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CASE:009-4 姦姦蛇螺

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

4-1. 穢誕


 姦姦蛇螺の骸が横たわる中、静かな虚無だけが残されていた。斬鬼隊の隊員たちはその静寂に惑わされ、一瞬の勝利に酔いしれかけていた──しかし、それは錯覚に過ぎなかった。

 突如、姦姦蛇螺の骸が不自然な痙攣を始めた。まるで目に見えぬ糸に引かれ、操られるように肉が蠢きだす。隊員たちは瞬時に身構え、目を逸らすことができなかった。その奇怪な現象は死んだ肉体が内側から膨張し、やがて裏返り始める様子を克明に描き出していた。

 皮膚が裂け裏返り、粘液を帯びた生々しい血肉が、濃厚な黒血と共に新たな肉体が、古い肉体を上書きするように這い出してくる。肉が裂ける生々しい音を立て、内部から這い出たその存在は、徐々に新たな巨大な蛇の下半身と化し、上半身には六本の白く細い腕が異様にうねりながら伸びていった。


 それは、まさしく禍神の顕現だった。

 姦姦蛇螺の真の姿は、人が直視してはならぬ忌まわしい異形として、夜の森に圧倒的な威容を誇った。かつて巫女であったものの面影はどこにもなく、ただ禍々しく冷酷な蛇神の姿がそこに在った。

 姦姦蛇螺の六本の腕が空を切り裂くようにゆっくりと広がり、裂け目のような口元から、風とも震えともつかぬ『ことば』が溢れ出た。それは音としての構造を持っていたが、意味としては成立していなかった。だが確かにそれは響いた──聞く者の精神に、骨の芯に、脳の皺に。


 ──まかりける うでのまにまに くちひらく


 ぞっとするほど柔らかな声だった。まるで死者の耳元でささやかれる子守唄。その言葉が紡がれるや否や、地面から激しく穢れを放つ六本の霊的な柱が逆さまに突き出し、闇に満ちた濃厚な瘴気が一気に辺りを支配した。その穢れは視界を濁らせ、隊員たちの装備が瞬く間に錆び付き、肌をじりじりと焼くように蝕んでいく。刀堂は呻きながらも、その激しい穢れの中で叫んだ。

「総員、怪異を殲滅せよ!」

 だが隊員が動くよりも早く、不意に姦姦蛇螺の六本の腕が、信じられぬほどの速さで空間を裂いて襲いかかった。一瞬の閃光のような動きに、複数の隊員が腕を切断され、鮮血が地面を染め上げた──その凄惨な光景に、空気が凍りついたように静止する。だが、刀堂は一瞬の躊躇も見せなかった。

「負傷者は下がれ! 『肉泥』、応急処置!」

 その命令と同時に、一人の隊員が素早く負傷者に駆け寄る。その手のひらから零れ落ちるのは、濃褐色の泥のような物体──生温かく脈打つようなそれは、切断された傷口へと吸い寄せられるように滑り込んでいく。ぶちゅり、と嫌な音を立てながら、脈動する肉泥が断面を覆い、動脈に入り込み、仮初の肉蓋を作り上げていく。その様子は悍ましく、見る者に嫌悪感すら催させたが、それでも明らかに効いていた。出血はかなりの量が抑えられ、負傷者は朦朧としながらも意識を保ったまま離脱していく。


 刀堂の目は揺るがなかった。その視線の先にあるのは、味方の損耗でも、作戦の成否でもない。斬るべき存在のみだった。

 姦姦蛇螺はその惨状を見て、どこか満足そうに不気味な笑みを浮かべた。その唇から紡がれた囁きは、どこまでも穏やかでありながら、身の毛がよだつような邪悪さを帯びていた。


 ──むくろ さきだち よぞらのさびと なれはてよ


 その瞬間、隊員たちが初めて真の恐怖に震えた。刀堂でさえ、表情を歪ませながら刀を握り直し、その化物に向かって構えを取ることしかできなかった。深い闇と濃密な瘴気に包まれた地で、『禍神』姦姦蛇螺はゆっくりとその六本の腕を広げ、闇そのもののような瞳で隊員たちをじっと見つめた。

