CASE:007-4 ナトリサマ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
4-1.神霊との別れ
境界の内側は、どこか現実とは異なる空気を帯びていた。風は吹かず、草木は時間を忘れたように静まり返っている。それでも、この場所が決して"死んでいる"わけではないことを、灯里は感じていた。
「……そちたちは、いずれ再びこの地を訪れることなきか?」
神霊が、ぽつりと呟いた。
その声音は変わらず静かで、威厳に満ちたものだったが、微かに寂しさが滲んでいるように思えた。
その問いかけは、まるで"在り続けるもの"が"去りゆくもの"に向けた、ほんのわずかな願いのようにも聞こえた。
神霊は少しの間、何も言わなかった。ただ、風もないのに袖が微かに揺れたように見えた。
「……寂しい?」
灯里が問いかけると、神霊はゆっくりと目を伏せる。
「……余にはわからぬ。常にここに在りしがただそれのみのことなり」
それは、誰にも認識されることなく、誰にも名を呼ばれることなく、それでも存在し続けた年月。
祠が忘れ去られ、人々の信仰が消えていくなかで、この神霊だけは変わらずここにいた。
子どもを護るという使命だけを抱いて。
けれど、その"護り"が、時代の変化とともに、かえって子どもたちに不必要な影響を与えてしまっていた。
「……もう、人が来なくなって、どれくらい経つの?」
灯里の問いに、神霊は少し考えるように間を置いた。
「……余にも計りかねる。ただ気づけば、誰一人として余の名を呼ぶことなくなりにけり」
それは、気づかぬうちに人々の記憶から消え去り、存在すら薄れていったことを意味していた。
灯里は、そっと微笑んだ。
「なら、また誰かが来るよ。私は"この場所のことを伝える者"として、ここが忘れられないようにする」
神霊は、ゆっくりと灯里を見つめた。
そして、何も言わずに、静かに頷いた。
灯里と美優が境界の外へと歩き出す。
その背中を見送る神霊の姿は、ただ静かに、そしてどこか名残惜しそうにそこに在った。
境界を越え、現実の祠に戻ると、美優は肩を大きく上下させながら息をついた。
「緊張したぁぁぁぁ!!……神様って……本当にいるんですね……ていうか先輩すごいっすね!」
彼女の表情には、信じられないものを見た戸惑いと、安堵が入り混じっていた。
「名前を取られかけた時、何かされたって自覚すらなかったのに……いや、ホントに何かされたわけじゃないんですよね。でも……」
美優は腕を組み、考え込むように口をつぐんだ。
「……あの神様、別に悪いやつじゃなかったってことですよね?」
灯里は、そっと目を細める。
「うん。ずっとひとりで、ずっと子どもたちを護ろうとしていたのよ」
それが、時代の在り方とほんの少しずれてしまっただけ。
そして、今ようやく、それに気づくことができた。
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4-2.復興
灯里と美優が町へ戻る頃には、日はすっかり傾き、遠くの山並みが朱に染まり始めていた。夕暮れの光が、町の古びた瓦屋根を赤く照らしている。
「……まずは市役所ね」
灯里が静かに呟き、二人は市役所へと足を運んだ。
市役所の中は、昼間の喧騒も収まり、静けさに包まれていた。対応に出た職員は、灯里たちの話を聞いて、首を傾げた。
「祠……ですか? そんなもの、町の地図には載っていませんが……」
「でも、確かに山の中にあったんです。子どもたちがよく遊んでいた場所で、すっかり忘れられていたみたいですけど」
灯里の言葉に、職員はデスクの奥から古い資料を引っ張り出してくる。埃を払いながら、じっと紙面を見つめる。
「……なるほど。確かに、昔の地図にはこの場所に"社"の記号がある。でも、いつの間にか、記録から消えてしまったようですね」
灯里はそっと微笑む。
「それなら、もう一度、記憶に残してあげてほしいんです」
職員はしばらく考えたあと、小さく頷いた。
「町の人たちにも話をしてみましょう」
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翌日、灯里と美優は町の住民たちにも祠の話をした。
最初、住民たちは怪訝そうな顔をしていた。
「そんな場所があったのか?」
「山の中に祠? そんな話は聞いたことがないな」
最初は、誰もが『そんなものあったか?』という顔をしていた。
誰もが首を傾げ、まるで他人事のような反応だった。
しかし、灯里が資料から見つけた古い風景画を見せると、住民たちの表情が少しずつ変わり始めた。
画には、かつての町の風景が描かれていた。今とは違う、木々に囲まれた古い町並み。その中に、小さな祠がはっきりと映っていた。
「……そういえば、子どもの頃、親に『あそこで悪さはするな』って言われたことがあったなぁ」
その言葉をきっかけに、次々と記憶が紐解かれていく
