CASE:008-1 青い靴の人
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
1-1. 噂
カフェのガラス窓には、夕暮れの赤い空が映り込んでいた。街の喧騒が遠くなり、店内にはコーヒーの香りとカトラリーが触れ合う微かな音がけが漂っている。都内のオフィス街にあるこのカフェは、仕事終わりのOLたちが小休止するにはちょうどいい場所だった。少し高めの値段設定でも、落ち着いたインテリアと適度な静けさが人気の理由だ。
「それでさ、聞いた? 最近話題になってる『青い靴の人』の話」
向かい合って座る二人の女性のうち、茶髪をゆるく巻いた方の女性がストローをくるくる回しながら口を開いた。
「青い靴?」
反対側の黒髪の女性が、カップを持ち上げながら首をかしげる。
「うん。最近、電車の中で広まってる噂。ちょっと怖い系のやつ」
「へえ、どんなの?」
「電車の中で青い靴を履いた人と目が合うと、その夜、夢に出てくるんだって」
茶髪の女性は、少し芝居がかった口調で言いながら、ストローを軽く噛んだ。
「夢の中では、その人が目の前に立ってる。でもね、足元は見えない。足元だけまるで靄がかかっているみたいにぼやけてて……って書いてる人もいた。で、その人が──」
彼女は不意に声をひそめ、低く呟くように続けた。
「たった一言──『どうでした?』」
「どうでした?」
「そう。それで、ちゃんと答えられなかったら……次の日の朝、目を覚ましたとき、自分が青い靴を履いてるんだって」
黒髪の女性は一瞬言葉を失ったあと、軽く笑った。
「何それ、夢の話でしょ?」
「まあ、そう思うよね。でも、実際にそうなったって人が結構いるみたいなの」
茶髪の女性はスマホを取り出し、画面を指でなぞる。
「ほら、ネットで『青い靴の人』で検索すると、実際に青い靴を履いてたっていう報告が何件も出てくるの。しかもね、ただのイタズラとかじゃないみたい」
「どういうこと?」
「みんな、自分が元々履いてた靴がどうなったのか分からないんだって。前の日までちゃんと別の靴を履いてたはずなのに、気づいたらなくなってて、代わりに青い靴を履いてる。しかもね──」
彼女は、スマホの画面を黒髪の女性の方に向けた。
「……なんとなく、おかしいんだって。言葉にしづらいくらい、些細な違和感」
「違和感?」
「うん。例えば──」
茶髪の女性はスマホを置き、手元のカフェラテを見つめながら言った。
「いつものコーヒーなのに、味が違う気がする。でも、店員には『変えてません』って言われるとか」
黒髪の女性は、無意識に自分のコーヒーカップを見つめた。
「常連の美容院で予約したのに、『初めてですよね?』って言われる。」
「え、それは……」
「それだけじゃないの。なんかね、自分の人生が少しずつ、違うものに変わっていく感じがするんだって」
茶髪の女性は、指先でテーブルの端をトントンと叩いた。
「最初は些細な違い。でも、少しずつ積み重なって……気づいたら、自分がどこにいるのか分からなくなる。」
黒髪の女性は、思わず身を縮めた。
「……それ、本当に?」
「噂ではね。でも、これがただの作り話なら、こんなにたくさんの人が同じこと言わないんじゃない?」
茶髪の女性はそう言うと、スマホの画面をスワイプし、さらにいくつかの記事を見せた。SNSの投稿、都市伝説系のブログ、匿名掲示板のスレッド──どれも、『青い靴の人』の体験談を語っていた。
「最近、この辺りの電車でも目撃情報があるんだって」
「やめてよ、通勤で使ってるのに……」
黒髪の女性は苦笑いしながらも、どこか落ち着かない表情を浮かべた。
「もし、本当に夢に出てきたらどうする?」
「……絶対、ちゃんと答える」
「でも、何を答えればいいのか分からなくない?」
「そうなんだよね……。だから、みんな答えられなくて、青い靴を履くことになるんだって」
会話が途切れた。二人はカフェの中の雑音をぼんやりと聞きながら、それぞれのカップを口に運ぶ。しばらくして、隣の席の椅子が引かれる音がした。
