表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/126

CASE: EX 自由研究の代償

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

1. 脱ダンゴムシ


 夏休み。それは高校生にとって解放の季節でもあり試練の季節でもある。毎年訪れるにも関わらず、毎回新鮮な脅威を伴って迫ってくる、不思議な時期だ。灼けつくような日差しにさらされ、じりじりと肌が焼かれていく感覚。部活の練習は容赦なくスケジュールを埋め尽くし、逃げ場はない。そして追い打ちをかけるように、山積みの宿題がじわじわと首を絞めてくる。


 特に恐ろしいのは──自由研究だ。

「自由」と名がつくくせに、自由などない。むしろ、その名のもとに強制される高度な創意工夫はズボラな人間にとっては悪質な罠でしかなかった。私──特異事案対策室の社畜女子高生、南雲(なぐも)美優(みゆ)にとっても例外ではない。それはもはや怪異と並べても差し支えないほどの脅威だった。しかし今年の私は逃げるわけにはいかなかった。なぜなら、昨年の記憶が今も私の心に痛々しいトゲのように刺さっているからだ。


あの夏、私は見事に自由研究を後回しにした。先送りに先送りを重ね、気がつけば八月三一日を迎えていた。セミの亡骸が道端でひっくり返り、時折死んでいると思ったセミが突如蘇り驚き、ひぐらしがどこか哀れな声で夏の終わりを告げる中、進退窮まった私は深夜の庭先で途方に暮れていた。暗い中スマホの懐中電灯を頼りに、鳥肌が立つのをこらえながら植木鉢の裏側に隠れたダンゴムシを観察していたときの惨めな気持ちを、今でも鮮明に思い出すことができる。そして私はこう書いた。


『ダンゴムシは丸まることで外敵から身を守る。私は丸まっても宿題からは逃げられない』


 レポートを提出した日の教室の沈黙、教師の引きつった笑顔、友人たちの同情の混じった哀れみの視線。思い返すだけでも心が折れそうになる。沈黙という名の公開処刑だった。教師からは真顔で「来年は真面目にやらないと単位に響くぞ」とまで言われてしまったのだ。


 あの屈辱的な敗北感を、私は二度と味わいたくはなかった。同じ轍を踏んではいけない。ダンゴムシのように殻に閉じこもり、現実から目をそらしてはいけない。見ないふりをすればするほど、それはより巨大な脅威となり私は飲み込まれてしまうだろう。今年こそ、能動的でなければならないのだ。私は成長できる女だ。


 決意を胸に、私は早くから行動を開始した。二ヶ月前、私はホームセンターの園芸コーナーでミニトマトの種を購入し、地道に育て始めたのだ。研究テーマはシンプルかつ堅実、「ミニトマトの生育比較」。株ごとに土壌、栄養、水分、日照。それぞれの条件を変え細かく記録を取り続け、ようやくここまで辿り着いた。小さな種から育てた株は、今や全ての株が誇らしげに黄色い花を咲かせている。毎日欠かさず記録した天候データ、きちんと作成済みのレポートフォーマット、さらには研究の成果として実ったトマトを美味しく食べ、味を比較するという完璧な動機づけまで整えた。

「まさに鉄壁の布陣!!!」

 朝日に輝くミニトマトの葉を見つめ、私は静かに拳を握りしめる。ふと、そよ風が頬を撫でていく。セミの声さえ心地よく感じるほど、私の心には余裕があった。これなら絶対にいける。私はもう去年までの情けないダンゴムシではないのだ。──そう、自由研究界の捕食者になったのだ。これ以上ない完璧な計画を前に、私は勝利を確信していた。強いて言えば──完璧な自分の手腕が怖い。


 しかし、この時の私はまだ知らない。

 この夏の自由研究が、いったいどれほどの事態を引き起こすことになるのか──。



2. 雷獄


 真夏のアスファルトにゆらゆらと陽炎が揺れていた。(とどろき)雷蔵(らいぞう)はその日の捜査を終え、特対室へ戻る道の途中だった。陽光は容赦なく照りつけ、街路樹の影もかすかな救いにしかならない。額を流れる汗を拭いながら歩いていると、ふと、どこか見覚えのある景色に気づく。

「ん?……お、ここ美優んちの近くだったな」

 雷蔵は足を止め、周囲を見回す。日常的な住宅街の風景。穏やかで、特別なことは何もない。それが却って、不思議な気分をもたらす。怪異の事件ばかり追いかけていると、こうした平凡な日常風景こそが非日常に思える。


