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CASE: EX 自販機の怪

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

1. 七不思議


 都立S井高校の9月の午後は、まだ真夏の名残を惜しむように蒸し暑かった。教室の窓は開け放たれているが、そこから流れ込む風は生ぬるく、蝉の鳴き声だけが弱々しい名残を惜しむように響いている。

 南雲(なぐも)美優(みゆ)は机に頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。だるさに身を任せ、教室のざわめきを遠い雑音のように聞き流す。まだ暑いのに、暦のうえでは季節はもう秋だ。日差しは色褪せ始め、放課後の教室は少しずつ赤みを帯びた西日が差し込み、床や机の上に淡い影を落としている。


「あれ知ってる? 自販機の怪ってやつ」

 ふと耳に飛び込んだその言葉に、美優はちらりと視線を動かした。教室の中央、数人のクラスメイトが楽しげに輪を作り、他愛もない怪談話に花を咲かせている。

「それ、七不思議の一つでしょ。聞いたことある」

「なにそれ?」

「なんかさ、冷たい飲み物のボタン押したのに、温かい飲み物が出てくることがあるんだって」

「え、それただの業者さんの設定ミスじゃない?」

 美優は興味なさげに一蹴して、また視線を窓の外に戻した。七不思議と言っても、そんなものだろう。だいたい、うちの高校って、そんなオカルトが流行るほど歴史がある学校だったっけ?と、半ば呆れながらも少し面白く感じる。


 しかし美優のそっけない言葉に反応したのは、別のクラスメイトだった。

「でもさあ、それが変なんだよね。同じの買ってもその時温かかったの、その1本だけだったって話もあるよ」

 美優はちらりと再びクラスメイトを見たが、追及する気力はなかった。

「ふーん」

 どうせよくある噂話だろうと、美優は心の中でそっと呟き、ふわあと軽いあくびを一つ漏らした。時計の針がゆっくりと午後四時を指そうとしていた。今日は特対室にも行かなくていい。


 ──社畜の休息。

 放課後の気だるさは、まだしばらく続きそうだった。



2. あたたかい紅茶


 翌日の放課後は、相変わらず夏の熱が教室を支配していた。南雲美優は制服の襟元を手のひらでパタパタと煽りながら廊下を歩いていた。残暑の陽射しが窓を通して差し込み、床に細長い影を伸ばす。つややかな校舎の廊下には午後のけだるさが染み込んでいて、美優は何気なくその空気を吸い込み、吐き出した。

 喉が渇いていた。ふと、自販機の並ぶ角を曲がったところで足を止めると、彼女は財布を開いた。小銭を確認すると、指先が自然に「正午の紅茶」のボタンへ伸びる。商品名のあまりのピンポイントさが、むしろ愛おしくすらある。午前でも午後でも許さない、まさに『正午ジャストに飲め』と言わんばかりの気骨が妙にかわいい──少なくとも美優はそう思っていた。


 ごとり、と小気味よい音と共にペットボトルが落ちてくる。美優はそれを手に取った瞬間、眉を寄せた。掌に伝わる明らかな温もり。

「え……? うそ、業者さん設定間違えてるじゃん……」

 思わずため息混じりの呟きを漏らし、がっかりと肩を落とした美優の後ろから、クラスメイトの女子が小銭を持って近づいてきた。彼女は何気なく同じボタンを押し、ゴトンと音を立ててペットボトルが落ちてくる。手に取ったそのボトルは見るからに涼しげな水滴をまとっていた。

「ん? あっちのは冷たくない?」

 美優は思わず二度見した。直後、言いようのない不安と妙な高揚が胸を駆け巡る。慌てて自分が手にしたボトルをじっと観察する。よく見ると、いつものデザインと違っていることに気づいた。

「あれ……? デザイン違くない? 午前の紅茶? ってか、なにこれ、いくらなんでもアフタヌーンティーに牙を剥きすぎでしょ……」


 ペットボトルのロゴは微妙に丸みを帯びて、キャップの模様も繊細なラインに変わっている。よく見ると、メーカー名さえも僅かに異なっていた。何かの冗談かと思った美優は、慌てて先の女子生徒を捕まえて、その手にあるボトルを見せてもらう。

「ねぇ、その紅茶見せて?」

「あ、うん。別にいいけど……何?」

 しかし、彼女の手にあるそれは、間違いなくいつもの「正午の紅茶」だった。キャップの模様も、ロゴのフォントも見慣れたもので、メーカー名もいつもの「サンジャリア」だ。明らかに、美優の手にあるものとは違う。混乱と好奇心の入り交じった気持ちが、美優の心にさざ波を立てる。