 彼らはまだ理解していなかったのだ──ここで起きているのは戦闘などではなく、禍神自身が主催する、絶望的な捕食劇の幕開けなのだということを。



4-2. 凶宴


 禍神は、蠢く闇そのものが具現化したかのような威容を纏い、斬鬼隊の眼前に悠然とそびえ立っていた。隊員たちはすぐさま散開し、息を合わせ恩寵を展開した。だがその時には既に、絶望が音もなく降り注ぎ始めていた。六本の白く細い腕が空間を歪ませるほどの速さで動き、隊員の恩寵を軽々と払いのける。斬撃も炎も雨も、すべてが彼女に届く前に消え去り、虚空に弾かれてしまった。


 火野は額に汗を浮かべながら自らの手首を切り『神炎』を解き放った。その白い炎がまっすぐに禍神の胸元へ伸びたが、禍神は冷笑を浮かべながら六本の腕を優雅に翻した。次の瞬間、炎は信じられぬほどの速度で逆流し、火野自身の身体を舐めるように包み込んだ。火野の叫びが夜空に響き渡り、彼は自身の神炎によって酷く焼かれた右腕を押さえ、崩れ落ちた。

 雨宮は焦りを滲ませながらも、黒雨『神雨』を禍神の頭上に降らせた。しかし雨宮は知らなかった。自身の神雨が穢れの性質に近いことを。禍神はその雨を両手で優しく掬い上げると、陶酔した表情で笑った。


 ──くがのあめ つみてうるわし うるわしきは けがれぞなり


 彼女が囁くと、黒い雨は禍神の腕の中で凝縮され、どろりと濃厚な瘴気となって隊員たちへ降り注いだ。雨に触れた隊員たちは装備を蝕まれ、肌は焼け爛れ、悲痛な呻きが次々と上がった。刀堂は冷静さを保ちながら、隊員たちの悲鳴を背に受け、再び『断罪』の刀を握り直した。彼の眼には、任務を遂行する意志以外に何も映っていない。しかし、その刃が禍神の身体に触れた瞬間、禍神の声が静かに響いた。


 ──みなせぬままに さだめをきるは いましのほこり うまれなおせ


 刀堂の刃が禍神の腕の一本を切り飛ばす──が、宙に舞った腕がまるで逆再生されるように繋ぎ直される。次の瞬間、彼の視界は激しい痛みに染まった。間合いを引きながら振るった返す刀筋を容易く掻い潜り、禍神の細い指が彼の左腕を掴み、引き裂いたのだ。


 刀堂は痛みに呻きながらも、鋼の意志で倒れることなく隊員たちへ鋭く命じた。

「撤退! 総員、一時撤退しろ!」

 突如周囲に濃霧が立ち込め、隊員たちは重傷者を抱え、這うようにして霧の中へ退いていった。禍神はそれを無言で見送りながら、手中に残った刀堂の片腕を満足そうに撫でた。


 後に残ったのは濃密な瘴気と、刀堂の左腕──。その腕を優しく手にした姦姦蛇螺は、虚空に向かい静かに笑った。まるで、その腕が彼女にとって最初の供物であるかのように。



4-3. 惨禍


 斬鬼隊のキャンプ地に到着した特対室のメンバーを迎えたのは、地獄さながらの凄惨な光景だった。血臭が濃密に漂い、空気は呻き声と苦悶の呼吸音で満たされている。傷を負った隊員たちは地面に横たわり、傷口を押さえ呻いていた。焚火の炎に照らされた赤黒い血痕が、無数の苦しみを刻んだように広がっている。

 その壮絶さに、美優はたちまち胸が悪くなった。口元を押さえ、膝が震えるほどの吐き気を必死に堪える。彼女がこんなにも露骨な惨劇を見るのは初めてのことだった。


 一方、刀堂は片腕を失っているにもかかわらず、平然とした表情で隊員たちに指示を出していた。彼の左上腕からは無残に腕が引き裂かれた跡が覗き、処置はされているようだが包帯がほんのりと赤く染まっている。しかしその瞳にはいまだ冷徹な光が宿り、痛みなど感じていないかのようだった。

「仔細ない」

 刀堂は透真の視線を感じ、短くそう告げただけで視線を逸らした。透真は冷静に状況を観察し、斬鬼隊の戦力を分析する。

(──この状況で死者なしの撤退とは、単なる幸運ではありえない……移動に関する恩寵を使ったのか? 傷も妙な塞ぎ方がされている。それにこの男の落ち着き様……後方には四肢欠損の重傷すら治療できるような恩寵持ちも控えているのか?)

