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CASE:009-1 姦姦蛇螺

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

1-1. 封印


 夜は、あまりにも深く村を覆っていた。静かすぎるほどの闇が、息をひそめる山間の村を濃密に包み込み、そこに暮らす者たちは皆、まるで世界から孤立したかのような奇妙な孤独感にさいなまれていた。

 村人たちが最初に気づいた異変は、夜半過ぎのことだった。まず、山裾の家に暮らす母親が、眠りの浅いまどろみのなかで、遠く、けれどはっきりと響く子供の笑い声を耳にした。初めは夢だと思った。だが、その声は次第にくっきりと現実の輪郭を帯び、やがて鋭い悲鳴へと変わり、母親は胸騒ぎを抱いて跳ね起きた。


 家を飛び出した母親の視界に映ったのは、外灯のない狭い路地に転がった、赤い、小さな腕だった。

 その腕は、かろうじて人の形をとどめながらも、あまりに無造作に放置され、まるで人間のものであることを拒むかのように歪に折れ曲がっていた。母親は我が子の名を叫ぼうとしたが、喉から出たのはひしゃげた嗚咽だけだった。


 警察が到着したのは、それから約一時間後のことだ。

 だが、山道を登ってきた若い巡査が見たのは、虚ろな表情で座り込み、腕を抱えて揺れている母親の姿だけだった。その腕は小さく、血液はすでに黒ずみ、もう温かくはない。巡査は震える手で無線を掴みながらも、目の前の光景が現実とは認められず、薄く汗ばんだ掌を何度も制服で拭った。


 事件はその夜を境に加速度的に悪化した。

 子供だけでなく、村人が一人、また一人と姿を消しはじめ、ついには現場を捜索していた警察官までもが消息を絶つようになった。行方不明者は増え続けるばかりで、捜査は早々に難航を極めた。

 警察はやむなく村を封鎖した。峠道にはバリケードが築かれ、物々しい表情の警官たちが無言で佇む。村は外界から完全に孤立したのだ。


 その封鎖された村に、老いた民俗学者が静かに足を踏み入れていた。

 彼はかつて、この村に伝わる古い伝承を調べるため何度も訪れた経験があった。伝承は、決して人々が口にしてはならない禁忌の名を抱えていたが、今やそれは村の老人たちの記憶からも、若者たちの意識からもほぼ消え去っているはずだった。


 だが、現場の惨状を目の当たりにした瞬間、老人の背筋に冷たい戦慄が走った。現場には血の臭いと共に、濃厚な腐敗臭が漂い、乾いた血痕が不吉な文様のように地面を彩っている。その中心に、かつて村の封印に用いられたであろう破壊された木箱と、そこに刻まれた象徴的な紋様が露わになっていた。


 老人は震える指でその紋様をなぞり、小さく首を振りながら呻いた。

「……封印が、解けたか」

 老人の唇が、絶望に震えながら小さく動いた。

姦姦(かんかん)蛇螺(だら)が……」

 その瞬間、夜の闇はさらに深く、さらに濃く、彼の背後で音もなく蠢きはじめていた。



1-2. 不穏


 都内の空は曇天に沈み、今にも雨の降り出しそうな湿った空気が街全体をどこか重苦しく覆っていた。

 警視庁本庁舎に人知れず存在する『特異事案対策室』のオフィスは、季節感など存在しない蛍光灯の冷たく無機質な光に包まれていた。壁際に並ぶ古びたスチール棚には、薄く埃をかぶったファイルや怪異の断片が収められ、あちこちに置かれたパーティションが人影を曖昧に区切っている。


 南雲(なぐも)美優(みゆ)はため息を吐き出しながら、机に広げた数学の参考書とノートをぼんやり眺めていた。もうすぐ定期テスト、にもかかわらず召集がかかったのだ。「また休日出勤?」と漏れた独り言は、誰にも答えられることなく空しく宙に消えた。美優はシャープペンシルの先端で参考書を意味もなく叩きながら、「赤点取ったら補償手当とか出るのかなぁ」と呟く。言ってから、そんな甘いことがあるはずもない、と美優は自嘲的に口元を歪めた。