 目を凝らすと、小さな庭先に並んだプランターが見えた。そこに植えられているのは──

「……なんだあいつ、トマトなんか育ててるのか?」

 意外だった。あの面倒くさがりな美優が、家庭菜園などとは。若干傾いて立てられた支柱に雑に結びつけられたトマトが、なんとも美優らしい。雷蔵の脳裏に、美優がぶつぶつと文句を呟きながら土いじりをする姿が浮かび、微かな笑みが漏れた。そしてその瞬間、不意にある考えが彼の中をよぎる。


 雷蔵はかねてから密かに考えていたことがあった。それは、自身の恩寵──『雷獄』のことだ。彼の恩寵は圧倒的な破壊の力であり、幾多の怪異をその雷光の前に屈服させてきた。だが、時折それは、得体の知れない虚しさを伴う。『雷』は本来、ただ破壊を象徴するだけではないはずだった。


 かつて日本書紀において、『雷』は『イナツルビ』と呼ばれた。雷は稲と交わり、実りをもたらす存在だった。雷神の多くは破壊的な側面を持つ一方、豊穣を司る神々としても崇められてきたのだ。そして多くの神話でも破壊と創造。死と再生。終わりと始まり。その二つは常に背中合わせに存在している。だとすれば、自身の力にもまた、もう一つの側面が隠れているのではないか?

「雷は破壊であり、創造だ」

 雷蔵は呟きながら目を閉じた。背筋が微かな緊張に張り詰める。身体の内側で、眠っている可能性を探るように神経を研ぎ澄ませていく。汗が首筋を伝い、シャツが肌に張りついていることにも気づかぬほど集中していた。

「神々が雷をもって豊穣を与えたというならば、この手に宿る力もまた、その可能性を秘めているはずだ」

 雷蔵は静かに目を開く。そして、視線を鋭く目の前の小さなミニトマトの株に定めた。手を伸ばし、指先を軽く空へ向ける。


 パチン。


 その指が静かに弾ける音を合図に、空気が裂けるような鋭い音が響いた。その瞬間、眩い雷光が指先から迸り、小さな空間にだけ、精密に制御されたプラズマが生まれる。光の奔流はプランターを包み込むほど強烈だが、不思議なほど周囲には一切影響を及ぼさない。その一瞬の中で、雷蔵は全てを賭けていた。これは単なる電流の放出ではない。これは神話の雷の再現への挑戦──恩寵の限界を超えるための試み、新たな『生命創造』への挑戦だった。


 鼓膜を震わせる轟音、視界を奪う閃光。その瞬きほどのわずかな間、世界が白一色に染まる。やがて光は消え、再び訪れる沈黙の中で、汗が全身を覆っていた。熱気とは違う、不思議な疲労がじんわりと身体を蝕む。雷蔵はゆっくりと呼吸を整えながら、目の前のトマトの葉を見つめる。葉は微かに揺れていた。明らかな焦げ付きもない。生命が絶える気配もない。ただ──確かにその葉は、今までとは違った表情を浮かべているように見えた。

「……手応えは、あった」

 雷蔵は静かに頷き、立ち上がるとそのまま何事もなかったかのようにその場を去った。彼自身にもまだ、自らが生み出した結果がどんなものなのか、完全には理解できていなかった。


 ──後日。ミニトマトを観察する美優は小首をかしげる。

「あれ? この株、なんか縮れてない? 緑が妙に濃くなった気も……」

 しかしすぐに、それ以上考えるのをやめる。夏の日差しに目を細め、彼女は水やりを続ける。

「ま、いいか。順調順調~」

 彼女はまだ何も知らなかった。

 このミニトマトに、雷蔵の壮大な実験の痕跡が残されていることを──。



3. 透視


 玄関のチャイムを押すと、少ししてからドアが開いた。

「……あー、ありがとうございます」

 美優は寝起きの猫のようにぼんやりとした表情で、受け取るべき荷物のことを明らかに忘れていた様子だった。彼女の背後からは扇風機の回る音と、夏の匂いが漏れてくる。葦名(あしな)透真(とうま)は無言のまま、片手に持った機材ケースを彼女に見せて軽く掲げた。

「……」

 言葉にせずとも伝わる『呆れ』の波動。美優が気まずげにドアを閉めたあと、透真はため息をつきたくなる衝動をこらえつつそっと視線を横に滑らせる。ふと、庭先に並ぶプランターが目に留まった。