 その疑問は彼の胸の内に重く残った。一方、雷蔵は唇を噛みしめながら、苛立ちをあらわに刀堂を睨んだ。

「だから言ったろうが」

 彼の声は怒りに震えていたが、目の前の重傷者たちの消耗した姿を見て、吐き出そうとした言葉を飲み込んだ。雷蔵もまた、戦士としてこれ以上彼らを責めることはできなかった。蜘手はキャンプの中心部をゆっくりと歩き回りながら、唇に苦い笑みを浮かべた。彼は皮肉っぽく隊員たちに言葉を投げかける。

「随分と派手にやられたもんだな。これだけやられてまだ生きてるってのは、流石に感心するぜ」


 隊員たちは悔しげに顔を歪め、何も言わずただ唇を噛むばかりだ。蜘手は短く息を吐くと、再び真顔になって刀堂に向き直った。

「で、その怪異はどうなった?」

 問いかけられた隊員たちは一斉に視線を逸らし、誰もが黙ったまま力なく首を振った。その無言が意味することを、特対室の誰もが理解した。怪異はまだ終わってなどいない──むしろ、これからが本当の始まりなのだと。



4-4. 切札


 キャンプ地の外れで作戦立案を始めた蜘手の前に、唐突に一陣の風が吹いたかと思うと小さな影が現れた。それは室長が使役する、鎌鼬の式神だった。夜闇に目を光らせ、冷ややかな表情で蜘手を見上げている。

「主からの預かり物じゃ。中々に難儀な者ゆえ、時を要した」

 式神は口を開き、小さな依代を静かに差し出した。それは掌に収まるほどの小さな護符のようなもので、淡い霊的な光を放っていた。蜘手は軽く眉を寄せ、呆れたような表情を浮かべながらもそれを受け取った。

「随分と都合よく出てくるもんだな。ま、切り札にはなるかもな」

 彼はそう呟いて依代を懐にしまい込んだが、その瞳には拭いきれない不安の色が混じっていた。灯里は隣でそのやり取りを黙って聞いていたが、思い切ったように鎌鼬へ問いかけた。


「あの怪異──姦姦蛇螺について、室長は何かご存じなのですか?」

 鎌鼬は一瞬だけ瞳を細め、不気味な含み笑いを漏らした。

「さあな、主の考えることは儂等にも計りかねる。しかし禍神の呪詛、特に裏返ったやつは難儀じゃぞ」

 その言葉を残し、鎌鼬は再び一陣の風に溶け込むように姿を消した。蜘手はため息をつきながら頭を掻いた。

「やれやれ、室長は今回の事態を楽しんでる節があるぜ。全く、人の苦労も知らずに……」

 灯里はそれを聞き、不安げに視線を落とした。室長の思惑がどうあれ、今の状況が彼らにとって深刻であることに変わりはない。彼女は自らの胸元を無意識に押さえ、そこに刻まれた巫女の絶望と悲しみを再び感じ取っていた。闇は深くなり、そして確実に、刻一刻と特対室の周囲に迫りつつあった。



4-5. 共闘


 夜闇は濃くなり、空気には依然として血と錆の臭いが濃密に漂っていた。キャンプの中央に置かれた仮設テーブルを挟み、特対室と斬鬼隊の刀堂は、沈痛な表情で互いを見つめ合った。刀堂の顔色は血を失って青白く、片腕を失った傷は処置されているとはいえ、赤く滲んだ包帯が痛々しく巻かれていた。それでも彼の眼光だけは依然として鋭く、深刻さに揺らぐことはなかった。


