CASE:010-3 マナババ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
3-1. 膠着
外に満ちている六月の湿気も、特対室の空調の効いた空間には無縁だった。美優はデスクの端でため息をつき、傘が視線の端に入らないようにと椅子の角度を微妙に調整した。あのお気に入りの傘を封印した位置から目を逸らし、視界に入り込まない角度を模索するのが、ここ数日の習慣になってしまっている。
傘はパーティションの裏に立てかけられ、ふとした瞬間にちらりと視界に入る。その度に、「靴を脱がない! 足をバタバタさせない!」「ペンを指で回さない!」──傘の内側であの老婆、マナババがじっとこちらを睨みつけて態度を指摘してくるような錯覚に襲われるのだ。美優は無意識に背中をぞくりと震わせ、振り返らないように意識を強く持ち直した。
「たまに『こっち見てる』気がするんだけど……見ると絶対いるから、絶対見ない」
美優の言葉に、向かいのデスクで煙草をくわえている蜘手が鼻先で笑った。
「もう同居人だな、仲良くやったらどうだ? 高齢化社会の予行演習だ」
蜘手の冗談めかした軽口に、美優は怒りと苛立ちがない交ぜになった視線を向けたが、何も言わずに顔を逸らした。閉ざされた蛍光灯の光が静かに室内を照らし、傘の存在感だけが奇妙なほど鮮烈に美優の背中に貼り付いているようだった。
透真は眉間に刻まれた深い皺をさらに寄せながら資料を再度めくり返し、低く落ち着いた声で口を開いた。
「今、中途半端に祓ったとしても、その執着が別の形で別の対象に移る可能性が高いだろうな」
灯里も頷きながら、静かに付け加えた。
「結局、あの存在は自分の執着が満足されるまで、決して消えないでしょうね。やはり何らかの形で満足させるしかないわ」
美優はそれを聞いて、椅子の上で苛立ちと焦燥から足を小刻みに揺らした。
「じゃあどうすれば満足なんですか、あの怒り顔でずっと傘に張り付いてれば満足なの?」
美優の愚痴は室内に響き渡り、直後の沈黙を一層重苦しくした。部屋に張り詰めた気まずさを破るように、蛍光灯がチカチカと一瞬不安定に瞬いた。
3-2. 礼儀
沈黙を破ったのは、部屋の隅で腕を組んで立っていた雷蔵の低く抑えた呟きだった。彼は普段、怪異対策に関しては直接口を出すことは少ない。だからこそ、その声は唐突に特対室の静かな空気を貫いた。
「そりゃあお前、マナーにはマナーで感服させてやったらどうだ? 相手流に筋を通しちまえばいい」
美優は思わず雷蔵を見上げた。今までの焦燥感が、あまりの意外な提案に一瞬だけ途切れる。
「は?」
雷蔵は表情を変えず、むしろ当然とでも言いたげに顎を引いた。
「『俺はお前より正しい』ってわからせりゃ、向こうも文句言えねぇだろ」
室内の空気が微妙に揺らぎ、美優の耳に雷蔵の言葉がゆっくりと染み込んでゆく。隣で黙って考えていた灯里が小さく息をつきながら、静かに頷いた。
「なるほど……。『より礼儀正しい者』には、執着は移らない。ある意味、『上位互換』ね」
美優は唇を噛んだ。あまりに奇抜で、それでいて不思議と筋の通ったその考え方が、頭の中でぐるぐると回り続ける。
3-3. 作戦
「イヤですよ、そんなの」
美優は即座に反発した。だが雷蔵は涼しい顔で美優を見下ろし、軽く肩をすくめた。
「そう言うと思ったぜ。でもな、俺も武道の家の出だ。小笠原流礼法の基本動作くらい教えてやる。相手が感服するレベルの礼儀、見せてやろうじゃねえか」
有無を言わさせないその言葉に、美優は舌打ちしそうになったが、雷蔵の確信に満ちた眼差しに押され、思わず口をつぐんだ。灯里も穏やかな微笑を向けてきたが、その微笑には静かな圧力がこもっていた。
美優はやがて観念したように息を吐き出した。結局、自分の運命を受け入れるほかなかった。次第に、マナババに対する怒りよりも、自分を巻き込んだ運命への諦めが勝りつつあった。
作戦の概要は単純だ──あの地下道を、マナババが絶対に認めざるを得ないレベルの完璧なマナーで通過すること。だが、それがどれほど滑稽な行為であるかは、美優自身が一番よく分かっていた。彼女は再び深くため息をつき、肩を落としたまま、その作戦を想像してみる。
結局、あの可愛いスイカ柄の傘が彼女の人生を狂わせていく──その理不尽さが、美優の胸をじわりと締めつけていた。
3-4. 所作
特対室の壁掛け時計は、相変わらず淡々と時を刻み続けていた。その秒針がひとつ進むたび、美優は自分の身体のどこかに小さな間違いを見つけては、また最初から動作を繰り返させられた。こんなに長く、一分一秒が苦痛に感じられたことはない。雷蔵の声は低く厳しく、美優の背筋にぴりりと響いた。