 ──ミニトマト。それはどこにでもある、夏の家庭菜園風景。けれど、彼の目に映るものはただの植物ではなかった。


 透真の目には、世界の『流れ』が見える。それは熱でもなく光でもない。もっと根源的な、生命のエネルギー。それが植物の中を巡り、空間に滲み出ている。だが──その流れが、明らかに滞っていた。いくつもの株が、支柱に雑に結びつけられている。その固定方法が粗雑すぎて、茎の成長に不自然な圧力を与えていた。葉が無理に曲げられ、光の当たり方が偏っている。根から茎、葉へと流れるはずのエネルギーが、幾つもの角で屈折し、淀み、閉塞している。まるで、無理に絞られたホースのようだった。

 ──この違和感は、何だ?

 その瞬間、透真の中で何かが閃いた。


 植物の姿とは、本来どのようなものなのか。人間がそれを育てているという事実自体が、そもそも植物にとっての自然なのか。植物は、環境に応じて自らを歪ませながら生きている。土壌の傾斜、風、日照、人間の都合。それらすべてに対応しながら、自分という存在を捻じ曲げ、折り曲げ、生きる。

 だが──もし、その歪みがすべて取り払われたら?

 もし植物が、本来あるべき「理想の形」に戻ったとしたら、それは、どんな姿をしているのだろうか。


 透真はゆっくりと庭へ足を運ぶ。美優はすでにリビングに戻ったのか、彼の背後からは何の痕跡もない。彼は目を細める。エネルギーの流れが、よりスムーズで、干渉を受けていない株を探す。──いた。一株、他よりも条件の良さそうなミニトマト。まだ比較的影響を受けておらず、元の『かたち』に近い。息を整える。まるで外科医のように慎重な手つきで、支柱に巻きつけられた麻紐を取り外す。植物の声なき声に耳を澄ませ、透視の力で内部構造を読み取る。茎の向き、葉の角度、全体のバランス──エネルギーの流れを妨げる要素を一つひとつ取り除いていく。


 それは科学であり、哲学だった。同時に、どこか祈りにも似ていた。この植物が、本来あるべき「姿」へと戻れるように。再び支柱へと固定する時、透真の動きには一切の迷いがなかった。エネルギーの流れを滞らせず、かつ全体の形を整える──完璧な均衡。無理も、強制もない、自然の理に沿った補助。彼の手元で、静かに一本のミニトマトが「正しい形」へと収まっていった。これは──実験であり、仮説検証であり、ほんの少しの理想主義だった。


 ──数日後、美優はその株を見て言った。

「あれ、この株更にもりもり育ってない? 夏で一番日当たりいいとこだから?」

 美優は首をかしげるだけで、深くは考えない。日差しが強い日が続いたからだろう。水の量がちょうどよかったのかもしれない。彼女にとっては、その程度の理由で十分だった。


 その株が、透真の手によって『本来の形』に近づいたことを、彼女は知る由もなかった。──ただ一つ確かなのは、その日を境に、株の成長は明らかに変わり始めていた。



4. 猫又


 午後の陽が傾きはじめ、夏の空気がほんの少しだけやわらかくなる時間。鈴虫にはまだ早く、蝉の声も一息ついたように感じる穏やかな午後。その家の縁側で、少女と女性が麦茶を片手に話し込んでいる。一人は相変わらず気だるげで、宿題という名の災厄から逃れるべく現実逃避を試みている女子高生──美優。もう一人は、どこか浮世離れした気配をまとった、静かな微笑を絶やさぬ女性──久世(くぜ)灯里(あかり)。その足元には、一匹の猫の姿。否、猫のような姿をした、猫とは異なる存在。

 ──猫又。

 長い年月を生き、幾度もの夜をくぐり抜けた妖怪。灯里によって保護されて以来、半ばペットのような存在となっているが、実態は人間の理解からは遠い。それでもこの猫又は、ふらりとした振る舞いのなかに、確かに『理が』あった。


 普通の猫と生活圏を同じとし、目撃されることも多かった──そんな彼女が百年もの間「退治」されなかった理由。それは強いからでも、賢いからでもない。人間の善悪の基準すら覆す恩恵があったのだ。

「あの猫又は、幸運をもたらす」

 そう言われて久しい。彼女が歩いた場所には、豊穣が訪れるという。彼女が身を寄せた家には、幸福が満ちるという。その言葉は、単なる偶然の連なりではなかった。それを、これから証明する瞬間が訪れようとしていた。


