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CASE:008-3 青い靴の人

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

3-1. 広がる違和感


 それから数日。蜘手と美優のズレは、さらに広がり続けていた。日常の中に、確かにあるはずだったものが、少しずつ変わっていく。記憶は確かに自分のもののはずなのに、それを裏付ける現実が違っている。例えば──。

「ハイボール、お待たせしました」

 馴染みの居酒屋で、蜘手の前に置かれたのは、琥珀色の液体が氷とともに揺れるグラスだった。彼は、わずかに眉をひそめる。口の中が、すでにビールの苦味を期待していた。けれど、グラスにゆれる琥珀色を見た瞬間、喉がその味を拒絶する気配を見せた。

「……いや、俺、瓶ビール頼んだよな?」

 店員は首を傾げた。

「え? いつも通り、ハイボールですよね?」

 違う。蜘手はいつもここでは瓶ビールを頼んでいる。そのはずだった。だが、思い出そうとすると、そのいつもという確信がぼやける。まるで、長い間そうしてきたつもりが、最初からそうではなかったように──。

「……マジかよ」

 蜘手はため息をつき、ハイボールのグラスを引き寄せた。それが今の現実だというなら、認めるしかない。


 一方、美優もまた、似たような違和感に囚われていた。

「クロワッサン、ひとつお願いします」

 学校帰りに立ち寄った馴染みのパン屋。レジでいつものように注文すると、店員はきょとんとした顔をした。

「え……?」

「え?」

 不思議そうな顔をする店員に、美優も戸惑う。

「クロワッサン、いつものやつ……」

「うち、クロワッサンなんて扱ったことないですよ?」

 まるで自分の記憶だけが嘘だったかのような……そんな眼差しだった。店員の声が、優しいのに突き放すように冷たく感じた。

「そんな……。だって、何度も買ってたのに……」

 だが、美優はそこで言葉を詰まらせた。確かに「いつも」食べていた気がする。でも、それを裏付ける証拠がない。

「……すみません。お騒がせしました」

 どうしようもなくなり、美優は店を後にした。パン屋を出たあと、スマホの画面をぼんやりと眺めながら、呟く。

「……やっぱり、おかしい」



3-2. 人生


「案外……洒落にならねぇな」

 特対室のデスクに足を投げ出しながら、蜘手は低く呟いた。目の前には、いつものように書類や調査資料が広がっている。だが、どこかその光景も違うものに見えた。


 本当に、これは俺の人生だったか?

 違和感は、小さなことから始まった。極めて地味なものだ。だが、それが積み重なるごとに、何が本当で何が偽物なのかが分からなくなっていく。

「ねぇ、創次郎さん」

 向かいの席で、美優が腕を組みながら顔を上げる。

「『どうでした?』って、何を確かめたかったんでしょうね?」

 蜘手は、天井を見上げるようにして息を吐く。

「そうだな……宝くじの当選番号くらい知りてぇよ」

 だが、美優の言葉に、彼はもう一度考えを巡らせた。昨夜の夢。闇の中で、問われた言葉。

「どうでした?」

 あの問いかけは、一体何を意味しているのか。ふと、これまでの情報を整理していると、ある一つの仮説が浮かび上がってきた。



3-3. 選択


 青い靴の人は、人生の選択を迫られた人間に現れる。そして、夢の中で「どうでした?」と問われる。

「……もしかすると、あれって『お前の選択、本当に正しかったのか?』って問いかけなんじゃねぇか?」

 美優は驚いたように顔を上げた。

「選択……?」

「ああ」

 蜘手は、無造作に机の上のファイルを指で弾く。

「夢の中で、俺たちは答えられなかった。でも、もしあのとき、自分の選択が『間違ってなかった』って胸を張って言えたら──青い靴を履かずに済んだのかもしれねぇな」

 美優は、しばらく考え込んだ。

「でも……そんなふうに、自分の選択が絶対に正しかったなんて、言い切れる人っているのかな?」

「そんなやつ、いるわけねぇよ。選択を100%正しかったって言える人間なんて、神様か小説の主人公くらいだ」

 蜘手は苦笑した。人生の選択というものは、どんなに自信があっても、どこかで「これでよかったのか」と迷うものだ。誰もが「本当にこれでよかったのか」と問い続ける。だからこそ、青い靴の人は……終わらないのではないか──。

「結局、誰も『これで正しかった』って言い切れねぇから、怪異は続いてんだよ」


 美優は、口をぎゅっと引き結んだ。

「じゃあ……もし誰かが答えを見つけられたら、この怪異は消えるんでしょうか?」

 その言葉に、蜘手は静かに肩を竦める。

「……どうだろうな」

 だが、それを成し遂げるのは簡単なことではない。誰が、自分の選択を完全に「正しかった」と言い切れるだろう? 誰が、後悔なく生きていると言えるだろう?