「背筋を伸ばせ。顎を引け。動きは柔らかく、それでいて緩慢にはするな。細かな所作ほど見られていると思え」
美優は何度もため息を飲み込み、言われた通りに背筋をピンと伸ばした。灯里が傍らで静かに微笑み、時折手本となる美しい所作を見せてくれるが、それは美優にとってあまりに完璧すぎて、自信を持つどころかますます萎縮してしまうのだった。
「襟元をきちんと正して、指先の動きは丁寧に、確実に」
灯里が優しく助言をくれるたびに、美優の眉間にじっとりと汗が滲む。背中は痛くなるほどまっすぐ伸ばし、制服のシャツの襟元を何度も直した。傘の紐を巻きつける動作ひとつに至るまで徹底的に繰り返されるこの礼法訓練に、下町生まれの美優は「私は深窓のご令嬢?」と悲鳴をあげたくなるほど苛立ちを覚えつつも、「もう傘に土下座してなんとか許してもらいます」という言葉が出そうになるのを飲み込みながらも、いつしか心を無にすることに集中していた。
雷蔵が満足げに頷いたのは、どれほど時間が経ったあとだろうか。
「ようやく形になってきたな」
疲労困憊した美優は、ようやく訪れたその小さな承認に安堵のため息をつきながらも、その直後に訪れる「本番」のことを思うと、また心の底が冷えるような緊張に包まれてしまうのだった。
3-5. 正対
夕暮れ時、雨は静かに降り続けていた。六月の小雨は霞のように細く、視界をぼんやりと白く曇らせている。美優は制服を完璧に整え、スカートの乱れもなく、シャツはきちんと腰に収められていることを何度も確認した。手にはスイカ柄の傘がきっちりと巻かれ、まるで一本の棒のように整然と保持されていた。
地下道の入り口に立った美優は、肺に満ちた息をゆっくり吐き出すと、深々と腰を折り曲げ、一礼した。その瞬間から彼女は全神経を自分自身の所作に集中させる。地下道の中は湿気と薄暗さに包まれ、古びた蛍光灯が微かな唸りを上げながら時折ちらついた。足音を立てずに昔ながらの気品のあるすり足で一歩ずつ、丁寧に前進する。視線は常に真っ直ぐ前方を見据え、心を穏やかに保つため、静かに呼吸を整えた。
壁際にじっとりと湿り気を帯びた空気が漂い、美優の頬や髪にまとわりつくように触れた。だがその不快さを意識することなく、美優はただひたすらに礼法の所作を完璧にこなすことだけに意識を集中していた。
出口に辿り着き、地下道を抜ける最後の一歩を踏み出す前に、美優は再び深く一礼した。その動きには寸分の乱れもなく、彼女自身でも驚くほど自然で美しい礼になっていた。
一歩外に出た瞬間、耳の奥で、ふんっと悔しそうに鼻を鳴らす音がした気がした。まるで認めたくないという最後の抵抗のように。全身を覆っていた重苦しい圧迫感がふっと軽くなったことに気がついた。まるで何か重たい霧が一瞬にして晴れたかのように、美優を取り巻く空気が軽く、澄んだものに変わっていた。
その瞬間、美優は理解した──何かが去ったのだ、と。
3-7. 消失
美優は震える指先で、慎重に傘を開いた。心臓が早鐘のように打つ。もしもあの老婆がまだいたら、再び視線を合わせてしまったら──そんな恐怖が喉元を締めつけていた。
しかし、開いた傘の内側には何もなかった。眼の前には赤い果肉と黒い種がプリントされた可愛いスイカ模様だけが広がっていた。美優は全身から力が抜け、その場にゆっくりと座り込んだ。冷たい地面がスカート越しに伝わるが、そんなことはもうどうでもよかった。
「……勝った。完全勝利です」
彼女の呟きに透真が小さく頷いた。
「『正しさで上書きした』んだな」
灯里も穏やかに微笑んだが、その目には微かな懸念がまだ浮かんでいるようだった。
「執着の回路が閉じたということね。これで大丈夫……たぶん」
3-8. 残響
だが美優の心の安堵は長くは続かなかった。彼女はふと、違和感とともに新たな不安が胸の奥から湧き上がってくるのを感じていた。
「でも……もし他の人にも出たら?」
その言葉に、灯里は静かに頷き返した。
「条件が揃えば、可能性は否定できないわね」
透真も眉間に皺を寄せ、辺りを警戒するように視線をめぐらせた。
「生前の叱責の記憶が残っている場所がまだあれば、再発のリスクはあるだろうな。久世さんが感じ取った思念の境界を再度調査しなければ」
美優は軽く唇を噛み締めた。戦いが完全に終わったわけではないのだということが、彼女の肩に再び重くのしかかっていた。
小雨はまだ静かに降り続き、スイカ柄の傘を叩くその音は、美優にはどこか遠い響きのように感じられた。
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