CASE:007-3 ナトリサマ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
3-1.神霊との対面
そこにいたのは、ひどく静かな存在だった。その姿は幼子の形をしていたが、そこに『成長』や『時間』の概念はなかった。ただ、存在そのものが凝縮されたような気配があった。肌は雪のように白く、流れるような黒髪が肩にかかる。狩衣の襟元はゆるく、袖口は風もないのに揺れている。瞳は深く、覗き込めば底なしの闇に引きずり込まれそうなほどだった。目を細めるその表情には、長い時の流れに磨かれた冷ややかな威厳があった。
まるで神座がそこにあるかのようだった。彼は立っていたのではない。まるで、その場所が彼を中心に成り立っているかのように、空間そのものが彼に従っていた。美優は、息を詰めた。
この空気は、特対室で今まで遭遇したどんな怪異とも違う。強い、異質な存在感。存在の『格』が違う──直感で理解した。
「……誰だ、お前?」
ぽろりと、疑問が口をついて出た。その瞬間だった。
「そちこそ、いかなる者ぞ?」
低く、静かな問いかけ。だが、それが響いた瞬間、何かが欠けた。だが、美優には、それが何なのかすぐにはわからなかった。ただ、『空白』がある。
ふと息を吸おうとした。おかしい、肺が動かない。肺は確かに動いているはずなのに、空気が入ってこない。いや、そもそも呼吸という行為自体が何だったのか、一瞬だけ分からなくなる。ただ──。何かが引き剥がされたような感覚だけが残っている。言葉を発そうとしたのに、口が動かない。何を言おうとしていたのかも思い出せない。いや──自分が何者なのかを、一瞬忘れた。
そして、『輪郭』が欠けていることに気づく。何かが失われた。だが、それが何なのかすら、すぐには思い出せない。そんな感覚に陥ったことは、今まで一度もなかった。──あれ、私……なんだっけ?
一瞬、身体が私であるという感覚が遠のく。何かが欠けている。何かが足りない。でも、それが何なのかが分からない。そのこと自体が、無性に怖い。名前が、出てこない。
「南雲美優!」
灯里の鋭い声が響いた。彼女はすぐに間に入り、美優の肩に手を置いた。その瞬間、ふっと何かが戻る感覚がした。
「は、ぁ……っ、なんすか今の……?」
美優は息を整えながら灯里を見上げる。灯里は静かに頷いた。
「問いかけに対して、答えを持っていかれる……そんな力も持っているのね」
美優はぞくりとした。名を問われ、それに応じた瞬間、自分という輪郭が揺らぐ。下手をすれば、そのまま失うこともあったかもしれない。多分今のは本気で攻撃するつもりはなく、ちょっと脅かされただけだ。だけど、もし対応を誤って敵意を向けてきたら──神様を『分解』できるのか?
「これは、神霊の力の一端……ね」
神霊は、じっと灯里を見つめた。だが、その目に、一瞬だけ迷いが生じる。口を開きかけ──いや、何かを言いかけたようにも見えたが、すぐに閉じた。それでも、その動揺は、ほんのわずかな間だけ、彼の威厳を崩していた。灯里は穏やかに神霊を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「私たちは──この町の子どもたちの名前の変化について調べている者よ」
あくまで慎重に、言葉を選ぶ。
「……そちの言の葉、慎み深く、然るべきものなり」
穏やかだが、底にあるのは厳しいまなざしだった。しかし先程一瞬見せた威圧感は霧散したまま、敵意はない。
「そちたちの語ること、聞き届けようぞ」
神霊はゆっくりと腰を下ろした。
3-2.神霊との対話
「言の葉を交わすこと……いかほどの時を経しことか」
灯里と美優も、神霊の前にそっと座る。緊張は抜けないが、神霊はもう脅かそうとはしていなかった。
「あなたが、子どもたちの名前を変えたのね?」
灯里が問いかけると、神霊はゆるりと視線を向ける。その目は、底知れぬ静寂をたたえていた。
「そちは、いかなることを知るや?」
「私たちは、この町で起こった『名の変化』を調べているの」
神霊は灯里をしばし見つめたのち、ゆっくりと口を開いた。
「然らば余が答うべきはなにゆえ、か。余は、幼き者を護る為に在るのだ」
その言葉は、ただの主張ではなかった。そこには確固たる信念があった。
「護る?」
灯里が問い返すと、神霊は微かに目を細めた。
「この世に生きる者どもは、己が名を持つことを疑うことなし。されど真なる名こそ、魂の本質なり。もし己が真名を他者に知られんとすれば、それは魂を曝すに等し。さればこそ縛られ、奪われ、失うこともあろう。殊に、幼き者においてはなおさらなり」
