CASE:001-4 カカオの友達
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
4-1. 同一化
──そこは、見覚えのある教室だった。清嶺学園、潜入の際に訪れた2年B組。椅子も机も、廊下のガラスも、いつもの通り整然と並んでいる。だが、窓の外だけが違っていた。
そこには、空の代わりに「目」があった。無数の目が、空間を埋め尽くしていた。大きさも色も異なるが、すべてがこちらを見ている。そして、その下には、波打つように揺れる写真の海。制服姿の、笑顔の、泣き顔の、虚ろな表情の生徒たち。シャッター音の残響が、耳の奥で何度も反響する。
「……っ!」
美優は咄嗟に息を呑んだ。その瞬間、すべての目が、一斉に瞬きをした。まるで同じ脈動で繋がった生き物のように。見下ろすように、一斉にぎょろりと美優に視線を注ぎ、波のようにうねる写真たちは、どれもが笑顔になった。
けれど──その瞳には、生気がなかった。
(……これは、『途中』なんだ)
美優は直感した。写真に映る彼らは、まだ完全に取り込まれてはいない。カカオの友達と繋がりかけているだけで、最後の一押しを待っている。まるで、承諾の瞬間を待つかのように。
けれど、自分は──?
教室の中央に、『それ』はいた。
人型を模した影。
茶色く滲んだような輪郭は曖昧で、身体全体がぼんやりと揺れている。
顔立ちは判然としないのに、そこに顔があると認識できてしまう不自然さ。
そして、その内側には──
いくつもの顔が浮かんでは、沈んでいた。
どれも断片的な記憶。切り取られた表情。涙と笑顔。
失踪した清嶺学園の生徒たちの顔も、その中に混じっていた。
それらは、もやのようにそれの身体の中を漂っていた。
掴めない、でも確かにそこにいる。
そして、『それ』は、美優を見つめた。
「美優。ずっと一緒だよね」
声は、音ではなかった。
言葉が、直接、心の奥底に染み込んでくる。
それは柔らかく、静かで、どこか懐かしい。
美優の胸に、じんわりと温かさが広がった。
(……そう、だよね)
ずっと見てくれていた。
誰よりも近くで、誰よりも優しく、私を理解してくれた。
どんな時でも責めなかった。
黙って、ただ、私を見てくれていた。
ここにいれば、寂しくない。
「うん……」
唇が、自然に動いた。自分の意思だったのか、それすらも曖昧になっていく。
おかしい。
頭のどこかで、微かにそう思う。けれど、その理由が、つかめない。思考が、まるで霧に包まれているようにぼやけていく。『それ』が、微笑んだ。
「大丈夫。全部、私にまかせて」
その言葉は、赦しのように甘い。
救いのように優しい。
『それ』の腕が、美優へと伸びた。
そして──触れることなく、染み込んでくる。
皮膚の表面に、じわりと茶色い影が滲む。
まるでインクが紙に染み込むように。
身体の境界が、内と外の区別をなくしていく。
視界が、ぼやける。
輪郭が崩れ、光が薄れ、音が遠のく。
(……あ、これで、終わりなんだ)
それは悲しみではなく、どこか満たされたような安堵だった。ようやく、誰かと完全に繋がることができたという感覚。
そしてその時。一枚の写真が、風もないのにふわりと宙を舞った。それには『何も写っていない』。
次の瞬間、美優の頬に生暖かい何かが触れた。
4-2. 絆
視界の中で『それ』が滲み、笑っていた。
ただ微笑み、優しく、あたたかく──
美優の境界を、輪郭を、ゆっくりと溶かしていく。
(……これで、終わり……)
思いかけたその瞬間、胸の奥をひっかくような違和感が走った。
違う。何かが違う。
(……こんなに安心できるなら、もういいんじゃないの?)
その囁きは、たしかに甘くて心地よかった。
でも、その瞬間だった。
脳裏に浮かんだ。
──特対室の先輩たちの言葉が。
──「お前さんが本気でやる気なら、どんな大失敗しようがどこまでも面倒見てやる。でもな、半端な気持ちでいるなら——今すぐやめちまえ」
──「……半端な気持ちじゃ、ないです」
──「なら、それを証明してみろよ」
──「『できるか』じゃない。『やるか』どうかなんだ」
──「でも、私……」
──「君自身が決めるんだ。誰かに答えを押しつけられるのを待ってるなら、最初から関わるな」
──「もう……無理です……」
──「バカ言え、まだ立てる。立て。俺が立てるって言ったら、立つんだよ!」
──「……くそっ!」
──「立てるじゃねえか、いい根性だ!それでこそ、美優だ!」
──「一人になるのが怖いのは、みんなそう。でも、それを受け入れたうえで、自分のものにするのが本当の強さなのよ」
それらの言葉は、優しくなんてなかった。耳に心地よくもなかった。けれど──
『私の力で前に進め』と訴えてくれた言葉だった。
カカオの友達のように、依存を誘うものではなく。
お前を信じると前提してくれる言葉。
(──違う)
私は、ただ優しくされたかったんじゃない。
叱ってほしかったわけでもない。
私は、私を対等な仲間として見てくれる人たちと繋がっていたいんだ。
逃げるためじゃない、誰かに守ってもらうためでもない。
自分の意思で、立つために。
「私は──お前のものじゃない!!!」
美優は叫んだ。自分の声が、教室の中に響く。その瞬間、『それ』の動きが震えるように一瞬止まった。
今なら──!