 彼女の呟きを耳にした葦名(あしな)透真(とうま)は、薄い銀縁の眼鏡越しに一瞬だけ美優の姿をちらりと見たが、すぐに視線を前へ戻した。彼の前には小さな黒猫の姿をした室長の式神がちょこんと座り、まるで生きた猫のように尾をゆったりと揺らしながらこちらを見上げている。式神は特対室の室長が操る術式の一つで、室長自身の姿を直接見た者は誰もいない。常に小動物の姿をした式神が代理として指示を伝えるため、室長の存在自体が都市伝説じみていた。


 式神の金色の瞳がゆっくりと細まり、抑揚のない穏やかな声が部屋に響いた。

『封印されていた姦姦蛇螺という怪異が目覚めた。すでに複数の犠牲者が出ている』

 姦姦蛇螺。その奇妙な名前を耳にした瞬間、美優はかすかに眉をひそめて顔を上げた。禍々しい響きをもったその言葉に、脳裏を小さな悪寒が走り抜けていくのを感じる。

「さらに、防衛省からの介入も決まった。陸上自衛隊第零特別戦闘群……通称、斬鬼隊との合同任務となる」

 透真の目がわずかに見開かれ、いつも冷静な彼の瞳に珍しく不安の翳りが浮かぶのを美優は見逃さなかった。美優は内心でため息をつく。

「自衛隊? 面倒くさそう……」

 透真は静かに頷くように軽く首を振り、思考を整理しながら即座にパソコンへと向き直った。彼の指先はキーボードの上で慣れた動きを見せ、ディスプレイに次々と情報が展開されていく。彼は淡々と情報収集を始めながらも、胸の奥に湧き上がる微かな胸騒ぎを完全には消し去れないでいた。


 少し離れた場所にいた久世(くぜ)灯里(あかり)は、姦姦蛇螺という名を聞いた瞬間から静かに目を伏せて何かを考え込むようにしていた。その端整で穏やかな顔には、普段の柔らかい笑みが消え、どこか冷え切ったような薄い緊張が漂っている。灯里はそっと自分の胸元に手を置き、半ば無意識のうちに自らの境界を探るような仕草を見せた。

 ──この名前には覚えがある。意識の奥底で囁く声に導かれるように、灯里はゆっくりと席を立ち、書庫の奥へと足を向けた。古く閉ざされたままの棚に収められた特対室の事件ファイル。そのうちの一冊が彼女を呼び寄せるように存在を主張していた。


 薄暗い書庫の中で、灯里の指先が古いファイルの背表紙に触れる。その瞬間、微かな埃が舞い上がり、彼女は慎重な動きでそれを手に取った。部屋に流れる不穏な静けさがさらに深まり、誰も口を開かなくなった特対室のオフィスは、まるでこれから訪れるであろう惨劇を予感するかのように、不気味な静寂に包まれていった。



1-3. 道中


 特対室の使う大型の黒いワゴン車は鉛色の空の下、音もなく高速道路を滑るように進んでいく。車窓の外では単調な景色が延々と流れ続けていたが、車内にはそれ以上に単調な沈黙が広がっていた。

 運転席でハンドルを握る(とどろき)雷蔵(らいぞう)の視線は、前方の道路を睨むように捉えて動かなかった。アクセルを踏む彼の右足には微かな苛立ちが伝わっており、それを隠そうともせず、時折大きな手でハンドルをぎゅっと握り直している。雷蔵はかつて警視庁機動隊に所属していた過去を持ち、根っからの現場主義者であった。だからこそ、斬鬼隊という未知の存在が今回の事件に絡むことを、内心穏やかには受け入れられないでいる。