「人、名を賜りてこそ、己が理を得るものなれど、それはまた、儚く脆きものなり。ことに、幼き者の名は、薄氷の上に刻まれしものにも等し。もしや、これを狙う者あらば……彼らが理は潰え、在りて在らざるものとならん。」
神霊の声は静かだったが、その重みは数百年の時を超えて積み重ねられたものだった。
「では、あなたは悪しき者から子どもたちを護るために、彼らの名を変えたの?」
「然り」
神霊はわずかに顎を引いた。
「あの場──幼き者らの戯れの場。それはかつてこの里の者が齢を重ね、然るべき時に至りし折、真なる名を授けられし神聖なる場なり」
灯里は息をのんだ。あの場所はただの遊び場ではなかった。かつて、信仰の中で親から子へ真名が授けられる神聖な場だったのだ。
「ゆえにいまだ真なる名を得るに足らぬ幼き魂を、危うきものより護らんが為、守名を授くること、余には為し得るのだ」
「……だから、あなたは名を変えたのね」
「然り」
神霊の瞳が微かに揺らぐ。
「往昔、この里においては幼き者に守名を授け、真なる名を持たせぬまま育てしなり。それこそが、邪しきものどもより其の在り様を護る術たりける」
「護るって言われても、親でもないのに、お前の為だって理由でいきなり親がくれた名前を変えられたら、逆に迷惑なん──」
美優が言葉を挟むが、灯里はそれを制する。灯里は先程の神霊の言葉を静かに反芻しながら、神霊の思考を探る。
──この神霊は、確かに子どもを護ろうとしている。ただし、それはあくまでかつての時代における方法であり、現代の人々にはもはや通用しないものだった。
「でも、今はもう、その風習はないわ」
灯里が穏やかに言うと、神霊の表情が一瞬動いた。
「そちは、何を申さんとするのか?」
神霊の声が僅かに強まる。
「人の世は移ろえども、この世の理は変わることなし。ゆえにこそ余は守名を授け直したのだ」
灯里は、静かに目を伏せた。──この神は、ただ己の正しさを貫いている。それが、時代の変化を受け入れない理由なのだ。
しかしそこで美優がまた口を挟んだ。
「……でも、その子たちは助けてほしいなんて思ってませんよ」
「名前が変わったことにすら気づいてないし、それがどれだけ怖いことなのかも分からない。だからこそ、あなたは護るって言ってるんでしょうけど……」
神霊は黙って美優を見つめる。
「私はさっき、名前を変えられるかもしれない怖さを知っちゃったから……でも、知らずに変えられることが、一番怖いって思う」
「もしその子たちが『名前を変えないで』って言ったら、それでも護りますか?」
神霊はただ、何かを考えるように沈黙している。灯里はそのやり取りを見て思って確信した。この神はただ己の役割に囚われ、全うしているだけなのだ。その認識を少しずつ変えていくことが、今の自分のすべきことなのだと、灯里は静かに思った。
「余よりも問おう。そちは、彼の地を知る身なりや?」
灯里は一瞬息をのむ。だが、すぐに微笑みを浮かべた。
「ええ。私は昔、禁足地に入ってしまったことがある」
神霊は目を伏せ、しばらく沈黙した。
「然るか。そちは彼の地へと踏み入りながらも、なお還ること能いしたのか」
その声音には、どこか遠いものを眺めるような響きがあった。
「私は戻ってこられた。あなたも、まだ帰れる」
灯里はまっすぐに神霊を見つめた。だが、神霊は、ふっと微笑んだ。それは、諦念に近いものだった。
「……余にはもはや、帰るべき処もなきものなり」
3-3.説得
静寂が満ちていた。祠の中は、まるで時間の流れが異なるかのように、どこまでも静かだった。灯里は神霊の深い瞳をまっすぐに見つめる。対する神霊は、変わらぬ威厳を湛えたまま、灯里の言葉を待っているようだった。灯里は、ゆっくりと口を開く。
「……あなたが言う理は、確かにかつての人々にとって真実だったのでしょう。けれど、時は流れました」
神霊の表情に変化はない。しかし、わずかにまつげが動いた。
「名を持つことは存在を定める……その通りです。だからこそ、真名を誰にでも晒すことは、かつては危険だったのでしょう。ですが、今の人間には、かつての理に触れる力すらありません」
「されば何ぞ? それが余に何を意味するというのか」
神霊は穏やかに言った。しかし、その声にはかすかな揺らぎがあった。
「理は移ろうことなければ、人の知る知らぬに関わらず、その定めも変わることなし。さればこそ、余は幼き者を護るのだ」
「……いいえ。理は変わらなくとも、それに干渉する者がいなくなったのです」
灯里の言葉に、神霊の瞳が一瞬揺れる。長い時間の中で、考えもしなかった可能性が、静かに亀裂を生むように。灯里は、さらに一歩踏み込むように言葉を紡いだ。