(カカオの友達を分解する!!)
反射のように美優は腕を伸ばし、『分解』を発動した。
『それ』に、触れる。
そして──何も、起こらなかった。
「……え?」
感触が、浅い。
確かに触れているのに、つかめない。
まるで、水面に指を置いただけのような。
そこにあるのに、ここにない。
美優の能力は、対象の構造を理解し、分解する。だが今のそれには、構造がない。
空っぽの影。
曖昧な好意。
ぼやけた輪郭。
理解できない。だから、分解できない。
「友達なんだから、そんなことしなくていいよね?」
『それ』が、微笑んだ。
その瞬間、美優の膝が崩れる。
足元が、溶けていく。
輪郭が、にじむ。
腕の感覚が失われ、指先だけが残っている。
自分が、自分でなくなっていく。
思考が崩れ、誰のものともつかない記憶が混ざる。
私? 『それ』? 識別が崩壊していく。
(だめだ……消える……!)
「分解」が通じない。
能力が、役に立たない。
世界が、ねじれていく。
「美優、もう全部終わりだよ。」
『それ』の声が、心地よく染み込んでくる。
安堵と、絶望と、喪失のはざま。
だが──
美優は、首を横に振った。
(違う、終わりじゃない。私が……何かを間違えてるだけ)
その瞬間。
──世界が、止まった。
時間も、音も、光も、重力さえも。
すべてが一瞬、沈黙した。
美優の視界にほんの一瞬、写真が掠めた。
『何も写っていない』写真。
4-3. 穿つ
視界が暗転した直後、美優の身体は重力を持たない何かに引きずられた。現実の皮膚感覚が一気に剥がれ落ちる。時間も重さも、音も空気も、すべてが意味を失った。気づけば彼女は白く、果てのない空間に落ちていた。
何もない。けれど、すべてがあるとしか言いようのない広がり。その空間では、あらゆる色の光が静かに巡っていた。色とりどりの光が生まれ、還り、循環しながら漂っている。
重力も、音もない空間。だが、圧倒的な『意味』だけが、空間を満たしていた。
目の前に、ひとつの光の玉が浮かんでいた。
それは言葉を発しなかった。
けれど、言葉よりも強い何かが美優の意識に直接、流れ込んでくる。
——「本質を、見極めよ」
——「穿て」
その『言葉』のような『命令』のような『真理』のような何かが、美優の内面へと沈んでいく。刺すように、静かに、鋭く。意識の奥の奥、そのさらに向こうへ。
(……カカオの友達の……本質……?)
思考に触れた瞬間、視界の隅で何かが揺らいだ。
——違和感。
——それは、外にあるのではない。
私の中にある。
身体がざわつく。
心臓が、跳ねる。
呼吸はないはずなのに、肺が圧迫される感覚。
脳の奥で、何かが軋む。
そして、美優は気づいた。
「────っ!!」
言葉にならない音が、魂から漏れた。
次の瞬間──
世界が、反転する。
空間が捩じれ、光が砕け、意味が解体されていく。
無限に広がっていた空間が、音もなく崩れ落ちた。
魂が、強制的に引き戻される──再び、現実へと。
瞬き一つの間に、すべてが戻っていた。
教室。
あの歪な空気。
そして、カカオの友達が、目の前で笑っていた。
先ほどと何も変わらぬ情景。
けれど美優の内側は、確かに変わっていた。私は今──あの違和感の正体を、掴みかけている。
4-4.断絶
美優は、『それ』を見つめた。茶色く滲んだ影の中に、笑顔を貼りつけた生徒たちの顔が浮かんでは消える。彼らは、もう人間ではない。でも、まだ完全に『それ』のものにもなっていない。
……けれど、『カカオの友達』そのものは、どこに?
(こいつは……何なんだ?)
『それ』の手が、すっと美優の肩に触れた。柔らかく、冷たく、そしてまるで内側に染み込んでくるような触れ方。その瞬間、頭の奥で声が響いた。
「だいじょうぶ、ずっといっしょだよ」
思考が一瞬、鈍くなる。
(……一緒?)
それは、カカオの友達が何度も繰り返してきた言葉。いつだって優しく、安心させる響きだった。
でも。
本当に?