 彼の隣の助手席では、蜘手(くもで)創次郎(そうじろう)が煙草を指先で弄びながら、口元に薄い皮肉めいた笑みを浮かべている。彼は元公安という経歴を持ち、飄々とした態度の裏に、複雑な権謀術数を見透かす鋭さを隠し持っていた。

「自衛隊の連中と組むなんざ初めてだな。相当厄介なのかねぇ」

 蜘手は煙草を口元にくわえ、火は点けぬまま意味もなく窓の外を眺めながら呟いた。

「問題は、あいつらが怪異の扱いを分かってるかだ」

 雷蔵が低い声で応じた。わずかに苛立ちを孕んだその口調は、自衛隊員の姿すらまだ見ぬうちから既に信頼できぬと判断しているかのようだ。すると蜘手が軽く肩を揺らし、面白がるように返した。

「お前だって、大概ぶっ飛ばすだけだろ」

 後部座席で参考書を広げていた美優がその言葉に思わず頷き、雷蔵がバックミラー越しに鋭く睨みつける。それを感じ取った美優は慌てて視線を逸らし、素知らぬ顔で参考書に目を落とした。


 車内に流れた気まずい空気をほぐすように、透真が軽く咳払いをした。透真は無愛想にも見える真面目な表情のまま、膝の上に置いた端末に目を通し続けている。彼の表情には常に冷静な分析力と、淡々とした事務的な気配が漂っており、感情を露わにすることはほとんどなかった。

「姦姦蛇螺──最後にこの名が現れたのは明治初期の文献です」

 静かな声が、車内に響いた。それは久世灯里だった。彼女は最後列の席で身体を窓側に預け、穏やかな表情のまま遠い景色に目をやっていた。灯里は視線を落としたまま、記憶の中に沈むように語り始める。

「伝承によれば、姦姦蛇螺はもともと生贄として捧げられた巫女の怨念が、土地で暴れていた大蛇の存在と融合したものだと言われています。ですが……」

 灯里の言葉は一瞬途切れた。その静かな沈黙に、美優は思わず顔を上げる。「ですが?」美優が小さく問い返した。灯里はわずかに目を細め、ためらうように言葉を選んでいる。

「封印されていた姿が、本来の姿ではない可能性があります。穢れを封じるために形作られたものなら、封印が破られた瞬間に、本来の姿……いや、本来よりさらに恐ろしいものが顕れるかもしれません」

 灯里の言葉に含まれた不吉な響きが、車内の空気をさらに重くした。美優は、無意識に手のひらに滲んだ冷や汗をそっと制服のスカートに擦りつけながら、平静を装って軽口を叩いた。

「巫女に大蛇に怨念とか、いかにも過ぎて、テストの問題に出てくれないかなぁ」

 冗談めかしたその口調に、しかし自分でも驚くほど不安が滲み出ていることに美優自身も気づいていた。


 蜘手はその会話を横耳で聞きながら、口元にくわえた煙草の先端を軽く噛み締めた。彼は、公安時代に何度も見てきた自衛隊が関与した事件を思い返していた。自衛隊が介入した特異事案は必ずと言っていいほど政治が絡み、現場は混乱し、真実はどこかに押し込められる。そして最後に犠牲になるのはいつだって現場の人間だった。


 蜘手は静かに目を閉じ、ふっと短い吐息を吐き出した。その吐息は窓の外の景色に吸い込まれるように消えていき、彼らを乗せた車は、暗い予感を振り払いながら、徐々に深い山間部へと吸い込まれていった。



1-4. 斬鬼


 村に近づくにつれて、景色は次第に色彩を失っていくようだった。特対室の車両が到着した臨時キャンプ地は、村の外れに広がる鬱蒼とした森の中にひっそりと設営されていた。キャンプ地は、軍隊らしく整然と並べられた大型テントと重厚な迷彩柄の車両が並び、隊員たちが機械的な動作で慌ただしく動き回っている。まるで外界から切り離された小さな軍事基地のようだった。

