錯覚が背筋を撫でた。
「透真くん、遅かったじゃない」
廊下の奥から環奈が現れ、微かに微笑んだ。その声色は軽やかだったが、目元には明らかな緊張の色が漂っていた。続いて拓巳が現れ、軽く手を上げた。彼も環奈と同じように笑顔を見せようとしているが、どこか無理に作った表情だと透真は感じ取った。最後に理紗が遠慮がちに顔を覗かせ、ぎこちなく手を振った。
三人の笑顔は明るいが、どれも上滑りしている。彼らが見せる表情の奥底には、それぞれが抱える微かな不安や動揺が透けて見えていた。環奈が何か言おうとして口を開きかけるが、理沙が先回りするように言葉を継いだ。
「宇津木くんは少し席を外してるけど、夕食の準備を始めましょうか」
「宇津木もいるのか? 白洲、清水、山野と俺の四人と聞いていたが」
確か宇津木と他の面々の関係はあまり良くなかったはずだ。わざわざ呼ぶとは思えない。透真は心の底に奇妙な違和感が重く沈んでいくのを感じていた。
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