目を閉じたくなるその甘さを、強く睨み返すように、心の奥から声が上がる。
(……違う)
これは『一緒にいたい』んじゃない。
これは『一緒にいさせよう』としている。
強制だ。
カカオの友達はこちらの意思を無視し、無理やり『私たちの中』に入り込んでくる。
『絆を感じる』んじゃない。
『絆を作らされている』。
その正体は──
耳当たりのいい言葉の皮を被った支配と優越感だ。
だから分解は効かなかった。『それ』の体に触れたところで、意味がなかった。
(……そうか)
分解するべきなのは、『それ』の体じゃない。私と『それ』を繋いでいる、私の中にあるものだ。偽りの言葉に包まれて、いつの間にか自分のものになってしまった『つながり』。
それは、本物ではない。
「お前は……私の『友達』なんかじゃない!!」
叫んだ瞬間、世界が震えた。影と同化しつつあった自分が、意識の深淵から浮かび上がっていく。境目が溶けかけていた身体が、再び『私』という形を取り戻す。
でも、『それ』との接続はまだ続いていた。だからこそ、美優は手を胸に当てた。その鼓動に、確かな『私』を感じながら叫ぶ。
「『私の』カカオの友達への絆を──分解する!!!」
次の瞬間、身体の奥深くから──
ズタズタに断ち切られる感覚が走った。
極限の激痛で視界が狭まり、冷や汗が滝のように吹き出す。
心臓が爆発しそうなほど脈打ち、息を吸うこともままならない。
それでも、美優は胸から手を離さない。
(痛い、苦しい──だけど、私がやるって決めたんだ! この痛みも、私が『受け入れて』『乗り越えなきゃいけない』んだ!)
脳裏を駆け抜けるのは、特対室の先輩たちの言葉。
(そうだ……これが『私』の力だ。私が、自分で前に進むための痛みだ。お前になんか、くれてやるもんか!)
美優は必死に叫ぶように、胸を押さえる手に力を込める。
そして──『つながり』が、焼き切れる。
内と外を繋いでいた何かが、焼けた鉄線を内臓から引きちぎるかのような激痛とともに、バチバチと音を立てながら壊れていく。
その瞬間。
「────やめて!!!」
『それ』が、初めて恐怖の声を上げた。
だが、もう遅い。
強制された絆は、美優の手の中で砕けた。
「やめようよ」
「なんでそんなことするの?」
「ねえ、もういいじゃん」
「私たち、友達なんだから」
「友達、友達、友達、友達、友達……」
無数の声が、バラバラに、同時に、違うトーンで囁いてくる。
それはまるで──
『一つの存在』が、崩れながら喋っているかのようだった。
茶色い影が、教室の床に崩れ落ちる。
その輪郭が、歪み、崩れ、液状になって溶けていく。
『私の中』に入り込んでいた存在もまた、怒涛の悲鳴とともに、霧散した。
そして──
世界が、崩れた。
4-5. またね
──静寂が、訪れた。何もかもが崩れたはずのあの空間は消え、美優の耳に届くのは、湿った風が廃校舎の隙間を抜ける音だけだった。
ゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、ひび割れた天井と剥がれかけた黒板。ここは、清嶺学園の旧校舎──封鎖されたはずの廃棄区画。
指先に、ひんやりとした床の感触があった。身体はだるく、呼吸は荒く、喉は焼けるように痛む。けれど、確かに──ここは『現実』だった。
遠くで、誰かの呼ぶ声がした。
「……南雲!」「美優!」「応答しろ!」
その声は、少しずつ近づいてくる。気配が波のように押し寄せ、美優の身体がそっと持ち上げられた。
「……バカガキが、心配かけさせやがって」
雷蔵の声だった。まるで怒っているようで、その腕はとても優しかった。
数日後。
事件は『収束』とされた。
美優は、特対室に戻ってきた。蜘手には、にやけ顔で「まーた勝手に動いてさ、美優くんは」とからかわれながらも、これでもかというほどこってり叱られた。雷蔵には問答無用で拳骨を食らった。正面から、何も言わず、痛みだけをくれた。透真には理路整然とした説教を受けつつ、「異常の残留はゼロだが、油断するな」と全身を隅々まで透視された。
灯里には、何も言われなかった。ただ、心からの心配に潜む僅かな怒りが言葉より強く伝わってきて、美優は自分でも驚くほど、申し訳ない気持ちになった。
蜘手がふと口にした。
「ちなみに、一番心配してたのは轟だぞ」
美優がちらりと轟を見やると、その視線に気づいた轟は、照れ隠しもせず、無言でもう一発拳骨をくれた。
不登校だった生徒たちは、少しずつ学園に戻り始めた。事件の記憶は、曖昧なものとして各々の中に残っていたが、誰も、カカオの友達の名を口にすることはなかった。まるで、最初から存在していなかったかのように。
ただし──失踪者は、戻らなかった。
彼らは今も、どこかにいるのか、それすら分からない。
(……本当に、終わったのかな)
美優はそう思いながら、ベッドに横たわっていた。
そのとき。
スマートフォンの通知音が、鳴った。
一瞬、鼓動が跳ねる。
画面を見ると、表示されたのは──
──新着メッセージ:1件──
送信者:不明
本文:「またね」
美優の手が、画面の上で静かに止まった。
静かな風が、カタリと窓を揺らしていた。
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