 沈黙を破ったのは灯里だった。彼女は静かに、しかしはっきりとした声で言葉を紡ぎ始める。

「姦姦蛇螺──その正体は、おそらく裏切られた巫女の悲しみと怨念に、大蛇の禍々しい存在が混じり合ったものです」

 灯里の言葉に、刀堂は眉を寄せたが、口を挟まず彼女の言葉を待った。

「巫女は人間の裏切りにより清浄から穢れへと反転しました。生贄として両腕を奪われ、人を呪ったその瞬間に、彼女自身が神の依代から禍神の依代へと反転してしまったのです。しかしそれでも尚、彼女の存在はいわばバランサーとして機能していた。そして今回の巫女の死が『生贄の儀式』となり、それが禍神の顕現を招いた──封印が完全に破壊された今、穢れが無尽蔵に溢れ続けています」

 灯里の声は静かで澄んでいたが、その言葉には重く沈んだ哀しみが滲んでいた。刀堂は重い瞼をゆっくり閉じ、一瞬だけ何かを噛み締めるように沈黙した。


 刀堂は、灯里の言葉を聞き終えてもすぐには返さなかった。仮設テーブルに片肘をつき、包帯の隙間から滲む血の匂いをかすかに感じながら、静かに息を吐いた。

「……禍神の依代、だと?」

 その声は低く、まるで喉の奥で呪詛を転がすかのような濁りを孕んでいた。

「村人の命を奪い、我が隊を嬲った怪異が──元は哀れな巫女だったというのか」

 灯里は黙って頷いた。「だから何だ」と刀堂は唸るように言った。

「哀れみで怪異が消えるなら、俺たちは剣など持たん。神だろうが禍神だろうが、するべききことは一つ」

 彼の瞳はまっすぐ灯里を捉えていたが、その焦点の奥には揺らぎがあった。無言のうちに、彼自身がその現実と葛藤しているのが透けて見える。戦うための論理が、目の前の真実にひび割れを起こし始めている。「だが……」と、刀堂は続けた。

「これだけの恩寵を投じても、奴は滅びなかった。神炎を弾き、神雨すら糧に変えた。腕を断ち切っても、動きは衰えないどころか傷すら負わなかった」

 彼は一拍、唇を噛む。

「──ならば、殲滅は非現実的ということか」

 もはや問いではなかった。ただ、自らに言い聞かせるような確認のようなものだった。灯里はそれに対し、静かに答える。

「はい。倒すのではなく、封じるしかありません」

 刀堂はしばし沈黙し、そして左手で自身の左肩を触れた。その先にはもう腕はない。ただ、そこに残された穢れの余韻だけが、じわじわと疼いていた。


「……なら、俺の腕を使え。まだ落ちているだろう」

「は?」

「奴と最も近い位置で接触し、穢れを浴び、呪的な繋がりを得た。贄として使えばより強い封印を構築できるだろう」

 雷蔵が目を見開き、言葉を失った。

「……イカれてるな、お前」

 だがその呟きに、刀堂はにやりと笑った。あくまで静かに、自嘲すらも呑み込んだまま。

「俺たちは命を賭して命令を遂行する。それだけだ」

 その目に宿った光は、敗北でも諦念でもなかった。ただ、受け容れることしか残されていない者の冷ややかな覚悟だった。

「いや──悪くない」

 隣で話を聞いていた蜘手は、軽く眉を上げながら即座に返した。蜘手は薄い笑みを浮かべながら頷いた。狂気じみた提案ではあるが、確かに有効な策だったからだ。刀堂が捧げる腕──呪的繋がりのあるその肉体を依代として、禍神を再び封じる可能性があるならば、ためらう理由はどこにもなかった。キャンプを包む重い空気の中、誰もが無言で頷き合った。


 ──それは人間の領域を超えた禍神への挑戦であり、生贄を伴った再びの儀式だった。この決定が何をもたらすか、まだ誰も知らない。だが特対室と斬鬼隊の間には、今初めて共通の覚悟が芽生えていた。禍神との再度の対決へ──それぞれが胸の奥に深く秘めた決意を携えて。



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