 車を降りた特対室メンバーを迎えたのは、一人の若い男だった。彼は一分の隙もない軍服姿で背筋を伸ばして立っていたが、その切れ長の瞳からは、冷ややかで警戒心を隠さない光が静かに放たれている。

「第零特別戦闘群、隊長の刀堂陽真(とうどうはるま)だ」

 短く告げた声は、礼儀正しい響きを持ってはいるが、どこか酷薄で、必要最低限の挨拶以外の言葉を許さぬ圧が含まれていた。刀堂の視線は特対室面々の姿を素早く値踏みするように動き、やがて葦名透真と視線が交錯すると、わずかに瞳を細めた。

「姦姦蛇螺に関する情報はすでに共有済みのはずだ。こちらとしてはこれ以上、互いの手の内──恩寵を晒すような真似は避けたい。我々の戦術的行動に対しては余計な口を挟まず、あくまで君達の出来ることでサポートに徹してもらいたい」


 刀堂の言葉はまるで鋭利な刃のように、特対室面々の心を冷たく切り裂いた。その言葉を聞いた途端、雷蔵の表情が険しく歪み、無意識に拳が強く握りしめられた。

「サポートだと? 怪異ってもんを相手にしたことがあるのかも怪しい連中が、いったい何を分かったつもりで──」

「──隊長の言った通りです」

 雷蔵の怒りを遮るように、別の鋭い声が割り込んだ。振り返ると、刀堂の背後に一人の青年が立っている。

「火野、今は私が話している」

 火野と呼ばれた隊員──火野篝(ひのかがり)は、どこか狂信的な色を帯びた眼差しで雷蔵を睨みつけていた。火野の瞳はまるで焼け付く炎のように揺らめいており、その声には微かな熱情が混じっていた。

「いえ、こいつらに言わせてください。怪異は殲滅対象、それ以外の選択肢はありません。中途半端な対処は新たな犠牲を生むだけです」

 火野の声はあまりに決然としており、その狂信じみた口調に、場の空気はさらに緊張を帯びていった。雷蔵は一層強く奥歯を噛みしめ、肩が怒りで震え始めるのを自覚していた。車中で感じていた苛立ちが、一気に爆発寸前まで膨れ上がる。


 その緊迫した空気の中、透真がそっと前に進み出る。彼はいつも通り淡々とした表情で、冷静に状況を俯瞰していた。

「まずは、状況を共有して、合理的な方法を──」

「合理的?」

 火野が短く笑った。その笑みには嘲弄とも侮蔑ともつかない色が滲み出ている。透真は一瞬口をつぐみ、眼鏡の奥で目を伏せるようにして感情を抑え込んだ。凍りついたような空気が場を満たしたその時、透き通った穏やかな声がその空気を静かに切り裂いた。

「まずは状況を見て判断しましょう」

 灯里が静かに微笑みながら告げると、その柔らかい声音と存在感が、鋭く張り詰めていた場の空気をゆっくりと溶かし始めた。彼女の声には不思議な響きがあり、相手の強張った心を和らげる力があった。

 刀堂はわずかに視線を灯里に向け、感情の読めない瞳で数秒間見つめた後、短く息を吐き出した。

「好きにすればいい。だが、作戦行動は我々が決める。それだけは忘れないでほしい」

 刀堂は冷たい表情のまま踵を返し、火野もまた鋭く特対室メンバーを一瞥すると、隊長の背中に続いて歩き去った。


 残された特対室面々はその場でしばらく黙り込んだ。美優は胸の内に湧き上がる不安を押し殺そうと、小さく息を吐き出した。ふと視線を感じて振り返ると、灯里がどこか寂しげな目で、刀堂らが消えた方向をじっと見つめていた。

 その視線の先には、今まさに彼らが対峙するであろう「何か」の存在を暗示するかのような、不吉に揺らめく森の闇が広がっていた。



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