「あなたは、今もこの世界の秩序を守ろうとしている。でも、それを脅かすものは、もういない。昔は呪いや術を使う者がいたかもしれません。でも、今の時代に真名を知ったからといって、それをどうにかできる者はいないんです」
神霊の目が細められる。
「そちは、呪詛の力が世より消え失せたと申すか?」
「ええ。確かに、名を奪われれば人の魂は脆くなる……かつては。しかし、今の時代、人は呪詛の技術を忘れ、ただ名を呼び交わし、記録するだけになった。誰もが名を持ち、それを失うことに怯える必要がなくなったのです。名を奪う者がいないのなら、守ること自体が意味を持たなくなるのでは?」
灯里は神霊の表情を伺うように見つめながら、さらに言葉を重ねる。
「あなたが与えた守名は、かつての理に基づいたもの。けれど、それを受けた子どもたちは、すでに真名で生きている。そこに無理やり別の名を与えれば、まだ弱い魂は変質してしまうかもしれない」
神霊は僅かに目を伏せた。
「……されば、かつてもまた名を変えられた者はおりし」
「そう……あなたも、そうだったのね」
灯里は、静かに神霊を見つめた。
神霊はおそらく──かつて『神隠しに遭った子ども』なのだ。
「あなたも、元はこの町──いえ、里の子どもだったのでしょう? けれど、ある日神に気に入られ真名を与えられ、あちらに取り込まれた。そして、帰れなかった」
神霊は何も言わない。だが、沈黙が何よりの肯定だった。神霊の心の……幼き日の記憶。霞がかかったように遠い景色。名を呼ぶ声。名を呼ばれなくなった日。すべてが、長い時間の中で薄れていった。
「あなたは……名を奪われた者だったのね」
灯里の言葉に、美優が驚いたように息を呑む。
「……いにしえ、余は『迎え入れられ』し」
神霊の声は、どこか遠いものを懐かしむようだった。
「己が名を失い、新たな名を得た。その果てに、『余』として在ることを定められしのだ」
「……幾多の者の行く末、見届けてきた。新たなる名を授かること、時にこそ救いともなりぬるものなり」
灯里は、そっと言葉を紡ぐ。
「……あなたは、それを望んでいたの?」
神霊の目がかすかに揺れる。
「名が変わること、あなたにはそれは救いではなかったのでは?」
「……余には、分からぬ」
神霊は、小さな声で呟いた。
「ただ、ここに在り、幼き者を護らねばならぬと、それのみを念じ続けていたのだ」
「でも、護ることが、今の子どもたちを変えることなら、それは本当に護っていることになるのかしら?」
神霊は、また沈黙する。
「あなたがしてきたことは、きっと正しいことだったのでしょう。でも、それが今の子どもたちにとって正しいとは限らないわ」
灯里は、優しく語りかける。
「あなたが護りたかったのは、子どもたちの魂そのものでしょう? ならば、名を変えずとも護る道を探してもいいはずよ」
神霊は、ふっと目を伏せる。その仕草には、どこか幼さが残っていた。かつて、神隠しに遭った子ども。ひとり、帰れずに神となった存在。
「……余は」
神霊は、小さく呟いた。
「余は、久しく『帰る』という念を抱くことすらなかりし。ただ、この地に在り続けることが、余が果たすべき務めなりと……」
灯里は、穏やかに微笑んだ。
「ならば、今からでも考えてみればいいわ。あなたがどこに帰るのかを」
「余が還るべき処……?」
「あなたの居場所は、『昔の理を守るための存在』ではなくてもいいのよ」
灯里は神霊の瞳を覗き込む。
「あなたは、今の時代の子どもたちにとって、どんな存在でありたい?」
神霊は、長く長く沈黙した。灯里と美優の言葉。それは、数百年近くの孤独を超えて初めて『問いかけられた言葉』だった。
やがて、神霊はふっと目を伏せた。
「……そちは、まこと手のかかる者なり」
「ふふ、それはよく言われるわ」
灯里が微笑むと、神霊はわずかに唇を動かした。微かな微笑。それは、長い長い時の中で初めて浮かべた、人としての表情だった。
「……よかろう。ならば、元の名へと戻すとしよう」
神霊は、静かに言った。
「そちが申すように、もはやこの世の者らは、真なる名を以て生きるべき時代に至りしのやものしれぬ」
その声には、わずかな安堵が滲んでいた。
「……されど、余の為せしことは……空しきものなりしかの」
灯里は微笑んで答えた。
「無意味じゃないわ。あなたは、ずっと護ろうとしていたのでしょう?」
──神霊は、数百年の役割から、少しだけ解き放たれたのかもしれない。
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