二人とも、何気なく視線を向けた。隣に座っていた男性客が立ち上がり、コートを整え、カフェの出口へと向かう。その足元が、ふと目に入った。
──青い靴。落ち着いたカフェの空気の中で、それは場違いなほど妙に鮮やかに見えた。茶髪の女性が、息を呑む。
「ねえ……あれって……」
黒髪の女性も、同じものを見ていた。さっきまでただの噂話だったものが、急に現実味を帯びる。男性は気づく様子もなく、そのままカフェのドアを押し開け、夕暮れの街へと消えていった。
二人は顔を見合わせる。茶髪の女性が、そっと呟いた。
「……まさか、ね」
しかし、胸の奥にわずかに残るざわつきが、そう簡単に消えてくれることはなかった。
1-2. 分析
「このエリアが発生源ってことか」
特異事案対策室オフィスで、蜘手創次郎は壁に貼られた都内の鉄道路線図を指でなぞった。蛍光ペンでマーキングされたいくつもの点が、都心のある区画に集中している。南雲美優は、テーブルに広げた資料を睨みながら、何度もページをめくる。葦名透真が様々な名目のアンケートを装い集めたデータを整理したものを照らし合わせ、手がかりとなる共通点がないか探す。
「……創次郎さん、ちょっと待って」
眉をひそめた美優が、手元のファイルを指でトントンと叩く。
「どうした?」
「この人たち……ほとんどの人が最近、何か大きな決断をしてます」
その言葉に、蜘手は視線を向ける。
「決断?」
「はい。例えば、この人は転職を迷っていたし、この人は長年付き合っていた彼氏と別れたばかり……。この人も、自分の店を畳むかどうか悩んでいたみたいです」
「ふぅん、妙な共通点だな」
蜘手は顎を軽くさすりながら、再び路線図に目を向けた。
「つまり青い靴の人は、迷える子羊を狙うって訳かね? 世知辛い怪異だこと」
「……かもしれません。でも、それがどうして靴につながるんですかね?」
美優は、資料の束を指でめくりながら、考え込むように言った。
「どうだろうな。よほど青い靴に思い入れのある怪異なのか」
蜘手は壁にもたれかかり、咥えていた煙草を指で回した。
「でも……人生が変わっていくって、ただの夢じゃ片付かないですよね」
蜘手は目を細め、壁の時計をちらりと見た。
「……よし、そろそろ行くか」
「行く?」
「決まってんだろ。こっちから青い靴の人に会いに行くんだよ」
そう言って、蜘手は椅子から立ち上がった。
1-3. 接触
特対室オフィス。ここでは公には存在しない怪異に関する資料が保管され、捜査のための分析が行われている。蜘手はロッカーの中から適当なジャケットを引っ張り出し、腕を通した。
「本気で本当に行くつもりなんですか?」
「おう。電車の中で会えるって話なら、実際に乗って確かめるしかねぇだろ」
「……でも、危なくないですか? 怪異に直接接触するのは」
「なんだったらお前さんも青い靴、履いてみるか?」
「冗談やめてください!」
美優は少し唇を尖らせた。蜘手は苦笑しながら、煙草の箱をジャケットのポケットに押し込む。
「心配してくれるのはありがたいけれど、俺は結構しぶといよ? こんな半端な怪異に食われるほどヤワじゃないさ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
美優は言い淀んだが、それ以上は何も言わなかった。
「命に関わる怪異じゃなさそうだ。だったらさっさと正体を暴いてやるだけさ。お前さんも来るなら準備しとけよ」
「……はい」
美優は少しの間だけ迷ったが、すぐに荷物をまとめ始めた。
特対室を出ると、夜の街はすでにネオンの光に染まっていた。電車のホームには、仕事帰りのサラリーマンや学生たちが無表情で並んでいる。
その中に、何かが紛れている。青い靴を履いた『誰か』が。
「……じゃあ、行きますか」
美優が深く息を吸い、蜘手を見上げる。
「おう、乗り込むぞ」
二人は、無言で電車に乗り込んだ。どこへ向かうのかも知らないまま、青い靴の人が待つ場所へ。
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