「うちの祖父も、山には"神様"がいるって言ってたような……」
「こんな近くに、そんな祠があったなんて……」
ぽつぽつと、思い出すように話す者が増えていく。
誰も気に留めていなかったが、町の人々の記憶の片隅には確かに"その場所"が残っていたのだ。
そして、一度思い出されると、それは次第に確信へと変わっていった。
「子どもの頃に聞いたことがある」
「確かに、祖父母が言っていた」
次々と記憶が繋がっていく。
「子どもたちを護ってくれる土地神様ですよ。大事になさってください」
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灯里たちが町を発つ頃には、住民たちの間で「もう一度、祠を見に行ってみよう」という話が自然と持ち上がっていた。
後日、数人の住民たちが山へと向かい、忘れ去られていた祠を見つけ出した。
苔に覆われ、崩れかけたその姿を前に、彼らは静かに息を呑んだ。
「本当にあったんだな……」
「こんなに傷んでしまって……」
その日から、町の住民たちは少しずつ祠の清掃を始めた。
手入れをし、周囲の木々を整理し、苔を落とす。傷んでいた屋根は職人の手によって修復され、かつての姿を取り戻していった。
そして、町の学校では、この祠を地域の歴史の一環として伝える取り組みが始まる。
「昔、この町には子どもを守る神様がいたんだよ」
「今も見守ってくれているかもしれないね」
そうして、祠はただの忘れられた遺物ではなく、人々の心の中に"残る"存在へと変わっていった。
もう、二度と忘れ去られることのないように──。
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4-3.エピローグ
数日後の夜、灯里と美優は、まだ微かにあの清涼で張り詰めた空気にまとわれているような気がしていた。
長い時間、静かな森の中で、数百年を越えて子を護ろうとした神霊と対峙していた記憶が、現実へと帰還した今も彼女たちの意識に残っていた。
一方、特対室の執務室にはいつものように淡々とした空気が流れていた。
無機質な蛍光灯の光が、書類が積まれたデスクを照らし、壁際には解析データが並ぶホワイトボード。どこか、日常と非日常の境界にあるこの場所で、灯里はそっと椅子に腰を下ろした。
その静寂を破るように、美優がぽつりと呟く。
「結局、あの神様は優しかったってことですか?」
問いかける美優の表情は、どこか考え込むような色を帯びていた。
灯里はゆっくりと目を閉じ、山の祠に佇む神霊の姿を思い出す。
幼い姿をしていながら、数百年もの間、誰にも顧みられることなくそこに在り続けた存在。
「うん。子どもを護る優しい神様よ」
灯里は微笑みながら答える。
「でも、たぶん、ずっとひとりでいただけ」
「……ひとり、か」
美優は椅子の背にもたれ、視線を窓の外へと向ける。
その目の先には、遠く広がる東京の街並み。ビルの灯りが夜の帳にぽつぽつと浮かび、ネオンの色が霞むように滲んでいた。
ひとりでいるということ。
それが、あの神霊にとって何を意味していたのか。
美優はそれを完全に理解することはできない。
けれど──。
「……なんか、寂しいですね」
その呟きが、無意識の本音だった。
その時、不意に透真が口を挟んだ。
「つまり、優しい久世さんも気をつけないといけないな」
「……?」
灯里が小さく首を傾げると、透真は書類の束を手にしながら、淡々と言葉を続けた。
「深入りしすぎると、向こう側に引きずられますよ」
それは、特対室の同僚としての忠告だった。
誰よりも"境界"に触れる力を持ち、"向こう"に近い存在である灯里が、過度に踏み込めばどうなるか──透真は、まるでそれを見越したような目をしていた。
灯里はゆっくりと目を閉じ、静かに微笑んだ。
「うん」
この仕事をしていれば、"向こう"との境界に触れることは避けられない。
それでも、自分は"こちら側"にいる。
そう、まだ。
ふと、灯里は窓の外に目を向けた。
遠く、祠のある山の方角。
黒く染まった夜の稜線。その先に、見えるはずのない光が、ほんの一瞬、ちらりと揺れたような気がした。
だが──どこからか、懐かしい気配がした。
それは、あの境界の向こうで感じたものと同じ、どこか穏やかな気配だった。
きっと、あの神霊は今も、祠の中でそっと子どもたちを見守っているのだろう。
もう"名を変える"必要もなく、ただ、かつてそうであったように、静かに子どもたちの傍に。
その姿を思うと、灯里の胸の奥に、ほんのりとした温かさが宿った。
──長い時間を孤独に過ごした神が、もう二度と忘れ去られることのないように。
灯里は目を閉じ、静かに息をついた。
そして、次の事件が、すぐにでも訪れることを知りながら。
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