 ──退屈だ。

 二人の人間は、のんびりとした口調で夏の愚痴と笑い話を交互に投げ合っている。猫又は軽く背伸びをし、二又の尾を揺らしてから庭へと足を踏み出した。土の匂い。風の香り。陽射しは少しだけ和らいでいるが、まだ真夏の気配は強い。庭を縫うように、猫又はゆるやかに歩く。猫としての気まぐれと、妖怪としての直感が混ざり合うまま、視線はやがて一群の植物へと向かう。並べられたプランター。幾本もの──ミニトマト。


 ──あぁ。これは、見える。

 猫又の目は、普通の猫とは異なる。魂の色も、命の響きも、すべて透かして見ることができる。そして彼女は、プランターの前でふと立ち止まった。風が止む。蝉の声も、遠くなる。まるで、世界が呼吸を止めたような静寂。猫又は、じっとその株を見つめる。まだ若い果実がいくつも生りはじめている。葉の隙間から陽光がこぼれ、微かに葉脈が透けて見える。

「……赤いやつの小さいやつか。悪くない」

 呟きに近い声が、彼女の喉奥から漏れる。それは言葉というより、感応に近い。一歩、前へ。尾がゆっくりと揺れる。その仕草は、まるで神職が神楽を舞うようだった。静謐で、神秘的で、だがどこか遊び心に満ちている。そして、彼女は「ここだ」と定めると、くるりと回って、すっと腰をかがめ──。


 ミニトマトの根本に、静かに残された印。小さな儀式が終わり、彼女は満足げに次のプランターへと移る。そして彼女はその場を去る。何事もなかったように。まるで最初からそこにはいなかったかのように。


 ──数時間後。

 美優は水やりのついでに、ふとその株の周囲に顔を近づけて鼻をひくつかせた。

「……? なんか、おしっこのニオイ……? 気のせいか……」

 首をかしげつつ、手にしたジョウロでしゃばしゃばと水をかける。

「ま、順調だし……いっか」



5. 境界


 風が、そっと頬を撫でていった。陽はすでに傾きかけ、長く伸びた影が住宅街を染めている。帰り際、ふと振り返ったその瞬間──灯里の視線が、庭の片隅で立ち尽くす小さなミニトマトの株に吸い寄せられた。その腕には猫又がうとうととしながら、抱えられている。


 空気が、わずかに濁っていた。普通の人間には、恐らく気づけないようなさざ波。けれど灯里には、それがはっきりと見えた。その株だけ、世界との境界が少しだけ『ずれて』いたのだ。


 近づく。足音もなく、静かに。その佇まいは、まるで風のようだった。小さなトマトの実が、青々とした葉に包まれながら実りつつある。それは一見すると何の変哲もない、夏の風景の一部。けれど──。

「……このトマト、魂があるみたい」

 灯里の口から、無意識に言葉がこぼれた。声ではない、感覚が彼女の内側を満たしていく。正確には、魂が込められているのではない。魂が、閉じ込められているのだ。それも、かなり無理矢理に。痛みに似た違和感が、彼女の胸の奥に生じた。


 ──思い出す。

 かつて自分が消えた、あの夏の日。神隠しに遭い、この世と幽世の狭間を漂っていた記憶。時間も空間も曖昧になった世界。身体と心の境目が滲み、世界との接続が断ち切られていく感覚。このトマトもまた、同じような境界の内側にいる。命として生きながら、その命がどこかへと引き込まれている。それは異常というにはあまりに静かで、怪異というにはあまりに美しかった。


 この世界には、いくつもの『境界』が存在している。例えば、生と死の境界。昼と夜の境界。現実と幻想の境界。だが、それだけじゃない。この小さな果実の中にさえ──魂の境界があった。


 灯里はゆっくりと、指先を伸ばす。そっと、トマトの表面に触れる。ほんのわずかに、果実が震えた。微かに訴えるような、消え入りそうな声が──確かに聞こえた気がした。それは、祈りにも似た希求。忘れ去られることを拒む、最後の灯。

「……あなたは、戻りたがっているのね」

 灯里の指先に、微かな光が揺らめいた。白く、儚く、ゆらゆらと──まるで、この世とあの世をつなぐ綱のように。けれど、彼女はそれ以上、何もしなかった。すでに境界は、触れられたことで目覚め始めていた。それが吉か凶かは、まだわからない。けれど──確かに、何かが始まっていた。