 この怪異は、ただの呪いや怨念ではない。それは、人間の持つ迷いそのものなのだろうか。そして──もしこのまま放置すれば、蜘手と美優もまた、完全に「別の道」へと引き込まれてしまうのだろうか。


 青い靴の人の謎を解くためには、正しい答えを見つけなければならない。



3-4. 勘


 特対室の室内に、静寂が満ちていた。資料を広げたデスクの前で、蜘手は腕を組み、じっと画面を睨んでいる。美優は隣で同じく資料を追い、ページをめくる音だけが小さく響いていた。

 ──青い靴の人の発生源。それを探るため、特対室が持つ過去の怪異関連の報告書を改めて洗い直していた。だが、どれだけ調べても、青い靴の人に直接繋がるものはない。あまりにも痕跡が薄すぎる。だが──

「ちょっと、これ見てみろ」

 蜘手の指が、ある報告書の一文を指し示した。美優が画面を覗き込み、そこに書かれた情報を目で追う。──半年前、一家三人が乗った車が事故に遭い、父親だけが生き残った。

「……事故?」

 美優が眉を寄せる。

「ああ。生き残ったのは、父親の田嶋(たじま)圭介(けいすけ)って男だけだ」

 事故現場は、青い靴の人の目撃情報が最初に出た駅の近く。偶然とは思えない一致。

「……この人の娘、私と同じくらいの歳だったんだ」

 美優の声が、微かに震える。蜘手は何も言わずに、煙草の箱を指で回した。

(ああ、そうだな……)

 父親だけが生き残り、娘と妻は帰らなかった。その事実だけで、男の人生はすべて変わってしまっただろう。蜘手はゆっくりと息を吐く。

「この人が、怪異の発生源……?」

 美優がぽつりと呟いた。彼女の指先が、僅かに震えているのが分かる。

「……間違いねぇ」

 蜘手は煙草を一本取り出し、指先で弄ぶ。

「青い靴の人の正体、多分こいつだ。娘を喪った父親の未練。娘に自分の選択の後悔を問い続ける父親の心が、あの問いを形作ったんだ」

 あの事故のとき、父親は生き残り、娘は死んだ。それは覆せない現実。だが、その現実を受け入れられない男の心が、この怪異を生んだのだ。

 ──俺は、あのとき、正しい選択をしたのか?

 男はずっと、それを自分に問い続けていたのだろう。選択を迷い続ける人々が青い靴を履くのも、その影響だとすれば、辻褄が合う。

「こいつが、青い靴の人の発生源だ」

 証拠はない。だが、蜘手の勘がそう告げていた。たとえ青い靴の人の影響で人生の記憶がぼやけ始めても、研ぎ澄まされたこの勘だけは鈍らない。


 ──勘。それはもはや蜘手の行動原理の根幹を成すものだった。一度だけ、過去に選べなかった瞬間があった。その時から。選ばなかったことを後悔しないように、勘に従って生きてきた。間違いなく生きてきた過去の経験と直感から生まれる勘が、揺るぎない確信へと繋がっていた。

 このままでは、田嶋の迷いが消えない限り、怪異は拡がり続ける。彼が選択を肯定しない限り、青い靴の人の問いは終わらない。蜘手は、デスクの端で煙草を指で弾いた。

「美優くん、行くぞ」

 美優も、深く頷いた。



3-5. 街角


 夜の街に、街灯の淡い光が滲んでいた。蜘手と美優は、静かに歩を進める。目的の場所は、事故現場のすぐ近くの小さな公園。そこに、一人の男がいた。

 田嶋圭介──彼は街角のベンチに座り、ぼんやりと前を見つめていた。その視線の先には、かつて事故が起きた交差点がある。薄暗い街灯の下、彼は影のように沈み込んでいた。

 何かを考えているのか、それとももう何も考えられなくなっているのか。静かな夜風が、蜘手のコートの裾を揺らした。美優も、ゆっくりと後に続く。この男の迷いが、怪異を生み出した。ならば、それを終わらせる方法は──

(この男自身に答えを出させることだ。──今度は、俺たちが問いかける番だ)

 蜘手は、ポケットから煙草を取り出し、ゆっくりと咥える。そして火をつけ、そのまま咥えたまま田嶋へと歩み寄った。


 蜘手は、田嶋の横に立ち、低く声をかけた。

「……田嶋圭介、だろ」

 男は、わずかに顔を上げた。

 その目には、何の光も宿っていなかった。


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