「は……? これって、マジで七不思議のやつ……?」


 唖然としながらも、美優は握りしめた温かな「午前の紅茶」を無意識にぎゅっと胸に押し付けていた。



3. 正体不明


 放課後、美優は警視庁に隠された特異事案対策室──特対室のオフィスを訪れていた。薄暗い照明のもと、モニターの青白い光だけがぼんやりと室内を照らしている。いつ来てもどこか薄気味悪い場所ではあるが、美優はそんなことをもう気にも留めない。日常と非日常の境目が曖昧なこの空間に、美優は馴染みつつあった。

 デスクの向こう側で、葦名透真がペットボトルを手に神妙な顔をしている。彼はそのボトルを透かすように見つめた後、小さくため息をついて首を振った。

「何かわかりました? 透真先輩」

 美優が興味津々で問いかけると、透真は軽く肩をすくめた。

「……いや、俺の『透視』でも特に妙なエネルギーの痕跡は見えなかった。念のため科捜研の機材で分析もしたが、成分も素材もごく普通の紅茶としか言えないな」

「そうなの? でもこれさ、バーコードが企業に割り当てられてない番号だったんですよね?」

 美優はやや食い下がった。透真は静かに頷いて、モニターに映る解析結果を目で追いながら言葉を継ぐ。

「ああ、そのとおりだ。それに、このメーカーも商品名も、ネット上のどこを探してもまったく見当たらない」

 美優は自分の前に置かれた、あの奇妙なペットボトルを見つめる。ロゴのフォントもキャップの模様も、記憶の中の「正午の紅茶」とは明らかに異なっている。妙な既視感が、背筋を軽く撫でた。


「存在しないって……どういうこと?」

 ふと、無意識に口からこぼれ出た疑問に、誰も答えを返せなかった。

 特対室にしばしの静寂が訪れる。その静かな沈黙を破ったのは、やがて美優自身だった。

「でも、まぁ、有害じゃないなら飲んでも問題ないでしょ」

 彼女は軽い調子でペットボトルを開封すると、透真や隣で穏やかに状況を眺めている久世灯里の前で、ほんの少しだけ紙コップに液体を移し、口に含んだ。瞬間、美優の目が大きく見開かれる。

「……なにこれ、うまっ! ペットボトルなのになんか高級紅茶専門店みたい!」

 思わず感嘆の声を上げると、透真と灯里も興味深そうに美優を見つめた。灯里は小さく笑みを浮かべている。

「そんなに美味しいの?」

 灯里が問いかけると、美優は得意げに頷いてボトルを差し出す。

「マジですよ、灯里先輩も飲んでみてください!」

 透真も興味をそそられたのか、横から伸ばした手でボトルを受け取り一口分紙コップに移し飲んだ。普段あまり感情を表に出さない透真の眉が、ほんの僅かに動く。

「……確かにこれはうまいな。だが科学的には普通の紅茶でしかないはずだが」

 灯里も口に運び、小さく頷いて目を細めた。

「味覚は個人差があるけど、こういう偶然が重なると不思議ね」

 美優は、再び手元に戻ったボトルを楽しげに指でつつきながら、悪戯っぽく微笑んだ。

「じゃあ透真先輩、これのレシピ開発して一山当てよ!」

 透真はあきれたように、美優の言葉を即座に切り捨てた。

「……俺は鑑識であって紅茶ソムリエじゃない」


 結局、特対室メンバーが掴んだ結論はただ「美味しい」ということだけだった。科学的にも怪異的にも特に異常が見つからず、ペットボトルは再び美優の鞄にしまわれることになった。

 自宅に帰った美優は、特に何も気にすることなくベッドの上でゴロゴロと横たわり、漫画雑誌のページをめくっていた。淡い夕暮れの光が窓から差し込み、部屋全体を温かなオレンジ色に染めている。新連載のページに目をやった美優は、ぼんやりと呟いた。

「新連載もまた異世界ものかぁ……流行ってるよねぇ」

 ページの中では主人公が並行世界に迷い込み、自分の知る世界とは微妙に違う商品のデザインや味に戸惑う描写が描かれていた。自分の体験と重ね合わせて、思わず苦笑が漏れる。