 それから数日後。美優は、夜の庭で奇妙な光景を何度も目にすることになる。どこからともなく現れた野良猫が、ミニトマトの株の前で背を丸め、低く唸る。牙を剥き、毛を逆立て、まるでそこに見えない何かがいるかのように。

「……また来てる……なんでこの株だけ?」

 首をかしげながら、彼女は窓を閉めた。ミニトマトは今日も、変わらずそこにある。青く、小さく、確かに育ち続けている。


 美優は、まだ知らない。あの果実の奥に、今なお魂の気配が息づいていることを。それがやがて、境界を越え、彼女自身を巻き込むことになることを──。



6. 不安


 夏の終わりが近づき、空気のなかに微かな秋の気配が忍び始めた頃──私の自由研究は、いよいよ佳境を迎えていた。ミニトマトはすべて順調に育ち、青い実は日に日に色づいていく。最後の仕上げ、収穫してそれぞれの味を比較し、レポートを完成させる──それだけのことなのに。どうして私は、こんなにも不安なのだろう。庭に出るたび、私は何か言い知れない予感に囚われてしまう。ミニトマトの実を目にするたびに、胸の奥がざわついて、足がすくむのだ。そして、その不安にはちゃんとした理由があった。数日前から、明らかに異常なトマトが現れ始めているのだ。


 まず一つ目は、『光るトマト』。その株だけは、夜になると青白い光を帯びてぼんやりと発光し始めた。暗い庭の中でぼんやりと浮かび上がるトマトは、まるでホタルイカが群れで漂っているかのような不気味な美しさを放っている。恐る恐る触れてみると、指先に鋭い刺激が走った。

「うわっ、ビリっとした!」

 静電気のような鋭さ。指を引っ込めたあと、私はしばらくじっとそのトマトを見つめていた。

「食べて……いいのかな、これ……」

 最近では近所の小学生たちがフェンス越しに覗き込みながら、『光るUFOトマトを育ててる家がある』などと囁き合っているのを何度も耳にした。もちろん、それが我が家のトマトであることに疑問の余地はない。


 次に、『巨大ミニトマト』。ミニトマト、という名前がもはや皮肉にしか感じられないほど、それは膨らみ続けていた。通常の実の、ざっと見て十倍はあろうかという巨大さで、まるで人工的に加工したかのように完璧な球形をしている。皮は異常なほどツヤツヤと輝き、指で軽く弾くと、弾力のある硬質な音を響かせる。

「……ミニトマトとは?」

 呟く私の声は震えていた。惑星か、何かの人工物か。こんな巨大な果実が生まれてくることなど、あるのだろうか。そして何より、これもまた食べていいものなのか。


 最後が、『神のトマト』。問題はこのトマトだった。その果実は他のトマトとは明らかに異質なオーラを放ち、ハート型に育っていた。初めて手に取ったときの感触を、私は一生忘れないだろう。手のひらのなかで微かに震え、まるで生きているかのように「どくん、どくん」と、かすかに拍動していたのだ。そして、どこか遠くから、風に乗って届くように微かな声が聞こえた。

『……み、ゆ……』

 背筋がゾワッとする。私は思わず手を離しそうになったが、踏みとどまってじっとそのトマトを見つめ続けた。

「えっ……なんか生命の鼓動……食べていいの、これ……?」


 しかし、この『神のトマト』の評判は、近所のお年寄りを中心に、なぜか異様に良かった。

「ありがたいねぇ、美優ちゃん。このトマトは神様だよ」

 近所のおばあちゃんはトマトの前に手を合わせ、何度も何度も拝んでいた。正直、最初は戸惑った。だが、ある日彼女は本当に嬉しそうに言ったのだ。

「毎日拝んでたら、腰痛が治ったんだよ。これは本物だねぇ」

 あっという間に、『神のトマト』には小さな信者の群れが出来上がってしまった。半信半疑ながら私も試しにトマトの前で手を合わせると、トマトは僅かに震えた──まるで、応えるかのように。私は思わず一歩後ずさった。ミニトマトのはずなのに。私の自由研究は──一体どうなってしまったのか。


 私は、静かに絶望しつつあった。この不気味なミニトマトたちを、どうやってレポートにまとめればいいのだろう。もう、私には普通の夏休みを過ごすことは許されないのだろうか──。




7. 夏の終わり


 人智を超えたミニトマトがある。その噂は、私が気付く間もなく音も立てずに町中へ、いや、もっと遠くへと広がっていた。初めは近所のおばあちゃんが腰痛を治した程度の話だったはずなのに、いつしか小学生たちが都市伝説を囁き、噂は瞬く間に大人の世界にまで広まってしまった。


 ──そして、あの日。

 私は夏の終わりを告げる陽射しの下、庭先に立ち尽くしていた。私の手の中には、収穫したばかりの異常なミニトマトたちが詰まったカゴがあった。それらは無慈悲なほど色鮮やかで、私を嘲笑うかのように存在感を放っている。じりじりと焼けるような視線を感じて顔を上げれば、庭の前には人だかりができていた。遠巻きに見つめる近所の住民、ざわつく小学生、そして何人かの見知らぬ大人たちが興奮したような表情で何かを囁き合っている。心臓が痛いほどに高鳴り、息が詰まる。担任の教師が人垣をかき分けて私の前までやってきて、顔を引きつらせながら問い詰める。

「南雲さん、一体何をしたんだ? 農大の教授さんから君について問い合わせが来ているぞ」

「……農大?」

 呆然と呟いた私の言葉を遮るように、眼鏡をかけた学者らしき男性が一歩前に出た。

「ぜひサンプル採取を!土壌の解析もさせていただきたい!」

 さらに後ろから、カメラを抱えた新聞社らしき女性記者までが声を上げる。

「すみません、ぜひ取材を──」


 私は混乱のあまり手元が震え、カゴはあっけなく私の手を離れた。ごろごろと転がったそれらを、人々が息を呑んで見つめる。青白く発光するトマト、異様に巨大で完全な球形のトマト、そして神々しいハート型のトマトが、人々の視線を一身に浴びていた。

「いや……これは違うんです!」

 必死に言葉を吐き出したが、自分でも何を言っているのかわからない。自分の声が遠くで響いているようだった。

「私は、ただ普通の自由研究を──」

 必死に訴えるが、教師はそれを許さない。

「農大の教授が直接連絡をくださったんだ。途中でもいいから、今すぐレポートを──」

 ──なんでこうなった?

 頭の中であの頃の私が、無邪気にミニトマトを植えていた光景がちらつく。私はただ、あのダンゴムシの惨劇を繰り返したくなかっただけだ。ただ普通の、当たり前の自由研究をしたかっただけだ。いつの間にかミニトマトは謎の進化を遂げ、私の日常を丸ごと侵食していた。


 このままでは終われない。こんなものを残すわけにはいかない。

 その夜、私は庭の隅に穴を掘り、焚火を熾した。一つずつ、育て上げたミニトマトたちを炎の中へ投げ込んでいく。炎は高く舞い上がり、ミニトマトたちは炎の中で爆ぜ飛び、おおよそミニトマトが出すとは思えない、パンッ、パンッと鋭い音を響かせた。その爆ぜる音が、まるでミニトマトたちの最期の抵抗のようであり──同時に、私自身の夏の断末魔のようにも聞こえた。


 小さな炎の前で立ち尽くす私の胸は、いつの間にか寂しさと悲しさでいっぱいになっていた。結局、私は一度も味わうことなく、この奇妙なミニトマトたちとの夏を終えたのだ。灰になったミニトマトたちの上に、無言で土をかける。夏は──静かに終わった。


 ──そして、数日後。

 特異事案対策室のオフィスには、妙な沈黙が流れていた。美優の自由研究レポートのコピーを見つめているのは、美優を除く特対室の面々たちだった。

「なんだこれ、美優くんは変な作物育てる天才なの?」

 いつも通り飄々とした口調で言う蜘手の言葉も、どこか虚ろに響く。雷蔵は顔をしかめ、視線を逸らした。透真は神妙に目を伏せ、表情を動かさないようにしている。灯里もまた、小さく俯いて口を閉ざしていた。


 そのときだった。室内に置かれたオウムの式神がふいに首を傾げ、柔らかな声で室長の言葉を告げた。

「面白いものを育てたねぇ……君たち」

 式神の瞳がきらりと光り、一同を見回す。

「……報告書、出すように」

 誰も返事をしないまま、重苦しい沈黙だけが特対室を満たしていた。


Xの作品アカウントでは告知の他、怪異の正体のヒントや140字怪異録等も発信しています。ご気軽にフォロー、交流をどうぞ。


https://x.com/natsurou3

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