「まさかね……」

 美優は漫画を閉じたが、その漫画の設定がどうにも頭から離れなかった。妙に引っかかる──彼女の中に静かに波紋が広がり続けていた。


 翌日、美優は再び特対室を訪れていた。前日の漫画の描写が心に残っていた彼女は、ふと気になり透真に話しかける。

「あのさ、このあいだ漫画で読んだんですけど、並行世界って本当にあるのかな?」

 透真は手元の資料をめくりながら、軽く目を伏せて考えを巡らせた後、ゆっくりと口を開く。

「ま、量子論的には否定できないかもな」

 その言葉に、美優の隣にいた灯里が意外にも真剣な面持ちで反応する。

「もしかして本当に並行世界の品物、という可能性も否定できないね」

 灯里の微笑はいつも通り穏やかなのに、どこかミステリアスな含みを帯びていた。透真もまた頷き、淡々と説明を加えた。

「ありえなくもない。次元境界の偶発的なゆらぎで、異なる世界の物質がこちら側に現れる事例は、過去にも僅かながら報告されてる。過去の特対室の資料にも、異世界エレベーターだとか似たような怪異が記録されている」

 美優の目が一層大きくなる。

「マジであるかもってこと? やば……」

 冗談めかして呟きながらも、美優の心臓は早鐘のように胸の奥で響いていた。



4. その頃


 結局、特対室では謎の紅茶の正体をいまだ「極上の味わいの紅茶」としか解明できずにいた。一度灯里と透真が業者を装い自販機を調べてみたが特に異常は見つからず、恐らく出てくる瞬間を捉えないとわからないだろう、ということだった。いかなる分析機器をもってしても、ただの紅茶としか判定されない。特に害がないのならそこまで労力をかける時間もない。未知の成分も毒性も、特別なエネルギー反応もないならば、対処の必要はなし──という結論が下されてしまった。

 しかし、美優にとってはそんな顛末はどうでもよかった。むしろ、「美味しい飲み物が当たるかもしれないガチャ」の登場により、これまでの学校生活に小さな楽しみができたことの方がずっと重要だった。


 それからというもの、美優は毎日放課後になると、校内の自販機の前に立つようになった。銀色の硬貨を入れる度に小さな胸がドキドキと高鳴る。果たして今日出てくるのは、ありふれた「正午の紅茶」か、それとも別世界から届く「午前の紅茶」か──。

 そんな日々を続けていたある日の放課後。空はもうすっかり高くなり、金木犀の香りが校庭を優しく包み込んでいた。

 自販機の取り出し口に落ちたボトルを掴んだ美優は、その熱を感じた瞬間、ぱっと表情を輝かせた。

「よっしゃ、またきた!」

 小躍りするように足踏みをしながら、その不思議なボトルを手にする。ほんのり温かな「午前の紅茶」──その細やかなフォントもキャップのデザインも、もうすっかり見慣れたものになりつつあった。美優は楽しげにペットボトルを抱きしめ、小さな笑みを浮かべて呟く。

「こっちの世界の商品も、あっちの世界に行ってたりしてね」


 ──その頃、並行世界(?)の都立S井高校では。

 「南雲美優」が、自販機の前で軽く眉をひそめていた。彼女はこちら側の美優よりほんの少しだけきちんとしていて、服装も髪もさっぱりと整えられている。整然とした廊下に差し込む午後の陽射しは穏やかで、どこか清潔感に満ちていた。

「え、なにこれ……『正午の紅茶』? いくらなんでも商品名ピンポイントすぎでしょ……」

 彼女は困惑気味に呟き、見慣れないボトルをじっと睨みつけた。本来なら手の中には「午前の紅茶」──その尖ったネーミングが、アフタヌーンティーに真っ向から牙を剥くような反骨精神がかわいくて気に入っている──があるはずだった。


 しばし悩んだあと、キャップを開け、一口だけ口に含んでみる。途端、彼女の表情があからさまに微妙なものへと変化した。

「うわ、なにこれ……微妙すぎる……会社名も聞いたことないし、味も薄いし香りも弱いし、これ本当に紅茶?」

 あまりの困惑ぶりに、近くを通りかかったクラスメイトが不思議そうに声をかけてくる。

「美優ちん、どうしたの?」

「なんか、自販機から変な飲み物出てきた」

 並行世界の美優は困ったように唇を尖らせ、もう一度ペットボトルをまじまじと見つめる。


 その同じ瞬間に──。

 元の世界の美優は、ごくりと「午前の紅茶」を美味しそうに飲み込み、満足げにうっとりとした笑みを浮かべていた。

 二つの世界で、美優が全く対照的な表情を浮かべている光景が、まるで合わせ鏡のように重なっていた──。




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